第23話 こんがらがる
「筧が藍大をやめて、お笑いの養成所に入るかもしれないって話です」
口にした瞬間、碧の心にはずしりと重りがのしかかる。空気の流れもほんの数秒、止まったようだ。
平然とした表情をしていた戸田が、一気に目を見開いている。ここまで人が驚く顔を、碧は久しく見ていなかった。
「えっ、それマジで?」
「はい。まだ決めてはないみたいなんですけど、特にN-1で一回戦で敗退したのが大きかったようです。このままではいけない。ちゃんとした指導を受けるべきなんじゃないか、みたいなことを言っていました」
「そっかぁ。私は一言も相談受けてないのになぁ。まあそうやって極端に考えるのも、筧らしいっちゃ筧らしいけど」
自分に納得させるかのように言う戸田は、もう缶コーヒーを飲もうとはしていなかった。
筧のことを考えている様子は、碧の心に渦巻く迷いを、そのまま言葉に乗せて吐き出させる。
「戸田さん、私どうすればいいんでしょうか?」
「どうすればって?」
「前に進もうとしている筧を応援すべきなのか。それともまだコンビでいたいって、引き止めるべきなのか。もう私には、どうすればいいか分からないんです」
碧にだって分かっている。戸田に話したところで、問題が全て解決するわけではないことは。
おそらく碧に打ち明けた時点で、決まっていないと言いながら、筧の針は大きく養成所通いに振れていたのだろう。だとしたら自分が引き止めることは、筧を縛ることになる。
それでも碧には、筧と過ごす一分一秒が愛おしかった。初めて本当の意味で、心が通じ合える人間と出会えたと思っていた。
迷い続ける碧に、戸田は少し困惑した表情を浮かべる。それでも次第に冷静さを取り戻して、静かに口を開いた。
「そっか。じゃあ分けて考えてみよっか。まず上野が筧を引き止めて、来年以降もスケアクロウを続けるとするね。やるからには筧も腹を決めて、一生懸命碧との漫才に取り組むはず。続けていくうちにネタも笑いも増えて、大学生会やKACHIDOKIで、結果が出せるかもしれない。まあぶつかるときもあるだろうけど、それも含めて上野にとっては、価値のある時間が過ごせるよね」
「でも、もし本心では筧がまだ養成所に行きたいと思ってたら、どうしたらいいんでしょうか。ただの相方である私が、筧の人生を縛っていいわけがないと思うんです」
「なるほどね。じゃあ次は、上野が筧の決断を尊重して、筧が藍大をやめたとしよう。コンビ解散ってことは、もしまた漫才がしたいなら、今度は上野が相方を探さなきゃいけない。私や西巻に声をかけるか、それとも新入生を勧誘するか。いずれにせよ、新しいコンビが組めたとしよう。でも、次に考えなきゃいけないのは、どっちがネタを書くかだよ。その相方の考え方次第では、もしかしたら上野がネタを書くことになるかもしれない。スケアクロウのネタは全部、筧が書いてるんだよね?」
碧は頷く。薄々考えていたことでも、改めて口にされると、避けられない決まった未来だと思えてくる。
「私もネタを書いたことあるけど、ネタ作りってのは大変な作業だよ。ボケ一つ書くにも、四六時中考えてないと浮かばないし、いざ文章にしても見返してみたら、まるで面白くなかったってこともザラだから。しかもそれを何回、いやネタの長さによっては、何十回と繰り返さなきゃならない。脳だけじゃなく、心も振り絞るからね。たぶん上野が想像しているよりも、三倍はしんどいと思う」
声高に脅すことはせず、戸田はあくまでも落ち着いて伝えてくる。
それでも碧は、喉元にナイフを押しつけられたように感じた。ネタ作りという未知の世界に飛び込むのが、恥ずかしいけれど怖い。
自分が面白いネタを書けるか、そもそも一本のネタを最後まで完成させることができるか、自分でも驚くほど自信がなかった。
ネタを書ける気がしないから、まだネタを書いてほしいと筧を引き留める。どうしようもなく格好悪いことだと分かっていながらも、碧は自分の中に生まれた後ろめたい気持ちを、否定できずにいた。
「私にネタが書けますかね……?」
呟いた声は情けなくなるほど、小さかった。戸田も眉をひそめている。
煮え切らない自分の姿を、誰も気にしていないことが、そのときの碧にとっては唯一の救いだった。
「大丈夫、上野ならきっと書けるよ、って言いたいんだけど、それは私には分かんないよ。だって私は上野じゃないから。もちろん書くとなったら応援するし、アドバイスもほしいならするけど、書くのは上野自身だからね。本当に最後のところでは、誰にも頼れないよ」
厳しくも、紛れもない現実を突きつけられて、碧は言葉をなくしてしまう。今でも新ネタを書いている筧が、遠い存在に思えた。ネタ合わせのときは、あんなに近くにいるのに。
「まあ、でもそれは、もし筧が藍大をやめたらの話だしね。上野が引き止めたり、筧が考え直して、スケアクロウを続けるっていう未来も全然あるわけだし。どっちにしても、お互い納得できるように、話し合った方がいいと思うよ。私としては、筧は大事な部員だから、できることならALOにいてほしいけどね」
言いたいことを言い終えたのか、戸田は缶コーヒーを飲んで一呼吸ついている。わずかにだが緩む、二人の間の空気。
だけれど、碧はパックジュースに未だ手をつけられなかった。喉は渇いてはいるものの、金縛りに遭ったかのように身体が動かない。
頭は、筧が自分の前からいなくなる未来を想像している。碧はかぶりを振りたかったけれど、心の中でさえうまくいかなかった。
何が筧のためになるのか。何が自分のためになるのか。
戸田に話しても問題は解決しないことは分かっていたけれど、それでも少しは自分の考えを整理できると思っていた。なのに、今の碧は話す前よりも、こんがらがっている。
次に筧と会うのは、明日の夕方だ。そのとき、自分は何を話せるだろう。
漫然と戸田の周辺に目を向ける碧。三限の終了を告げるチャイムが、遠くで鳴った。
藍佐祭後、一月のKACHIDOKI予選の前に、碧たちはもう一度舞台に立つ機会を得ていた。一二月の第二週の日曜日に、他大学との交流ライブがあるのだ。
五十鈴大学のDUAL、西方大学のMOSES、そして藍佐大学のALOが参加する交流ライブは、三大学の交流を深めるためと言えば聞こえはいいが、実際はDUALが実績でも在籍人数でも圧倒していて、他の二大学は、毎年のことだからという理由で呼ばれているだけにすぎない。
それでも大学お笑いきっての大手サークルであるDUALと、老舗サークルであるMOSESとの交流は碧たちにとって、マイナスに働くことはない。
DUALは去年のKACHIDOKIで優勝している。大学お笑い界のトップレベルのネタを間近で見られることは、今年の優勝を目指す碧たちにとっても大きな刺激になる。
さらにDUALには、平川と新倉の「エメラルドシティ」も在籍していて、今回の交流ライブにも出演するという。
だから、碧は明確なモチベーションを持って、日々のネタ合わせに臨んでいた。
「じゃあ、今日はこれくらいにしよっか。碧も疲れたでしょ」
夜の七時近く。一呼吸ついてから告げてきた筧に、碧も小さく頷いた。もう三時間ほどネタ合わせを続けている。筧家の夕食の時間も考えると、これ以上の長居は難しかった。
「碧は明日バイトだよね。どう? 年末も近づいてきて忙しくなってきたんじゃない?」
「別にいつもと変わらないよ」
碧ははにかむ。だけれど、自分の表情が不自然なのは、筧の微笑みがぎこちないことで分かってしまう。
藍佐祭が終わってから二人は、それぞれ吉浦と会ったことを言い出せずにいた。少なくとも碧は、筧が吉浦と会ったであろうことは感づいていたが、おそらく吉浦は筧にも厳しい言葉を投げつけたはずだ。確認するのは、自分も筧も傷つきそうで怖かった。
一階から感じる無視できない人の気配。碧は一刻も早く、ここから離れなければいけないような気がした。
「じゃあ、私そろそろ行くね。また金曜にね」
そう言って、碧はドアノブに手をかけようとする。だけれど、筧の呼び止める声に、碧の動きも止まった。
「ねぇ、碧。大学やめるかもしれない件なんだけどさ」
聞き流せない言葉に、碧は振り返る。
筧の目は少しも揺らいでいなくて、碧は次に出てくる言葉を、なんとなくだが察してしまった。
「私、やっぱり養成所に行きたい。ちゃんとお笑いを基礎から学んで、もっとお客さんを笑わせられる芸人になりたい」
はっきりと鼓膜を揺らした言葉は、碧が想像していた通りだった。
なのに、頭は受け入れることを拒む。
「それってつまり藍大をやめるってこと……?」
「うん。できることならそうしたいと思ってる。まあ、まだ親にも話してないから、何かが決まったわけじゃないんだけどね」
立ったまま語る筧の姿が、碧には蜃気楼のように、少しだけ揺らいで見えた。未来が徐々に狭められていく感覚。息苦しい。
「そんな、大学やめるってったって、ALOはどうすんの? 瀬川さんや戸田さん、西巻さんを置いてくつもりなの?」
「それは言い方が悪いよ。でも、そう言われても仕方ないね。ただでさえALOは、KACHIDOKIに出れる人数ギリギリなんだから。瀬川さんだけじゃなく、私も抜けるとなったら、新入生を少なくとも二人は入れなきゃいけないし。心から申し訳ないなと思うよ」
「でも」。筧の声は力強かった。
もう答えは出ているかのように。進むべき道を、明確に見定めたかのように。
「ALOに入ってからの二年近くで分かったよ。私は大学でお笑いを終わらせたくない。芸人になってお客さんを笑わせることが、今の私の夢なんだって。その夢の実現のためには、もう藍大やALOに留まっていられないの。養成所に通って、しっかりお笑いを学び直さないと」
筧の言葉は、決められたセリフを読んでいるのではなく、きちんと自分の言葉だった。夢であり、願望だった。
ここまではっきり言われると、自分にできることは何もないように、碧には思えてくる。自分は筧の通過点にしかなれないのだという思いが、深く胸を刺した。
(続く)
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