第21話 祭りの終わり



 耳触りのいい洋楽が流れている。毎回聞いていて、碧にはもう鼻歌で歌えるほどだ。


 隣に立つ筧もすっかり場慣れしたのか、緊張を感じさせない精悍な表情を見せている。


 音楽に混じってぽつぽつと聞こえてくる人々の話し声に、碧は一段と気を引き締めた。


 しっかりと観客全員を笑わせて、満足のできる終わり方をしよう。


 二人以外は誰もいない舞台裏で、碧は使命感に燃えていた。これから立つ藍佐祭最後の舞台に、一つも悔いを残さないように。


 開演時間間際になって、瀬川と戸田が受付を切り上げて舞台裏に戻ってくる。自分たちに向いた二人の目に、うっすらと不安が滲んでいるのを碧は見た。


 ウケるかどうか、まだ心配なのだろうか。


 だけれど、自分たちはここまでの七ステージ全てで確実に笑いを取っているし、最後の出番も今の調子を維持できれば大丈夫だ。


 もっと自分たちを信じてほしいと、碧は目線を返す。だけれど、瀬川たちはこれといった反応を見せることなく、長机の上に置かれたタブレットを手に取っていた。


 会場に流れる音楽はアップテンポな登場曲に変わり、弾き出されるように碧たちは舞台に歩み出る。


 観客の前に姿を現すと、碧は例に漏れず「どーも!」と言いながら、仮設の舞台に上った。


 三〇席のキャパシティーに、観客は二〇人ほど。最後にしてこれまで一番の客入りだ。碧のモチベーションも俄然上がる。


 だけれど、後ろを歩く筧から発せられる雰囲気が、どこかぎこちないように碧には感じられた。声は出ているのに、喉の奥は詰まっているような。藍佐祭最後の出番だから、気負っているのだろうか。


 センターマイクの前に並んで、挨拶をしたときも筧の横顔は少し固かった。何か見てはいけないものを見ているみたいだ。


 かすかにアラートを発している筧の横で、碧にできることは、これまでと同じように漫才を始めることだけだった。


「いきなりなんですけど、海外旅行って憧れますよね」


「まあ私たちの身では、したいと思ってもなかなかできませんからね」


 八ステージ全てで違うネタを披露することは、碧たちにとっては困難で、自然と四つのネタを二回ずつ披露することになっていた。


 デビューライブではスベりまくった海外旅行のネタも改良を重ねているし、自分たちの技術が向上している自覚が碧にはある。実際、一昨日披露したときもそれなりにウケた。だから、今回も大きな心配はいらないだろう。稽古の成果を発揮できれば問題ないはずだ。


「お待たせしました。こちらデスノートになります」


「いや、不吉! パスポートですよね!?」


 披露される漫才に、客席も碧が不満に思わないくらいにはウケている。少なくともデビューライブの二の舞にはなっていない。


 最初は少し硬さが見られた筧も、ツッコんでいるうちに徐々に調子を取り戻している。


 和らいだ空気が流れる教室。


 だけれど、碧には窓側の最後列に座る、一瞬たりとも笑わない女性が、どうしても気になってしまう。凝り固まった表情は、碧たちを冷酷に値踏みしているかのようだ。


 その女性、碧には女子学生に見える、の周りだけ空気が冷えているのが分かる。碧はもっと肩の力を抜いてほしいと、思わずにはいられない。心の中で笑っているのなら、それを表に出してほしい。


 舞台からはっきりと見える一人一人の表情は、どんなに小さくても漫才に影響を及ぼしてしまうのだから。


「これで海外旅行の準備は完璧ですね」


「いや、そんなわけないでしょ。もういいよ」


 藍佐祭最後の出番を終えた二人を、暖かな拍手が包む。事前に予想したぐらいにはウケた。だけれど、件の女子学生は最後までクスリともしなかったから、笑いの量ほどの手ごたえは碧にはなかった。


 BGMに押されるようにして、舞台からはける。舞台裏に戻っても、碧は筧と言葉を交わせない。


 それでも、筧の表情にうっすらと立ちこめる暗い雲を碧は感じてしまう。立ち姿から、人を寄せつけないオーラが出ている。


 だから、碧は筧にこれといった働きかけができなかった。もとより幕間の時間は短いし、碧はこの後の二組のネタを撮影する係になっている。


 立ち尽くしている筧のことは心配だったが、碧は軽く見つめるだけにして、廊下を経由し、客席の後方へと向かった。スマートフォンを構えると、筧の姿は暗幕に遮られて完全に見えなくなる。


 いったい今はどんな表情を浮かべているのだろう。


 素早く切り替わるBGMは、碧に考える暇を与えない。録画ボタンを押して、画面の中に映る西巻を眺める。


 碧たちのときには微動だにしなかった女子学生が、西巻の登場時には小さな拍手をしていた。





 ALOのお笑いライブは一四時には終わっていたけれど、教室の片づけは藍佐祭の全ての日程が終了する一七時まで、待たなければならなかった。碧は筧と他のサークルの展示を見て回りたかったが、用事があると断られた。


 一七時までの自由時間、碧は一人で大学構内を回った。映画研究会の短編映画を観たり、軽音サークルのライブを聴きに行ったり。


 でも、何をしていても筧が隣にいないことで、碧の心には小さな穴が開いてしまっていた。各サークルの渾身の発表も、一〇〇パーセント楽しめずにいた。


 五人が再び二二三号教室に集合して、後片付けを終えたのは、夜の七時を回った頃だった。空はもうとっくに暗く、大学構内はしんと静まり返っていて、四日間続いた盛り上がりが泡沫の幻のようにさえ碧には思えた。


 打ち上げは駅前の居酒屋で、八時から予約されているから、碧たちは再びつかの間の自由時間を得る。


 部室に荷物を置いていきたかった碧は、筧たちを先に駅前へと行かせた。八時までには行きますと言いながら。


 ALOの部室がある部室棟は学生食堂のさらに先、北門の側にあった。薄暗い廊下を、心細い思いをしながら碧は歩く。


 暗証番号を入力して鍵を開け、照明をつけると、手狭な部室が現れた。でも、棚には本や漫画が整然と並べられ、床には埃一つ落ちていないから、碧はそれほど狭苦しさを感じない。きれい好きな戸田が、こまめに掃除をしているのだ。


 荷物を部屋の片隅に置いて、足早に部室を後にする。ほの暗い部室棟の空気に、碧は長い間留まっていたくはなかった。


 でも、部室棟から出た碧は、そこで足を止めてしまう。入り口の前に一人の女子学生が立っていたからだ。


 藍色のカーディガンにクリーム色のスキニー。栗色に染められた髪が、夜でもはっきりと目立っている。


 人形みたいに整った顔を持つ女子学生の姿に、碧は見覚えがあった。今日の午後の部に教室にやって来て、自分たちの出番中くすりとも笑わなかった、あの女子学生だ。


 いったい自分に何の用だろう。


 碧は曖昧な表情を浮かべたまま、軽く会釈して、その場を通り過ぎようとする。


 だけれど女子学生の、見た目に似合わず低めの声が碧を呼び止めた。


「ねぇ、君。さっきお笑いライブに出てたでしょ。スケアクロウってコンビ名で」


 射抜くような鋭さを持った声に、碧は立ち止まる。「え、ええ」と煮え切らない返事しかできない。


 同じぐらいの背丈だから、碧は女子学生と目が合う。刺すような目は、いわゆる出待ちではなさそうだった。


「全然面白くなかったよ。ボケもツッコミもキレが悪くて、笑うに笑えなかった。いや、そもそもネタが悪いのかもね。他の人は笑ってたけど、私には一個もおかしいとは思えなかった」


 この人はわざわざ何を言っているのだろう。悪かったと、本人に面と向かって言う必要があるのだろうか。


 だけれど、碧はその場から離れることはできなかった。女子学生が放つ剣呑な雰囲気に、見えない手で押さえこまれているようだった。


「まあ、でもある意味では君も被害者か。筧希久子っていう、才能はないのにやる気だけは一人前な理想主義者の」


「……あなた、いったい何なんですか……?」


 女子学生の言い方が腹に据えかねて、碧は尋ねていた。


 でも、女子学生は眉一つ動かさない。涼しい表情のまま、感情に乏しい声で言ってのける。


「私は吉浦晴香よしうらはるか。筧希久子の元相方だよ」



(続く)

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