第19話 狂えない



「私さ、大学やめるかもしれない」


 筧は碧の目を見てはっきりと言った。まるで予想していなかった言葉に、碧の頭は大いにうろたえる。


 本当に? それってコンビ解散ってこと? 私の前からいなくなるってこと?


 言いたいことはいくつも浮かぶのに、口はうまく動いてくれない。次に何か言われれば、自分のなかの大事な部分が崩れそうな気がする。


 碧は、ただ瞬きをするだけの機械に成り下がっていた。


 受け止めきれないといった表情をしている碧に、筧は続ける。


「あっ、でもさ、単位が足りなくて卒業できないとか、学費が払えないとか、そういう後ろ向きな理由じゃないから安心して。もちろんALOや碧のことが嫌になったわけでもないよ」


「でも、やめるかもしれないんでしょ……?」


 碧が尋ねるように繰り返すと、筧は小さく「うん」と答えた。


 家に両親が帰ってくる気配はない。碧と筧の時間を、いたずらに引き延ばしている。


「私さ、養成所行きたいんだ」


 たった数秒にも満たない言葉。


 だけれど、碧はそれだけで筧が考えていることを、おおよそ把握してしまう。


 間違いなくそれはいばらの道だ。


 筧はなおも続ける。自分自身に確かめるかのように。


「私たちさ、大学生会もN-1も一回戦で落ちたじゃん。私、それが本当に本当に悔しくてさ。しばらくは何も手がつかない状態が続いた。何がいけなかったんだろうって、何度も自分を責めたよ」


 切実な筧に碧は、口を挟めない。筧の横顔は、ガラス細工みたいに脆かった。


「それで、ふと思ったんだ。このまま独学でやり続けて、未来はあんのかなって。一回、ちゃんとプロの指導を受けた方がいいんじゃないかって。一度思っちゃうと、どんどんその可能性は膨らんできちゃって。そうすべきだとしか考えられなくなったの」


 口にしながら、筧がまだ迷っていることが、碧には手に取るように分かった。ALOや自分と、養成所に通うことを天秤にかけている最中なのだろう。


 引き止めなければ。筧が遠くに行ってしまう。


 でも、それは本当に筧のためになるのか?


 碧も何度も考える。明確な正解なんて出せるはずもなかった。


「まあ、養成所に行くって言っても、別に今すぐのことじゃないから。養成所の入所は四月からだから、やめるにしてもそれまでは大学にいるよ。藍佐祭だって、KACHIDOKIだって、その後の追い出しライブだって、ちゃんと出る。碧と一緒に舞台に立つから」


「……でも、その後は……?」


 筧はすぐに答えなかった。ただ黙って窓の外を見つめている。


 空は青なのか黒なのか判別できない色で広がっていた。


「ねぇ、碧。こんなこと言うのどうかしてるって自分でも思うけど、言うね」


 再び自分に向いた筧の瞳に、碧は息を呑む。奥に覗く暗闇に、吸いこまれそうだ。


「私と一緒に養成所行かない? 二人で大学やめてさ、外の舞台でスケアクロウ続けようよ」


 囁くような筧の声は、過剰な甘さを持って碧を誘惑した。


 二人で授業を受けたり、ネタを磨いたり、今よりももっと長い時間を一緒に過ごすことを考えると、碧の心は養成所通いに吸い寄せられていく。


 でも、頭に残った理性が、流されそうになる碧にブレーキをかけた。


 自分は大学に通わせてもらっている身だ。親は自分の授業料を全額出してくれているうえに、月三万円もの仕送りをしてくれている。


 それに大学中退では就職しようにも不利な立場に置かれるし、そもそも養成所に通ったところで、自分たちがお笑いの仕事だけで食べていけるようになる保証もない。


 碧は筧のように狂えなかった。考えれば考えるほど、現実的な部分が顔を出してしまう。


 でも、口にすればそれは、筧をも否定することになるから、碧ははっきりとは言えなかった。目を左右に泳がせるだけ。打ち明けてくれた筧に、情けないことこの上ない。


「まあ、ここで決めろって言われても無理だよね。それこそ人生の大きな分かれ道なわけだし。私だってまだ決めたわけじゃないしね。ゆっくり考えてけばいいよ。お互いにね」


 はにかむ筧。でも、その笑顔が碧には作り物めいて見えてしまう。


 碧だって分かっている。


 筧が今回打ち明けたのは、きっと背中を押してほしいからだ。「分かった。がんばってね」と、応援してほしいからだ。


 だけれど、今その言葉を碧は言うわけにはいかない。終わりが決まっているなかで、今までと同じモチベーションを保てるか、碧には自信がなかった。


 もっと筧と漫才がしたい。たったそれだけのことが、どうしても口に出せない。


 結局、これといった結論は出せないまま、碧は筧の家を後にしていた。


 すっかり覚えてしまった道を、駅に向かって歩く。涼しい風に当てられて、時折小さな鳥肌が立った。





 聞こえてくるのは、人々の話し声。伝わってくるのは、この瞬間の高揚感。


 一一月二日。それなりに多くの学生が待ちに待った、藍佐祭の初日だ。


 今年の藍佐祭は日程にも恵まれ、三日から五日は祝日土曜日曜と三連休だ。平日である今日も、屋外ではサークルに所属する学生たちが屋台を出し、あちこちの教室でライブや展示会が開かれている。


 高校とは全く違う規模感に、室内にいても碧は驚いていた。平日でこれなら、明日からの三日間はどうなってしまうのだろう。構内は人で溢れ、文字通りのお祭り騒ぎが、いたるところで繰り広げられるのだろうか。


 もしかしたら、その流れで自分たちの二二三号教室にも、観客がたくさん入ってくれるかもしれない。


 そんなことを考える碧の横で、筧は飄々とした顔で座っていた。藍佐祭の空気にも、浮き足立ってはいない。


 二人のもとに見知らぬ学生がやってくる。ALOのお笑いライブの会場はここですか? と聞いてくる男子学生に、筧が丁寧に案内している。


 言われるがまま教室に入っていく二人を見て、碧は心の中でガッツポーズを作った。開始五分前の段階で観客は既に二桁を越えている。デビューライブの二の舞には、ならなさそうだった。


 時刻が一〇時二九分になったのを確認して、碧たちは後ろのドアから教室に戻った。


 縦に積まれた机と、その上からかけられた暗幕が、客席と舞台裏とを隔てている。戸田は表で撮影係に回っているから、舞台裏にいるのは瀬川と西巻のみだった。


 軽く挨拶を交わすと、瀬川はタブレットを操作し、客入れのBGMを止めた。代わりにどこから見つけてきたのか分からない、アップテンポなインストゥルメンタルを流す。


 西巻が一つ息を吐いて、舞台に出ていく。形式的な拍手は、デビューライブのときよりも大きい。初日午前の部の出演順は、デビューライブとまったく一緒だ。


 西巻が卸したての新ネタを披露している。込み入った肩書きの人物が意味不明な専門用語を連発してインタビューに答えるという体の一人コントは、会場の空気からまあまあウケている様子だった。


 舞台裏。まもなく戻ってくる西巻の邪魔にならない位置に、碧たちは立つ。どんなに小声でも、客席に聞こえてしまう恐れがあるから、碧たちは何かを喋るわけにはいかなかった。


 西巻のネタが進んでいくにつれて、碧はデビューライブを思い出す。


 あのときは舞台に立つのが、とてつもなく怖かった。西巻のネタが一秒でも長く続くことを願っていた。


 でも、今は違う。もちろん舞台に立つ怖さはまだあるし、失くしてはいけないものだとも思う。


 筧の大学をやめるかもしれない件も、何一つ解決していない。


 その上で碧は、舞台に上がった自分たちに期待した。稽古の成果を存分に発揮して、観客を笑わせている自分たちを想像した。


 幸い今日は、西巻が十分に会場を温めてくれている。


 受け取ったバトンをより加速させて、瀬川たちに渡す。その役割を全うできる予感が、碧にはしていた。


 西巻が予定時間ぴったりにネタを終えた。客席から起こった拍手は、西巻が起こした笑いへの対価そのものだ。


 瀬川がBGMを流し、西巻は舞台裏に引き上げる。表情にはトップバッターの役目を終えた達成感が滲んでいた。


 碧は筧とアイコンタクトを交わす。


 余韻なんていらない。ここで一気に畳みかける。


 西巻が下がってから一分もしないうちに、碧たちは昨夜設営した仮設ステージに上がった。


 ビールケースを数十個並べて、ビニール紐で縛り合わせ、その上にベニヤ板を敷いたステージは、歩くだけで少し足元がぐらぐら揺れる感覚があって、正直万全ではない。


 だけれど、碧たちは何事もないかのように、戸田が素早く立てたセンターマイクの前に並び立った。


 ぱっと見た限りでは観客は一二、三人といったところ。暇を持て余しているといった風情の学生のなかに、地域住民と思われる大人が混ざっている。


 「よろしくお願いします」と二人で頭を下げてから、碧はマイクなんてないつもりで切り出した。



(続く)

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