みちづれ

紅葉 日和

久本

 一ヶ月にも及ぶデスマーチが明けて、完全な休みを翌日に控えた週末のこと。

 俺はカタカタとPCでコミュニケーションツールを操作し、一件の連絡先に電話を掛けた。

 接続待ちのメロディが響き、数秒してからピコン、と気の抜けた接続音が再生されるのを確認すると、PC横のラックに引っ掛けてあったヘッドセットを装着し、 

 

 「聞こえる? 久本」


 電話口の向こうの友人、久本に声をかけた。

 久本、彼は中学校から友人で社会人になって彼が地元で就職、俺が上京してからも、週末に暇があればゲームをして遊んだり、通話を繋いで駄弁る仲。

 暇があれば、とは言うものの、生憎のロマンスの欠片もない喪男の俺たちには暇しかないので、実質毎週末駄弁っていた、そんな記録を打ち崩したのが俺のデスマーチというのが何とも物悲しい。

 

 そして一向に返答がない。

 マイクの不調か? とボリュームを見れば、インジケーターはしっかりと反応している。

 もう一度話してみようと口を開いた瞬間

 

 彼は

「家がな、なんか薄暗いんだよ」

 くぐもった声色で言い出した。

 余りにも脈絡なく飛び出してきたその言葉に俺が呆気にとられていると、彼は全く同じ声量、声色で。

「家がな、なんか薄暗いんだよ」

 もう一度、そう言った。

 

「……え?どうした?」

 半額で購入したサイズの合っていないヘッドセットの位置を調整しながら、こいつのことだからいつものつまらない冗談だろう、と、自分を落ち着かせるように言い聞かせて、平静を装いながら彼に問いかける。

「だからな、家がな、なんか薄暗いんだよ」

「家って、お前確か実家暮らしだよな?引っ越しとかしたん?」

「ううん、ほら、お前も来たことあんだろ?」

 

 確か、久本の家は中学校近くの団地だったはずだ、何度か遊びに行ったから覚えている。


「薄暗いって、何がだよ?室内の明るさの問題だよな?ちゃんと電球とか変えてるか?それか家族が節電に凝り始めたとか?」

「いや、薄暗いんだよ」

「…………」


 あいも変わらず久本は同じ言葉を繰り返す。

 どうしたものか、会話にならない。

 こんなこと、長年付き合ってきて始めてだ。

 うーん、考えたくないけど、仕事とか友人関係のストレスとかで鬱っぽくなってるとか?鬱傾向がある人は視界に黒いモヤが掛かったみたいになるって言うしな……

 など、さてどう返答しようか、と思案していると、ある違和感を抱いた。

 コミュニケーションツールの彼のアイコンが、僅かに明滅しているのだ。

 ツールには複数人で通話する時などで話者を特定しやすくするため、何か話せばアイコンが明滅する機能がある。

 

 そう、何か話せば、アイコンは明滅する。

 けれども、返答に困って俺が沈黙してから、彼もまた沈黙しているのだ。

 周囲の騒音を拾って明滅することもあるにはあるが、今まで通話をしてきて一度もそのような事は起こっていないので、彼の周辺でそのような騒音が発生する要因はないはずだ。

 だったら何故……

 

 しかし、この疑問はすぐに払拭された。ふと、PC下部のボリューム設定を見ると、何故か音量が引き下げられていたのだ。

 あぁ、さっき音量を確認する時に勢い余ってここも弄ってしまったのか、そりゃ聞こえない筈だわ、と自己完結した俺は、下げられていたボリュームをいつもの音量に戻した。

 戻さなければよかった。


「ごめんなさい聴いてくださいごめんなさい聴いてくださいごめんなさい聴いてくださいごめんなさい聴いてくださいごめんなさい聴いてくださいごめんなさい聴いてください早く早く早く早く早く早く早く早くごめんなさい聴いてください」

「ひッ……!!」


 余りの衝撃にヘッドセットを外し、壁に向かって放り投げる。

 カシャン、フローリング材の床に落ちたそれを、未だ薄っすらと声が聴こえるそれを、涙でぼやけた瞳で俺は呆然と見つめていた。

 なんだ?何が起こっている?

 声は久本のモノだった、聞き間違える筈がない、いつも聴いているあの声、だが、まるでコピー機が用紙を吐き出すような抑揚のないトーンや、何よりもその内容が異常だ。

 絶対に冗談なんかじゃない。

 

 このまま彼の声を聴いていると、何かイヤなことが起きるような気がして、俺はパソコンを操作し音量をミュートに切り替えようとした。

 すると、ヘッドセットから微かに聞こえていた声も、アイコンの明滅も収まっている事に気がつく。

 恐る恐る、落ちているヘッドセットを拾い上げ、少しだけボリュームを下げて、装着する。

 やはり声は聞こえない。

 急な終息に若干安堵した俺は、マイクをトントン、と叩いて彼の様子を伺う。

 反応はない。


「……久本……?」


 反応はない。


「どうしたんだよお前、おかしいぞ」


 反応はない。


「な、なんかあったんならさ、話ぐらい」

「俺何にもしてないんだよ」


 あいも変わらず無機質な声が返ってくると同時に画面が、音声通話からビデオ通話に切り替わった。

 そこには、久本が映っていた。

 なけなしの給料を叩いて買ったと自慢していたゲーミングチェアに座っている彼は、微動だにせずに画面越しの俺をぼうっとした瞳で見つめている。

 カメラの位置が高いため、手元は見えないが、微弱な振動を感知してカメラが揺れているため何らかの作業をしているのだろうか。

   

 そして、背景に映る彼の部屋は、彼の訴えとは裏腹に、至って普通の、何なら昔遊びに行ったときから何も変わっていなかった。

 シールが貼られたタンスも、巻数がバラバラの漫画で埋め尽くされた本棚も、あの頃のまま、ただ、画面中央に座る部屋の主だけが、年相応に老けている。


「ただ見ただけじゃんか、なのにさ、こんな事になっちまってさ、おかしいよな」

「は……?なんのことだよ」

「ごめん、ごめんな、こんな俺に構ってくれるのお前だけだからさ、でもさ、でもさでもさぁおかしいじゃんかよぉ……」

「んだよさっきから……はっきり言えや!」


 埒が明かない久本の態度に痺れを切らした俺は、テーブルをドンと叩き、彼に苛立ちを隠さずそう言った。

 その瞬間。


「女が飛び降り自殺するとこをなぁ、見ちまったんだよぉ」


 久本は、粘っこく糸を引く口を歪ませながら、そう言った。


「警察に通報してさぁ色々話聞かれてさぁ、普通はそこで終わりじゃんか、だって、俺とその女は面識なんてないんだぜ?でもさでもさでもさ」



「その日から、その女がさぁ、視界の端に映るんだよぉ……」


 彼は笑っている。

 何もかも諦めたような表情で、せめてもの悪あがきと言わんばかりに声を上げて。


「女を見てるとさぁ……目の前が暗くなんだよ、したら、あぁ……死にてぇなぁって、思うようになってさぁ……」


 カメラの振動は大きくなる。

 そして、音を、マイクは拾い始めた。

 嫌な予感がする、久本に何をしているのか尋ねようとしたその時だ、振動に耐えきれず、カメラの画角が下がり、手元が映った。



 指を切っていた。

 包丁で、自分の右手の指を刻んでいた。

 親指は既に切除され、半端に引っ付いているのは中指と小指、そして今まさに切り取られたのは人差し指。

 だくだくと流れるドス黒い血はテーブルを汚し、画角の端に映るキーボードにも赤い斑点が付いている。


「痛ぇよぉ……痛ぇ……」


 嗚咽混じりの声を挙げながらも、久本は手を止めない。

 彼は包丁を、今度は辛うじて中指と呼べる肉塊に振り下ろした。

 俺は咄嗟に目を逸らしたが、だんっ、と断裂する音はしっかりと聞こえた。

 

「死にたくねぇよぉ……! でも死ななきゃ駄目なんだよぉ……!!」


 粘っこい彼の言葉尻は徐々に跳ね上がって、既に絶叫の域に達していた。

 死にたい、死にたくない、メトロノームのように言葉を繰り返す。

 その間も何かを断つような音は止まらない、指は全て切り落としたのだろうか、もしかしたら腕も切り刻んでいるのかもしれない、或いは……。

 嫌な想像が止め処なく溢れてくる。


 もう限界だった、こんな普通でない状況から逃げ出したい、そんな思いで、俺は通話終了ボタンを押そうとした。

 その時だった。


「ごめんなぁ……」


 彼は一言そう呟いて、自分から通話を切断したのだ。

 今まで見ていた悪夢のような光景は勿論消え失せて、俺はいつものデスクトップ画面に戻ったPCの画面を、呆然としたまま見つめていて。

 そしていつしか俺の意識は遠のいていった。

 

 俺の意識を現実に引き戻したのは、窓から差し込む朝日。

 夢であったら良かったのに、そんな俺の希望を打ち砕いたのは、俺と久本の共通の友人からの、久本の訃報であった。

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