2話目

そして私はその集落の長に案内されながら中に入る。その集落は木でできた高床式のような住居が五、六ほどあるだけで、坂に沿う様に作られており、皆犬を飼っていた。


その犬はよそ者の私に吠え、そして家人に怒られて吠えるの止めるという、一連の手順を全家庭分繰り返す。最後にその集落の一番上の、ちょっとした広場のような場所に案内される。


そこの広場でテントを張らせてもらう事となった。私は礼を言い、そこにあった白いプラスチックの椅子に三十分ほど腰かけた後、テントを荷物から出す。


そして同時に荷物を広げ悩む。はっきり言って余計な物が多い。使わない道具が無ければ腱を切る事もなかったのではないか。まずは携行物の軽量化が必要だろう。


どうしたものかと考えていると、集落の子供達が漫画のように塀からこちらを覗いてみている。


彼らに笑顔を向けると子供達は寄ってきた。異邦人、それも肌の色すら違う私が珍しいのだろう。子供達は快活な男の子と、太った女の子と、痩せて綺麗な女の子の三人だった。


男の子は太った女の子が好きなようでちょっかいをかけつつも、集落の周りを案内してくれた。太った女の子はちょっかいに反応しながらも一緒に回った。痩せた綺麗な子は少し引っ込み思案ながらも、なぜか私に食べ物やお菓子をちょいちょいプレゼントしてくれた。


案内をしてくれた後、男の子は弓矢を持ってきて弓の打ち方を教えてくれた。弓に詳しく無いが、大きさからして短弓と呼ばれる物であろう。私は弓を全く知らなかったが、男の子に撃ち方を教わるとうまく撃てた。


漫画みたいに弓を横にしないのかと聞くと、そんなのしないと首を振る。案内するときはかっこつけて木の棒を振り回したりと見た限りの子供相応な様子だったが、弓を撃つ事にかっこつけないのは大事な事だからだろうか。


子供達に何日居るのかと聞かれたが、流石の疲労からか一日と答えられず、二日と答えた。一応ここの長にも一日、二日と答えたからたぶん平気のはずだ。


そして日が暮れると、その男の子の家族が家に招待してくれた。高床式の家の中に入ると、いきなり居間で奥にテレビが一つあり、子供が六人ぐらい居た。


招待してくれた方はタクシーの仕事をしている男性で、子供の親かと思ったがなんと兄弟だと言う。何人兄弟だと聞くと、記憶も定かではないが確か十二人兄弟だという。


驚く私に日本はどうなのかと聞かれ、多くても三人だと答えると逆に向こうも驚いていた。


そしてその居間のテレビで映画を見る。とはいえその家は居間しかないようなもので、横に掛布団などが転がっており、あるのはそれと床とテレビだけだ。


その映画のヒロインはなぜか首に「安」の字が書いてあり、あの字の意味は何だと聞かれたので、話す為に持ってきた電子辞書で安いって意味というと本当にそうなのかという話になった。


そのまま夜も更け、彼らと別れる。家々に飼われている犬は昼こそ皆私に吠えたが、夜になった今は目が合っても静かな為にきちんと分別が出来るのかと感心しながら坂を上り、テントで服を着替えて寝る。


そして夜中、事件が起きる。何か尻がかゆいと目が覚めて、月明りだけではテントの中が見えない為にライトを探していると、犬が吠える。その声は集落入り口の低い場所から伝う様にだんだんと上に上ってきて、犬の声が大きくなる。


最初は夜中に誰か外に出たのかと思っていた。しかし、犬達は私や集落の者達に一切吠えなかった。となると今吠えている対象は何だ。


初めての長期の旅で、形だけの夢のような覚悟しかない私は狼狽える事しかできず、急いでライトを見つけ、着ていた物がタイツだけだったので半ズボンをライトで探していると、広場の入り口ぐらいから足音がする。


私はやっとこさ半ズボンを見つけて穿くと、しばらくして今度は犬の吠える声が上から下へと下がっていった。


なんだかよくわからないな、なんだったのかなと思いながらその日は寝直す。そして翌日に、それが集落外から来た者による夜襲未遂であった事に気づくのだ。


次の日は立ち上がる際に脚の力が急に抜け、漫画のようにガクっと膝まづいた。本当に起きるものなのかと感心しつつ、やはりもう一泊良いかと疲労を引きずりながら長に話すと首を横に振られた。


言葉は禄にわからないが、長の申し訳なさそうな顔からも、原因は恐らく昨日の夜襲未遂だろう。私を身を挺して守る理由も無く、集落にやっかいごとを持ち込んだだけの身だ。


私は悲しくなりながらもそれを受け入れて、身支度を済ませて集落を出る。子供達からは二日居るって昨日言ったじゃないかと、言葉が判らないながらもごねられる。私は説明することができないくやしさのまま集落を出た。


そして昨日と変わらぬ坂が迎える。しかし寝た手前、足は動き私は進み続けた。今はそれしかできず、そう決めたからだ。


海外を自転車で走るならば死ぬ危険だってある。ならば命を賭けると決めていたが、それが本当に掠めたのが昨日の夜だ。


覚悟どころか、迫る危機すら気づかずに迎えた一度目だった。命を賭けると誰しもがいつかに言いそうな言葉が、現実味を帯びて私に問いかけ、自身の覚悟の脆弱さが表れる。


だけど、私の夢がこれだった。夢に命を賭けるならばその覚悟は当然必要だ。だがその夢も昨日車に乗った事で泥を塗ってしまった。


しかし私は既に汚れ、歪んだとはいえ夢を捨てられなかった。大事に持ち続けていたそれを、もう一度汚れたまま抱く。


この坂の先に、せめて無舗装路ではなく舗装路が在れば。走りやすいし、押して上るにしても足が滑らない。それにタイヤが正しく回って押すのも楽だ。


だが進むにつれてそんな都合のいい希望も無くなっていく。そして感情のエネルギーを脚に回し、憤る事も、悲しむ事も無くただひたすらに坂を上り、下っていった。


そして期待も無く思考も無く、ただ進むだけの状態で見えたのは黒い道。舗装道路だ。内心唸りつつ、坂を下って舗装路に入る。夢は破れて希望は捨てた。そして求めたものはその先にあった。この想いは未だ私に根付いている。


舗装路を走り始め少しして、泊めてもらった集落よりもずっと立派な村があった。まだ日は高いが疲労もある。ここで一泊を、と舗装路の横にそれて集落に入る。すると村人が集まり、村長らしき者が来て、追い出された。


何を言っているかは変わらず解らないが、何か見下すような、下卑た物言いのように見えた。


私は日本語で悪態を付きその村を出た。だが冷静に考えれば、このブラジルでは自分よりも若い者が立派に働いて家族の為に金を稼いでいる。


この旅は一応、自身でアルバイトを行い稼いだ金で行っているが、いい年をした若者の遊びの手伝いをする必要はないと言われても、それはそうなのかもしれない。


とはいえ断られた事は凡そ世界三十カ国走って、ここと、あと一つしかない。世界は皆大抵は受け入れてくれる。


ただ、久々に思い出しながら書く今気づくが、これは私が強盗を呼び込む可能性を考慮したのかもしれない。


いずれにしても私はまた進む事を決めた。どのみち舗装路まで来たのだ、速度は出るしアップダウンの角度も常識的になった為に押し上らず走り続けられる。


そのまま走り、日が暮れた後で町についた。さてここから泊まれる場所を探すかと思うが、町の入り口の看板を見て、車に乗せてくれた二人が書いた町と同じ文字である事が判る。


ここに着いたら電話をかけてくれと言われたはずだ。しかし電話をかけるにしても、今持つ携帯電話は日本用の物で海外用はまだ一般的ではない時代だ。


何か術は無いかと町中を走ると公衆電話があった。しかしなぜか人が並んでいる。私も列に並び、電話をかけるとコレクトコールのように電話口で電子音声の説明が流れる。


そしてそれは聞こえにくい以上にポルトガル語である為に、全く理解出来ない。私は二度試し、背中に並ぶ人達を見てそのまま電話から離れた。ため息をつき、どうするかと頭を抱えると、並ぶ列から大声で声をかけられる。


なんと車を乗せてくれた人が後ろに並んでいたのだった。


そのままその日の晩は彼らの家に泊めてもらった。世間は思ったよりも小さいのかもしれない。そしてそれは様々な形で知る事になるのだ。


次の日に彼らと別れ、更に進むと国境の町、オイアポケに着く。入り口付近では私より小さな男と、明確に見上げる二メートルを超える大男が話しかけてきた。


大男はどこへ行くと私に話かけてきた。私はギアナへと言うと、驚きと感心の声を上げ、歯が欠けた口で笑みを浮かべて拳をこちらに向けるので、私も拳を合わせた。


その拳は子供の頭ほどもあり、なおかつ拳ダコで硬くなっていた。軽く合わせただけなのに、ドスッと肩まで来る衝撃から、襲われたら本当に手も足も出ないだろう。だが彼は私を感心の眼で見る。彼の確実な強さに対して、意志を貫き通せなかった私の弱さを思うと複雑な気持ちだ。


彼らと笑顔で別れ、そのまま適当に宿を取る。そして数日休んだ後、船で国境を渡る。ギアナフランセースはフレンチ領ギアナ、要はフランスである為にビザ等はシェンゲン条約に基づく。なので特別な申請などは無く、少し車と共に並んだ程度であった。


どちらかと言うと、最初の町ベレンでの船の調達の方が大変だった。というのも、この南米の北側三国を行くと決めた後、インターネットで調べても日本語の記事が一つしかなかったのだ。


ブラジル、ベレンまではアメリカ経由で飛行機の乗り継ぎがあるのだが、このベレンから北に行くにはトカンティス川と、あのアマゾン川を船で渡るしかない。


しかし調べた日本語記事ではその船が無いかもしれないといった事が書かれていたのだ。


だが私は地形上、必ずあるはずだとふんでいた。そうでなければ北側のマカパ側は孤立した状態になる。物流が無いとは考えづらく、地形上この町と町の間に移動手段があるはずだと、無知なりの経験に賭けて今回乗り込んだのだ。


そして現地で調べた所、航路が見つかったという経緯を持つ。肥溜めの匂いのする川で子供が元気に遊んでいたその先に、年期の入った木造の、高速道路のサービスエリアの売店みたいな場所でチケットは売られていた。


なおその船で自転車を乗せるのを船員の子供に手伝ってもらった時、そこでも判らぬ言葉で馬鹿にされた事を今でも覚えている。思えばこの頃から遊びだと言われていたのだろう。


また今この文を書く際に、道順確認の為インターネットで道を見るとオイアポケの国境には橋がかけられていた。


この旅も随分と昔の記憶だ、色々と変わっているのだろう。この時は恐らく船だったと思うのだが。だがあの強烈な未舗装路は航空写真の様子から今も相変わらずのようだ。


記憶を思い出しながら書くこの文は鮮烈な記憶を初めとして書いた為に、足踏みのような旅の初めを省略している。


飛行機でベレンまで行き、マカパに船で二日かけて移動した後に、やっと走り始めるも、縁石に自転車をこすりつけて二万円の自転車用バックに早速穴をあけた。


不慣れながら進み、ポルトグランデではレストランで食事を頼むと、そこの教師の男性がいろいろと親切に町や観光地について教えてくれた。その時出てきた食事はやけに紫色の芋が来たので、意を決して食べると滅茶苦茶普通のじゃが芋の味だった事を憶えている。


そしてその村の少し先に分かれ道があって、アマゾンの森奥か、順路かの二択であったのだが、アマゾンの森の奥に行く度胸が無く先に進む事を選んだ。


その後の道は木々はあれどまるで砂漠のような暑さと乾いた空気の中を進み、鼻奥に砂を絡ませて、走り終わった夜のレストランで水を全力で飲んで上あごが攣った。


そんな道中の二日目に携行水量を完全に見誤り、乾いた四十度の陽の下で水を切らした。水を求めて急ぐあまり小便を我慢していると、しばらくして尿意と渇きが同時に引いた。


膀胱から水分の逆流は可能なのかと感心していたが、その翌日に無事着いた宿で体がうまく動かなくなり、備え付けのウォーターサーバーの水を飲みまくって血の色のような尿が透明になるまで飲み続けると治った。


また別の道で夜になっても町に着かず、砂地に足を取られながら自転車を押して進む。目の前をタランチュラが横断し、それを見送る先に夜空の闇に淡く光るような何かが見えると、そのすぐ後に町が在った事も印象的で憶えている。


その光は恐らく町の灯りなのだろう。しかし日本では夜闇に光が浮かぶ様を見た事は無い。なんというか、明確な光ではないのだ。何か淡く感じる程度の物であるも、それしか周りに無い為に感じる事が出来るのだ。


そのほかにガラナジュースがうまいからと飲みながら走っていると、腕がおかしくなって握力が十キロほどしか無くなり、ブレーキが握れなくなった事もあった。


電子辞書で何が問題かと調べ、ガラナジュースの多量のカフェインからカリウム切れであると予想し、店で散々ミネラルウォーターを探すもカリウムが表記された物は一つも無かった。


だがラベルには見慣れぬ文字が書かれており、まさかと予想して見事に当たったポトシウムの多い水を買うと、握力が戻った事も未だ忘れられない事だ。


しかしその後にはセメントのような水溜りにはまり、握力が戻ってもまるでブレーキが効かなくなる事もあった。恐らくこの時から、自転車の性能向上を意識し始めたのかもしれない。


また、野宿の朝にまるで無知のままガソリンコンロで米を炊き、全く食べられない物を作り出して空腹で叫びながら米を叩きつけた事もあった。


そもそも私は野営の経験が乏しく、一人テントで寝る事はブラジルのこれが初なのだ。知らぬのならばせめて日本で練習をすればと思うだろうが、何を知ればいいかすら判ってなかった。


これらの日々はこの六カ月という旅の中の一月にも満たない旅路であり、私はこの旅を含め、約三年分の旅路がある。


だがそれでもこの日々は、無知で、愚かで、何よりも懸命であった、大切な日々だ。

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