番外編 黒猫と五十鈴屋の夏休み 2

 2日目。


 小鳥のさえずりは聞こえず、大音量の蝉の声で裕昌は目が覚めた。携帯のロック画面には現在時刻が表示されている。「7:30」と表示されていた。寝ぼけ眼でしばらくそれを見つめ、今日の予定は何だっけ、とぼんやりと考える。

 確か9:00から湖畔でカヌー体験、それには8:30には出発しなければいけない。


 今現在の時刻は7:30。



「…………、…………!?やばい!」



 一時間前。朝食と出発準備を超特急で行わなければ間に合わない。

 きっと皆は出発準備を先に終えて朝食をとっている頃だ。裕昌は寝癖もそのままに外へ出た。裕昌以外の六人が既に席に着き、朝食の準備が出来たところだった。

 朝食を運んでいる菜海と晴明が、裕昌に気が付き、声をかける。



「おはよう。ひろ君」


「おはよう、ご飯できてるぞ」


「お、おはよう。ごめん、寝坊した」



 裕昌も運ぶのを手伝う。朝食はホットサンドだった。



「一度声かけても起きなかったら寝かせておこう、って黒音ちゃんが言っててね」


「一人ずつ交代で起こしに行ったんだけど、ピクリとも反応しないから死んでるのかと思うほど熟睡してたぞ、お前」



 そ、そんなに?と裕昌は心配になる。全く覚えていないし気付いてもいない。



「黒音なんて、猫の姿にまでなって上に乗ったり、尻尾で叩いてみたり、ぺちぺち猫パンチしてたのに」



 裕昌は絶句する。いつもならそれで目が覚めるのに。裕昌は雫にからかわれている黒音を見る。その視線に気が付いた黒音は首を傾げた。裕昌に気が付いた雫、黒龍、黒音が同時におはよう(ございます)、と挨拶をする。



「お前生きていたのか」



 不知火が呆れ交じりの声を出す。不知火にですらそう言われるとは。



「あはは、きっと昨日で疲れていたんだろう。いい眠りっぷりだったよ」


「はい。私もたくさん主の寝顔を愛でることが出来ました」


「黒龍?」



 裕昌が思わず聞き返す。はい。と黒龍は笑みを浮かべたまま頷く。


 

「だから早く寝ろと言ったのに」


「あの後すぐ寝たって。それでこれ」



 黒音がまったく、と嘆息する。裕昌はホットサンドが盛られた皿を机の上に置くと自分の席に座った。



「じゃあ、手を合わせて」



 いただきます。






 湖は潮の流れもなく、川の流れもなく、穏やかでカヌー初心者にはうってつけだ。

 湖の真ん中で、漕ぐのを止め、ただ自然の音に耳を傾ける時間がどれだけ至福なことか。



「あー。日本って平和だ―」


「そうだな。これを味わえるのは国が平和な証拠だ」


「黒音が言うと重いんだけど」


「ったり前だろう?こちとら戦乱の世の中を潜り抜けてきてるんだからな」



 確かに、と裕昌は頷く。江戸時代に生まれた黒音は戦乱に巻き込まれながら育ってきたのだ。歴史の知識を総動員して思い出す。大体戊辰戦争とか、第一次、第二次世界大戦とか、後は一揆とかうちこわしとかもあったのだろう。

 そう思えば、この比較的平和な世の中に生まれてきたことに感謝をしなければならないな、と裕昌は天を仰ぐ。


 そよ風が心地よい。夏の蒸し暑さを吹き飛ばしてくれるような風だった。

 ふと、もう一隻の方を見る。晴明と菜海が漕ぎ、スライム型になった雫が二人を応援している。あちらも微笑ましい限りだ。

 ちなみに黒龍と不知火は周りを散歩してくると言って二人で出かけてしまった。意外な組み合わせに裕昌と菜海は不安そうにしていたのだが、互いに干渉しあわず、絶妙な距離感を保っている、らしい。



「そういえば、雫はなんであの二人の所に居るんだ?」


「…………まあ、何とかのキューピッドってやつになろうとしてるんじゃないかと」



 裕昌は黒音の言葉に首を傾げる。お前には関係ないことだ、とだけ言い、それ以上は言及しないようにする。雫は一応神の末席だ。何をか考えているのかはよくわからないのだ。



「しかし、綺麗な湖だなー」



 裕昌は水面をのぞき込む。

 うっすらと水草や魚の姿が見える。都会ではなかなか触れる機会がない自然の一部に感動する。

 ほら、水底に光る一対の輝きと目が合って。



「目が合って……?」



 裕昌が胡乱げに呟いたその瞬間、水面が一気に隆起した。裕昌と黒音が載っていたボートが飛ばされる。



「裕昌!」


「ぐえ」



 黒音は裕昌の首根っこを掴んでボートから脱出する。運悪く巻き込まれた菜海と晴明も、雫の力でボートを何とか岸辺へ漂着させた。

 一行の目の前に現れたのは、一匹の大きなナマズだった。その規格外の大きさに裕昌は冷や汗をかく。開ければ何でも一飲みにしてしまいそうなほど大きい口、龍と見紛うほどの立派な髭。間違いなく、この湖の主なのだろう。



「でっか……!?」


「ま、ただの池の主だったなら見逃してやるんだが、そうはいかないようだな」



 黒音は水底を睨む。底に沈んでいる石や岩だと思っていたものは、実は別のものだったりする。あえて裕昌には言わないでおくのだが。



「ひろくん、黒音ちゃん、大丈夫?」



 菜海と晴明、雫が裕昌たちの元へ合流する。黒音は持参していた脇差を抜く。



「さて、どうする?黒音」


「晴明は雷神でも召喚してくれれば、あとはあたしと雫で切り身にしてやる」


「お前な、簡単に雷神召喚しろとかいうけど、結構体力使うんだぞあれ」



晴明が黒音に向かって文句を言う。



「ふーん、晴明、御門の陰陽師がそれくらいできないとでも?」



 雫の言葉に晴明が不敵に口端を吊り上げる。懐から符を取り出した。



「楽勝」



 その言葉と同時に、雫と黒音が跳躍する。



「起雷、律令!」



 晴明が符を鯰に向かって放つ。符を目印にして天から雷が落ちた。水に電気はよく効く。体の半分が水に浸かっている鯰には大ダメージを与えることができるのだ。痺れて動きが鈍くなった鯰に、容赦なく雫と黒音が攻撃を仕掛ける。



「魚をさばくには、切れ込みを入れないとね」



 雫が神気の刃を幾つも放つ。ぬめりの強い鯰の皮をいともたやすく断っていく。その切り口をめがけて黒音が脇差を振りかざす、白銀の二線の光が鯰を両断する。黒音はもう片方の白銀の光とすれ違う時に、ぶ、と不貞腐れた。



「別にあたし一人で十分だったんだぞ」


「いいえ?せっかくの活躍の場面を独り占めは許されませんよ?」



 黒龍が無邪気に笑みを浮かべる。二人が地に降り立った時には、鯰は三切れの切り身になって倒れていた。

 観戦していた裕昌と菜海は鯰の切り身を眺める。



「あれ、どうするんだろ」


「流石に私たちは食べちゃダメそうね……」



 え。と晴明と裕昌は菜海を振り返る。食べるという選択肢が彼女の中にあったことが何よりも意外だった。



「摂取するのはやめておいた方が良いよ。鯰でも妖怪だし。あ、僕が美味しくいただくから安心して」



 雫が水の中へざぶざぶと入っていく。それと入れ替わる形で黒音と黒龍が裕昌の元へ戻ってきた。



「ただいま戻りました」


「裕昌―、黒龍があたしの見せ場を奪ったー」



 さわやかな笑顔で戻ってきた黒龍と駄々っ子のように裕昌に訴える黒音。裕昌は二人の頭をぽむぽむと叩く。



「二人ともお疲れ様」



 まったく、この大きな子供二人をどうしようか、と悩み苦笑する裕昌。



「そういえば、雫はどうなった?」


「ああ、それならほら、食事中」



 晴明が湖を指す。大鯰の巨体が浮かんでいたはずなのだが、それが湖の中へと引きずり込まれていくのだ。

 唖然とその様を見ている裕昌と菜海。もの言いたげな視線を向けている黒音と黒龍。いつものやつ、と平然としている晴明。



「けっ、やっぱりあれが本性か」


「あら、不知火。どこに言っていたの」



 不知火がいつの間にか一同の背後に立っていた。彼は仏頂面でこう答えた。



「水に濡れるのはごめんだ」







 山道を車で走る。裕昌は運転しながら後方シートをバックミラーで確認する。全員疲れているのか、特に菜海と晴明が互いの肩にもたれかかる姿勢で眠っている。助手席にいる黒音も黒龍を抱えたまま眠ってしまっていた。車内は静寂に包まれ、裕昌はこの二日間の思い出にふける。


『楽しかったな』


 ただその想いだけ。それ以上の感想は思いつかないほど。

 今度はどこに行こう。雪山でスキーやスノーボードをするのも楽しそうだ。

 また来年、と心に誓ってハンドルを握る。

 こうして、裕昌たちの夏休みは幕を閉じたのだった。

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