ミッドナイト・エスケープ(2)

「この『町』から逃げる?」

「そうさ」

「それって、今、高校生二年生のこのうちに?」

「勿論。俺はもう一秒たりともこの『町』に居たくないんだ」

「そんなこと出来る?」

「出来るさ」

 留美子は考えた。もしそんなことをしたら、どうなるだろうか。家族は悲しむだろうし、警察は捜索に出るだろう。テレビでも報道されるはずだ。大騒ぎどころではない。そして何より、私はどこへ向かうのだろうか。私の戸籍は? 所属は? 住む場所は? お金は? 不安要素は山ほどある。しかし、この『町』に居たくないのは確かで、その山積みの不安を蹴散らすほど強い。そしてこの男が本気なこともまた確かだった。

「俺はやる。全てを捨てでも、俺は全てを得るんだ。来週の水曜日の夜十時、銀杏大広場のバス停に行く。分かるだろ。家は近い? ならいいよ。そこから東駅へ行く最後のバスが出る。もし留美子にその覚悟があるなら、有り金と必需品、全部持って十時にバス停に来てくれ。寒くなりそうだからしっかりと厚着しておけよ」

 健介はそう言って自分の席へ戻っていった。授業開始のベルが鳴る。留美子はまるで宙を彷徨っているような気持ちで、授業なんて全く聞こえなかった。健介は何事もなかったかのようにノートに板書していた。

 しかし、次の日に教室に来る頃には留美子の決意は固まっていた。もうこの『町』には居られない。そこに協力者が現れた。今しかない。やろう。やるのだ。この『町』と決別しよう。それがきっと自分の幸福への道筋なのだ。ライフ・イズ・ベリーショート。 あらゆるものを捨てて。


 水曜日の十時。それはあっけなくやって来た。躊躇ったり、急かしたりすることなく、冷たい死刑執行人のように淡々と訪れた。

 手早くお風呂に入り、今日はもう寝るね、とお父さんに言って自分の部屋に籠った。お母さんは九時ぐらいには寝てしまう。

 留美子は通学用のリュックサックに、ありったけの貯金、防寒着や着替え、歯ブラシに歯磨き粉、お菓子などの携帯食、音楽プレイヤー、大好きな一冊の文庫本などを詰め込んだ。スマートフォンは置いていく。もうこんなものがあってもどうしようもない。もうここに住む誰とも連絡はしないのだから。

 誰とも。そうそれは家族ともだ。留美子はこれが一番自分にとって苦しいであろうことは予測していた。そして確かにそうだった。

 お母さん、お父さんはとても優しく、聖職者の如く真面目で正しいものの見方をする良い両親だった。留美子のことを本当に心から愛していた。留美子の為なら命だって惜しくないだろう。留美子はそのことを理解していたし、留美子もまたその両親を愛し、誇らしかった。両親は地球で最も幸福にいて欲しい人間だった。

 しかしそのことと、この『町』から離れることは別なのだ。両親に罪はない。悪いのはこの『町』なのだ。そしてこれは自分の人生なのだ。

 もう待ち合わせの十時まで時間がない。

 留美子は手紙を書いた。

『お母さん、お父さん、今までありがとう。少し早いけど独り立ちの日が来ました。でもまた会えます』そんな風な手紙を。留美子は書きながら涙が溢れてきた。声をあげて泣きたかった。留美子はそれを無理矢理押さえた。そうだ。また会えるだろう。私が本当の幸せを手に入れた時に。

 手紙を机の真ん中に置き、留美子は電気を消した。暗くなった部屋で、留美子は震える指で窓をそっと、ニトログリセリンでも扱うように慎重に開けた。

 冷たい風が熱い頬に吹く。もう十二月になるのだ。逃亡劇にしては明るすぎる月の光が部屋に射し込んできた。留美子はぼんやりと青白く照らされた部屋を振り返った。色々な私が居た部屋。私の十数年間をずっと見守ってくれていた部屋。留美子は「さよなら」と小さく言った。部屋のあらゆるものが泣いているような気がした。


 留美子は予め用意しておいたロープをベッドにくくりつけ、リュックサックを背負い、窓から身を乗り出す。幸い、そこまで身長のある家屋ではないが、思わず生唾を飲んだ。そして人生で一番の力を込めてロープを握りしめて壁伝いに降りて行った。

 最後の方は力尽きてジャンプした。両足にじんと鈍い衝撃が伝わる。しかし興奮のせいか、大したことはない。

 留美子は走り出した。周りの星々が霞むくらいの残酷に明るい月だけを見ながら走り出した。後ろを振り返ることはしない。したって意味がない。留美子はただ走った。

 

 

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