ミッドナイト・エスケープ
大垣
ミッドナイト・エスケープ(1)
この町が嫌いだ。
最近になって、その気持ちは強く、より確かなものなっていた。とにかくこの『町』が嫌いだ。何もかも。ここに住んでいること、ここで生活していること、ここの学校に通っていること、ここの道を歩いていること、あらゆるこの『町』のことが嫌だ。この『町』の空気を吸うことも嫌だし、この『町』の文字を見るだけでも胃から酸っぱいものが込み上げてきて、吐き気がしてくる。
もう全部嫌いだ。
留美子はうだつの上がらない女子高生だった。成績はど真ん中、運動神経もそこそこ、顔も、身長も、おっぱいも普通。何か劣っている訳でもないが、何かに秀でている訳でもない。特別な主義信条はなく、強いて言えば超穏健保守派の平和主義者。あるいは無派閥。煌めくような将来の夢はなく、凄惨な過去もない。それが留美子だった。それは端から見ればある種幸福なのかもしれないが、留美子にとっては苦痛だった。
「何か」
留美子は教室の机に肘を突いて、窓の外を見ながらそう呟く。『何か』が何を意味するかは留美子には分からない。しかし留美子は『何か』を必要としていた。
何故自分はパッとしないのか。何故こういう平凡な女の子になってしまったのか。理由はいくつかありそうだったが、どれも朧気なものだった(あるいは、直視したくないだけなのかもしれない)。
ただひとつ、最近になってはっきりと分かったことはその要因の一つにこの『町』のせいがあるということだけだった。
こじつけだろうか。責任転嫁だろうか。しかしこのことは自分の中では明白なのだ。九割近く、確信と言える。
私がパッとしないのは、この『町』に居るからなのだ。留美子は何度もその言葉を頭の中で再生した。
この『町』は恐ろしく地味だ。怖いぐらいに。住むのには困らない。衣食住に関わる生活必需品は全て揃う。気候は温暖で雪も滅多に降らない。人々は穏やかで、治安も良い。
しかしそれだけだった。それ以外は余りにもつまらない町だった。冬の霜焼けみたいに、まるで憂鬱だ。
ろくな観光資源はなく、大きな企業もなく、サッカーチームもない。名物と言えば取って付けたような不味くも美味しくもない麵もののB級グルメ。高校生の娯楽施設と言えば一つだけある大きなショッピング・モールと、あとは古いカラオケボックスや錆びたボウリング場、それとハンバーガー・ショップぐらいだった。中年や老人は覇気のない顔をして虹色に発光する巨大なUFOみたいなパチンコ屋に吸い込まれていく。
住民は大半が学校や病院などの公務員ばかりで、事なかれ主義の居るのか居ないのか分からない市長が治め、汗水垂らして納めた税金はひたすら道路を直すことに使われる。
景色も平凡だ。海はなく、絵心のない中学生が描いたようなまるで特徴のない山々が連なり、ビルはなく、瓦屋根の一軒家ばかりが軒を連ねる。
退屈なのだ。この『町』は。留美子はつくづくそう思った。ずっと同じ曲をかけ続けているレコードの針みたいに、ただ人が寿命をだらだらと静かに消費していくだけの町なのだ。お互いがお互いを生き長らえさせる目的のみが機能している。それのどこが面白いんだろう?
もし私の町に、プロ野球チームのドームがあったり、若者の集まるクラブがあったり、インディーズバンドの演奏が聴けるライブハウスがあったり、ジャズ喫茶があったり、様々な美術館があったり、米軍基地があったり、一流の企業や大学があったり、歴史ある寺社仏閣や、美しい大自然があったりしたら、どんなに素晴らしいだろうか。
きっとそういう所は住んでいる人間も活力に溢れているのだ。そうに違いない。
留美子は窓から目を離し、ため息をついた。その時、
「どうした?」と声がした。
「健介」
「ため息なんかついて」
「いや、別に、何でもないよ。それより何? 何か用?」
留美子は健介が話しかけてきたことに少し戸惑った。留美子と健介の間の関係は薄い。健介は同じ小学校、中学校で、高校でもたまたま今は同じクラスだが、これといって親交があるわけではない。お互い顔見知り程度だ。
「分かる気がするんだ」健介はそう言った。
「何が?」
「今、留美子の考えていたことが」
「へえ、当ててみてよ」
「退屈なんだろ、この『町』が」
留美子は健介の目を見た。健介とはこういう顔をしていたのかと初めて思った。瞳はブラウンで、顔の彫りは深く、おしゃれ坊主の髪型。そしてなにより、留美子は百パーセントの答えを見透かされたことに驚いた。
「よく分かったね」と、言いながら留美子は少し平生を崩す。
「俺もなんだ」
「え?」
「俺もそうなんだ。この『町』が退屈で、嫌で仕方がない。この『町』は夏は暑すぎないし、冬は雪も降らないし暖かい。本当に住みやすい所だ。でもそれが駄目なんだ。それじゃ何も生まれない。この『町』の人間、みんな退屈そうだろ? この『町』の住人はただ呆然と生きることしか考えていない。しかも自分に為に生きてるんじゃなくて、この『町』のために生きてるんだ。生かされていると言ってもいい。この『町』は巨大な生き物で、住人はそいつの血液や筋肉や内臓みたいなものだ。このままこの『町』にいたら、まるで胃酸にゆっくりと溶かされるみたいに、脳味噌までドロドロになって、ゾンビみたいになっちまう。そんな気がするんだ。今、留美子はそういう目をしていた」
健介はそう言った。表現こそ違えど、それは留美子が感じていたこととまるで一緒だった。
「ならどうしたらいいと思う?」と留美子は言った。
「逃げるんだ。この『町』から」
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