花火

雨宮吾子

花火

 ある夏のことであった。私は庭に面した和室でテレビを眺めていた。うたた寝をしながら、番組の間に挿入される派手な音楽や効果音を使ったコマーシャルに時折揺さぶられながら、扇風機の運んでくる温い風を浴びながら、やはりうたた寝をしていた。昼間の番組は毒にも薬にもならないようなものばかりで、面白くない代わりにつまらなくもなかった。しっかりと眠ってしまったほうが楽ではあったが、家人の留守を預かる身としては人の声に触れていたいような寂しさがあったから、そんなふうにして時間を浪費していたのだ。

 真面目な話題とくだらない話題とがごちゃ混ぜになったワイドショーが終わり、いつの間にやら映画の放送が始まっていた。最初はドラマの再放送かとも思ったが、ぼんやりとでも画面の作りを眺めていればそれが映画であることに気付かされる。私がドラマかと勘違いしたのは、画面に映るのが日本人の少年であるからだった。昼間に邦画の放送をやっている局があるとは知らなかったので、何となく珍しい気分で眺めていようという心持ちになった。

 少年は一人で草地を歩いている。日はとっくに暮れていて、一寸先さえ闇に紛れてしまうような暗い場所である。歩き方が何となくぎこちないのは、テレビの音量を絞っているので最初は分からなかったが、ぬかるみを歩いているからだと知れた。心細い表情を浮かべている。背の高いススキが生い茂る中をかき分けながら歩いているのだから無理もないだろう。カメラはやや遠くから少年を捉えていて、しばらく長回しの映像が続いた。

 変化が起こったのは、その直後だった。

「あっ、花火!」

 二歩も三歩も先を行く彼女の声は、私のそれまでの人生を明瞭にした。自分自身が生まれたときの情景さえ見えてくるような気さえした。その情報の流入は刹那のうちに済んでしまい、それ以前とそれ以後とでは世界の在り方が全く異なるように感じられてもおかしくはなかった。ただ、今ここで起こっている状況に追いつくのに精一杯で世界を見渡す余裕はなかったし、たとえ余裕があったとしてもこの場所から世界が見えるとは到底思えないのだった。

 ぽん、ぽんという花火の音がたしかに聞こえてきた。私にはその光が見えなかったから、ようやく彼女の言葉が真実であると分かった。先ほどの言葉が私という存在を照らし出してから、未だに彼女の姿形を捉えることはできていない。だというのにその声は私の中で響いて、ああ、私はこの人を好いているのだなと直感した。

「見て、あそこ!」

「どこ!」

「東の方よ!」

 どこ、と尋ねたのは実は彼女の居場所だった。背丈よりも高いススキの海の中で彼女のいる方角を知ることは容易ではない。ぬかるみを行く音がゆったりと耳元に響いてくるのだが、一度風が吹けばそれすらも覚束なくなってしまう。そこへ花火など上がってしまえば、もう私はこの海の中に溺れてしまうのではないか。そんな恐怖が首筋にまとわりついてくる。

「君はどこだ!」

 私には精一杯の力を振り絞って声を上げることしかできなかった。絶望の中に身を浸すようにして言葉が返ってくるまでの数秒間を過ごさねばならなかった。

「ここよ!」

 彼女も叫ぶようにして返事をしてきた。あるいは彼女も道に迷っているのかもしれない。そうすると絶望はいよいよ募ってきて、私は叫びながら彼女を追いかけた。何度か叫ぶうち、自分の声が分からなくなってきた。自分が叫んでいるという意識はあるものの実感が伴わず、狐が私の声を盗んでいるようにも感じられたし、亡き母の声を借りているようにも聞こえてきた。しかしどこまでいっても、彼女の声をなぞることだけはできないのだった。

「あいうえお! かきくけこ!」

 試みに叫んでみた声は花火の音にかき消され、それが止んだかと思えばいつの間にやら別の言葉が響いている。

「まみむめも! たちつてと!」

 などというのはまだまともな方で、終いには、

「いろはにほへとちりぬるを――」

 と反響してくるのを聞いた。その頃にはもう自分自身が口を噤んでいるのかそうでないのかさえ明瞭はでなくなっていた。この狂乱から抜け出そうと、私は駆け始めていた。明らかにわざと置かれた石に躓いて転んだりしながら、それでも懸命に駆けることしかできなかった。そうするうちに何か身の内に爆ぜるものがあって、私はいつの間にやら笑い声を発していた。私はそれまで駆けてきたのと全く正反対の方角へ、まるで狂乱の核心へ向かうようにして駆けているのだった。そうなると私を邪魔するものはなくなって、気付いたときにはススキの揺れる音も花火の音もまるで聞こえなくなっていた。私は立ち止まり、両手で耳を押さえた。掌を徐々に浮かせていくと風の鳴く音がする。私の耳が活動を止めたのではなく、世界の音が消えてしまったのだということが分かった。

 ぬかるみであるのも構わずに私は腰を下ろした。諦めるというにはあまりにも希望が欠けていたが、しかし諦めるという以外に言い表しようのない心境だった。私が追いかけていた彼女はどこへ行ったのだろうか。あるいは幻想を追いかけていたのかもしれない。それでもせめて一目、一目だけで良いから彼女の姿を見てみたかった。

 一陣の風が吹き抜けていく。世界の音が消えてしまった分だけ、その風の冷たさが強い実感として残った。季節外れの冷気がどこからか湧き上がってくるのを不審に思ったが、その疑念を吹き飛ばすようにしてはるか頭上に何かが閃いた。花火だった。私はその煌めきに魅入られるというよりも、あまりにも近いところで閃いたものだから、恐怖に取り憑かれた。僅かな間を置いて花火の燃えたかすが落ちてくる。足ががくがくと震え、逃げようにも逃げられない。その場にしゃがみこんで頭を抱え、衝撃に備える。しかし恐れていたような衝撃はなかった。何かに覆われているような感覚がして、恐る恐る顔を上げた。

「ここにいたのね」

 それは、私が追い求めていたはずの彼女だった。私を守ってくれた彼女は、汗か涙かは分からないが冷たい飛沫を私の顔に落とした。覆いかぶせていた身体を離すと、それに合わせるかのようにぽん、ぽんと音がした。また花火が上がったのだ。奇妙なのは光を感じるよりも早く音がしたことだった。やがて空に打ち上がった花火が、彼女の姿を照らし出した。

 私は、そこに彼岸を見た。

「どうしたの、急に声を上げたりして」

 気が付くと、私は彼女の膝の上に頭を預けていた。畳の感触が懐かしく、また恐ろしくもあった。いつかと同じように彼女の声が転機となって、今までの出来事が夢の中の出来事であったと悟った。団扇で私を仰ぐ彼女の顔は見えない。日はとっくに傾いていて、テレビも消されている。暗がりで灯りを点けないのは、眠っていた私を慮ってのことだと察せられた。

「いびきを、かいていたのか」

「いいえ、寝言を言っていたの。あまりうるさいものだから鼻をつまんでやろうと思ったくらい」

「寝言……。どんなことを?」

 彼女はすぐには答えなかった。何か後ろめたいことでもあるのだろうかと、恐れる必要のない私が恐れた。

「いろは歌のようなものを口にしていたみたい」

「いろはにほへとちりぬるを、か……」

 私は胸元を湿らせる熱気を恨みながら、彼女の膝の上に頭を預け続けた。

「なあ、君は生きているんだよな」

「当たり前でしょう、ここにあなたといるんだから」

「妙な夢を見たんだ」

「夢?」

「そう、夢。君を追いかけていたはずが、いつの間にか追いかけられていたんだ。そして君は――」

「それ以上は言わないで。私も怖くなってしまうから」

 彼女はそう言うと、私の頭を浮かせて立ち上がった。天井の照明を点けるために紐を引っ張る。点滅の後に現れた彼女の姿は、たしかに生きている者のそれであった。

 夕食の支度に向かう彼女の後ろ姿を眺めながら、私は再び一人になって、先ほどの映画のことを考え始めた。手近にあった新聞の番組欄を眺めてみても、その映画の放送の予定は載っていなかった。遠くで花火の打ち上がる音がする。一発、そして二発。縁側に立って音のする方角を眺めていると、三発目の花火がちょうど打ち上がったところだった。やや遅れて音がしたのを確認してから、私はようやく安楽の気分を取り戻して、今日は少しだけでも炊事に加わろうと思ったのだった。

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花火 雨宮吾子 @Ako-Amamiya

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