車
酒井 漣
第1話
後ろの車が煽っているな、と私は違和感を覚えながら、一人で車を運転していた。休日に車で十分程離れた図書館からの帰り道だった。私の車はノーマルの軽自動車だが、バックミラーに映る車は、車高が低く、小型だが、スピードが出そうな車だった。私は、図書館から大通りに向かう小道を、法定速度内で走っていたのだが、後ろの車は車間距離を詰めて、私の車にぴったりくっついている。仕事の関係で北関東の海沿いの町に住んで十年になるが、この町の人間の車の運転は、本当に荒い。私は、歩行者として交通ルールを守って横断歩道を渡っているのに、車の急な左折で、交通事故になりかけた事が、一度や二度ではない。私は前日、仕事がうまくいかずに、上司に怒られて、むしゃくしゃしていた。普段であれば、煽られた苛つきを運転席から手の届く、右側のドアの金属部分に、右手を思いっきり打ち付ける事で、その場の苛つきをやり過ごすのだが、その日は、何故かその破壊行動を起こさず、煽っていた車が、別の道に移動する間際を見逃さず、右手の中指を立てる仕草をした。私には、その仕草をする事に、何の感情も無かった。
大通りに繋がる道路で、数分、信号待ちをしていると、対向車線から先程の小型車が猛然と私の車の側までやって来た。運転手は、痩せ型で、歳の頃は40代、口に煙草を加えていた。運転手は、窓から身を乗り出すようにして、私に、
「おい、話があるから、ついてこい。」
と捲し立てた。私は、継続的に仕事が忙しい事と、昨日、上司から怒られた事で、精神的な余裕が殆どなく、半分、自暴自棄になっていた。ちょっと言動が怪しい運転手の言われるままに、もと来た道を戻り、見晴らしがいい、交通量の少ない一本道まで移動し、車を止めた。その運転手は、私の車の五十メートル程先に自分の車を止め、両手をポケットに突っ込んで、肩をいからせながら、私に近づいて来た。私が車から降り、運転席の前に立つと、その運転手は、私に対して、
「あの仕草はなんだ。」
と文句を言い始めた。運転手は、何か言葉を発する度に、右に左に体を揺すり、自分を大きく見せようとした。私は、中指を立てた仕草の事をはぐらかそうとすると、
「あれは、くそったれ、と言う意味なんだよ。」
とわざわざ解説を付けてくれた。それは私も知っている。私は、
「こちらは法定速度を守っているのに、そちらは、私の車にぴったりくっついて来てましたね。」
と言うと、運転手は、
「そりゃ、こちらも急いでいたからな。」
と自分の都合を押し付けてきた。数分話してみたが、自分の行いが正しく、相手の行いは悪く、更に自分を侮辱した事が許せない、という思考が透けて見えた。話している間、運転手から、私に対して、車を煽った事に対する謝罪は、一切無かった。数分話している間に、運転手の服装や足元を観察してみた。季節は秋口だったが、運転手は、七分袖の派手なシャツとハーフパンツという出で立ちで、服に隠れていない素肌には、入れ墨が散見された。近頃、若者が海外文化に触発されて、自分の肌に入れる、タテゥー、ではなく、日本で古くから伝わる、赤、緑、青などで装飾された、入れ墨だった。ここに来て、私はようやく、この運転手は、反社会的勢力の構成員なのだ、と言う事に気付く。そう言えば、運転手は、先程から、暴言を吐き続け、常に体を揺すってはいるが、私に一切、触れようとしなかった。触れた時点で、暴行罪の可能性があるから、その可能性を消そうとしているのだ。私は、北関東に来て、昼も夜も無く働き、その上で上司から叱責され、最後に反社の人間に絡まれている、自分の境遇が、なんだか嫌になった。その瞬間、自分が車に踵を返してエンジンを掛け、五十メートル先に止まっている相手の車に突っ込み、この世から開放される妄想が過ぎった。直ぐに、運転手に罵倒される現実に戻る。ああ、これは本格的に自分の調子がヤバいな、と自覚し、私は、
「こちらにも落ち度がありました。すみませんでした。」
と謝罪の言葉を反社の運転手に投げかけた。運転手は、これまでのトーンが変調し、
「ああそうか、自分の間違いを認めるんだな。」
と私に問いかけてきた。私は、
「はい。すみませんでした。」
と反省の弁を伝える。反社の運転手は、謝罪を聞く事ができて、自尊心が満足したのか、数分、文句を言った後、吸っていた煙草を地面に叩きつけ、唾を吐いて、自分の車に戻っていった。その後、何事も無かったように、車のエンジンをふかし、その場を立ち去っていった。私は、自分が折れて謝罪した判断は間違っていなかったが、謝罪後の反社の運転手の罵詈雑言が意外と心身にダメージがあったようで、自尊心が削られたような気持ちになっていた。その後、気を取り直して、自宅まで安全運転で戻り、その日は、その後、ふて寝して過ごした。
車 酒井 漣 @sakai_ren
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