第9話 震災を経て
体育祭が終わり、翌日からはすっかり気の抜けた、いつも通りの奴らに戻った。
キラキラだったシールやペイントが、祭りが終わったことを名残惜しむかの様に、日焼けの痕としてほんのり残っている。
目の前の目標が一つ無くなった彼奴らは、溶けたアイスの様にぐったりとして、ただただ一日をやり過ごしていた様子であった。
数日後のホームルームの時間に、担任から文化祭に向けてという議題が挙げられた。
文化祭は例年、持ち時間は十分程度ではあるが、全学年全クラス、それぞれのクラス単位で何かしらステージでの出し物をしないといけない。
模擬店を出しての販売といった類の活動は無く、何なら発表会と呼ぶに相応しい行事である。
文化祭本番まで二ヶ月と少し。それまでに、ステージ発表に向けての練習や準備をしていかなければならない。
生徒達の力で、また限られた予算の中で、練習期間もそう満足に取れないとなると、できることは限られてくる。毎年大抵のクラスが、歌を交えたパフォーマンスや演劇、ダンス、あたりで落ち着くらしい。
その中で、衣装や演出の工夫やこだわりによってそれぞれのクラスの個性を出し、他との差別化を図る様だ。
つい先日まで、何ならこの議題が担任から告げられるまで、電池の切れたおもちゃの様に項垂れていたというのに。しかしそれが、『まるで猫の目』。突然にスイッチが入り、俄然食い付いてきた。
ただ、こうなるとあまり良い予感はしない。
「バンドやろや!バンド!」
「劇みたいなんは?」
ほうら始まった。別に、盛り上がるのも口にするのもタダだが、いざそれをやるのは自分達だということは分かって言っているのだろうか。少しだけおれは軽くジャブを入れてみた。
「そもそもてめぇら、楽器や演技なんかできんの?中途半端なもん見せるくれぇならなんもしねぇ方がマシだよ?」
「いいやん別に!ウチらがやりたいんやけん!」
軽く小突いたつもりだったが、思った以上に強いカウンターを打ってくる桃果。
「ほうよ!こんなんは楽しんでやるんが一番やろ!」と、皆がそれに続く。
なんだこいつら。さっきまでは死んだ魚の様な目をしていたくせに。しかし、ここで水を差す様なことを言い過ぎれば元の木阿弥になりかねない。もう少しうまく転がしてやらなければ。
「お前ららしく楽しくやるってのももちろん大事だけどさ、せっかくやるんだからビッと決めてさ、見てる人達にも感動してもらえる様なことができたら良いよなって話だよ」
「感動ってなったらやっぱ劇やろ!アクションも取り入れてさ、バッタバッタ悪者を切り倒すんよ!」
その絶対的な舞台演劇への信仰心は何なのか。どうせこの夏休みに、るろうにの映画でも見てきて影響されただけだろう。
「アクションかよ。バチっと決めれりゃあ確かに、おぉーってなるかもしんねぇけど……」
どうにも煮え切らない態度のおれに、
「じゃあ逆にさ、感動させるって何したらええんかな?」と百合。
なんだかお前がすごくまともな奴に思えてきたよ。
「逆に逆に。お前らは何見て感動すんの?」
恋愛小説、月九のドラマ、オリンピック……。だめだこりゃ。もはや話にならない。
「こないだのさ、二十四時間テレビも感動したよ」
「ウチも毎年見よる!絶対泣いてしまうんよね」
「マラソンはええんやけどサライが流れだした頃にはもうええわってなる」
「司会が関ジャニってのも私的には微妙やったんやけど」
「ウソやろ?全然ええやん」
いつの間にか話が脱線して盛り上がっている。これだから女という奴は。
「そういや、あれも良かったよ。地震のやつ」
「分かる!東日本大震災のやつやろ?あの歌むっちゃ感動した!」
東日本大震災と聞いて、その震災当時には、まだ関東にいたおれとしては気になる話題であった。どうせ議題は進まないのだから、おれも乗っかってみることにした。
「歌って何だよ?」
「え?タツ兄見てないん?」
「おれはテレビなんざほとんど見ねぇかんな」
「見たら泣いてしまうけんわざと見てなかったんやろ?」
と、茶々を入れてくるので「うるせぇ」と一蹴。
「あの歌って学校の先生が作ったんやってね。被災した地区の生徒と先生がどうのこうの言いよらんかったっけ?」
「すげぇなそりゃ。何て歌なんだ?」
「何やったっけ?」
「なんか、青……、みたいなやつ」
「なんだそりゃ。お前ら本当に感動したのかよ」
当然、二十四時間テレビで取り上げられる程のものだから、携帯で調べるとすぐに出てきた。歌のタイトルは、
『群青』。
――東日本大震災は、俺の記憶にもまだ新しい。まだその当時は大学生で、その日はちょうど、一人暮らしのアパートで昼寝をしていた。
突然ドンッという轟音が響いたと同時に体が浮き上がり、夢から引きずり起こされた。
一瞬何が起きたのか分からなかった。
考える間もなく、辺りがジワジワと揺れ始めた。
アパートが軋む。
先程の跳ね上がる様な揺れも今のものも、それが地震だと気付いた時には、再び大きな揺れが襲ってきた。
これは只事では無いと、本能が察知するが早いか、ベッドから飛び降り、すぐにアパートから飛び出した。
同じアパートに住む人達も、向かいの民家の人達も、時を同じくして慌てて玄関から出てきており、名も知らない人達と顔を見合わせながら、事が収まるのを待ち続けた。
時間にすると一分も無かったのだと思うが、永遠に感じる程続いているこの揺れと共に、このまま目の前の世界が崩れていってしまうのではないかとさえ思えた。
揺れが収まってからも、そこに日常は無かった。
緊急時に必要なのは情報だと、再びアパートの部屋に戻ってテレビの電源を付けたが、一向に映らない。ブレーカーのスイッチを確認しても異常は無いのだが、部屋の様子を伺うと、昼寝の前に付けたままだったはずの電気やエアコンが消えている。
これはと思い、携帯電話を確認すると圏外。電気系統は完全にその機能を失っていた。
幸い水道は止まっていなかったが、それもいつまで持つのか分からない。蓄えが必要になってくると考え、最寄りのコンビニに行くと、先程の地震による停電のパニックと、おれと考えを同じくしてコンビニへと押し掛けた近隣の住人達で、すでに店内はごった返しになっていた。
また、その道中も悲惨なものであった。
街の電気全てが止まっているわけだから、信号機も当然消えている。交差点は大渋滞。こんな状態だからこそ自分の身が可愛いというのも分からないでもない。どうにか我先にと、無茶な運転をする者が続々と現れ、余計に道路の秩序は乱れ、あちこちで混乱が起きている。
明け方までアパートの電気は復旧しなかった。
それからもしばらくは、スーパーから保存食や日用品が棚から姿を消した。物の流通すらどうなるやらということで、買い込み、買い占めが頻発した。
余震はひと月経っても止まず、不定期に鳴り狂う地震速報のアラームが耳にこびりついた。
直接的な建物の崩壊や舗装道路の液状化、それこそあの悲惨な津波といった被害こそ無い地域だったものの、昨日までの当たり前が一瞬にして崩れたのは確かであった。
東北の被災地においての被害は、おれが受けたそれの比では無いことは確かである。テレビの液晶画面越しでしかその光景は目にしていないが、何度も繰り返し放送されていた津波に、家が、街が、全てが飲み込まれていく様は、文字通りこの世の地獄であった――。
そしてこの『群青』という歌は、福島県小高中学校の平成二十四年度卒業生達と音楽教師が作った歌だそうだ。
福島も大変な被害を被ったことはニュースで何度も目にしてきた。津波もだが、それ以上に話題として報じられていたのは、原発事故によって避難所生活を余儀なくされた人達の姿や、その過酷な日常であった。
そして、小高中学も警戒区域に指定されたことによって、生徒のほとんどが疎開して、県外へと散り散りになってしまった様だ。
『群青』は、被災による心的外傷から歌が歌えなくなった生徒達と、その子達の受け持ちの音楽教師が共に歌詞を綴ったものだという。
津波で亡くなった同級生や、疎開して全国に散り散りになった友人などを想った生徒達の言葉や日記を繋ぎ、一つの歌として完成させたらしい。
この歌の練習をするうちに歌声を取り戻し、卒業式で合唱することに成功して以降、小高中学校の在校生たちに代々受け継がれる歌となったそう。
「――だってよ。こういうの見たり聞いたりしたら、おれは心が痛くなるから嫌なんだよね」
「そういやタツ兄も関東やん。やっぱ地震凄かった?」
当時のことを振り返りながら「そりゃあな」と返事をしたがすぐに、「でも、この人ら程じゃねぇよ」と付け足した。
しばらく黙っていた桃果がここで口を開く。
「ってかさ、この歌で良くない?ウチらの発表」
名案が浮かんだと言わんばかり、鼻高々に宣っている。悪いとは言わない。ただ……。
「お前よう、これはそんな軽い気持ちで歌って良い歌じゃあねぇぞ」
「冷やかしでやる訳やないんやし良くない?それにウチだってねぇ、そこまで馬鹿やないし!」
たまには馬鹿な事も言うという自覚がある風な物言いだ。自覚があっての馬鹿ならば結構なことだ。
「じゃあよ、どうせやんのなら、お前らのイメージ払拭するくれぇビッとした感じですりゃあ良いかもな」
「何よ、ウチらのイメージて」
「てめぇらがクソみてぇな印象しか周りに与えてねぇって分かんねぇの?」
そこかしこから、「サイテー!」だの「それが副担任の言うことか!」だのと声が上がる。
訂正。やはり馬鹿の自覚は無かった様だ。
「だから!それを変えようつってんだよ!」
そこへ百合が目を輝かせながら、「分かった!ギャップ萌えってやつやね!」と得意げに。
萌えるかどうかは分からないが、本人達が納得できるのならばそういうことにしておこう。もしかしたらこの取り組みが、馬鹿に付ける薬になるかもしれない。
本気の合唱。一番の問題は伴奏である。バンドや演劇同様、ここが中途半端では見ている方も冷めてしまうし、そもそも経験者でないと、たかだか一曲とはいえ、二ヶ月できちんとモノにするにははなかなか苦しいのではなかろうか。
誰が『猫の首に鈴を付ける』のかと、ややお互いを牽制し合っている中、ふと思い出した様に口を開いたのは環菜だ。
「そういやさ〜。杏子、ピアノ弾けるよね〜?」
何気なく放たれたこの一言に、
「杏子ちゃん本当に?凄いやん!」、
「マジで?私なんかどれがドなんかも分からんし」、
「足も速いしね!マジ尊敬!」
と、クラス全員の視線が杏子に集められた。
杏子は少しだけ決まりが悪そうな顔をして環菜の方を見たが、相変わらず環菜はニコニコしているだけだ。
観念した様に杏子は「まぁ……ちょっとなら……」と。
天は二物を与えずとは言うがいやはや。こいつは勉強以外なら何でもこなすのだな。
「杏子。お前が良いんなら引き受けてやってくれよ」
おれも含めた、皆の期待に満ちた視線が注ぎ続けられている中、杏子はポソリと返事をした。
「……ええよ。やろわい」
杏子の返事で、教室中がパァァっと明るくなった。
思わぬ方向から、十三組の演目が決まった。女声合唱で群青。伴奏は杏子。指揮者には、歌には自信が無いという理由で環菜が名乗り出た。
そんな簡単な仕事ではないのではとも思ったが、杏子と環菜のコンビなら何とかなるであろう。こうなることを見越して杏子を伴奏に仕立て上げたとすれば、ちゃっかりしていやがる。
すぐに担任と音源や楽譜の手配をし、翌々日にはそれらが手元に揃った。
さっそく帰りのホームルームで全員に楽譜のコピーを配ることに。行き渡るや否や、
「さっそく今日から放課後残れる人らだけでも練習しよや!」、
「その前にパート分けもせなあかんよね。アタシ声低いけんソプラノは多分しんどいと思う」、
「パートは音楽の授業と一緒でええんやない?やりよっていかんかったら途中で変わってもええんやし」
と、やいのやいのと。乗り気で結構。でも一番の問題は……。
「問題はピアノよね。杏子ちゃん家にピアノあるん?」
「キーボードみたいなんならあるけど……」と杏子。
「やっぱ本番と同じ、ちゃんとしたやつで練習できた方が良いやろ。ねぇ、放課後に学校のやつ使ったらいかんの?」
「さすがに勝手にって訳にはいかねぇだろうから、一応許可もらってからな」
「ほんならタツ兄、早よ聞いてきてあげてや。杏子ちゃんが練習できんかったら困るやろ?」
「って、今からかよ。まだ他所も帰りのホームルーム中だろうが」
そんなものは自分達には関係ないと、
「ええけん早よ!」、
「他所のクラスと私らとどっちが大事なんよ?」
と焚き付けられた。身勝手もそれが外に向くならば、仲間内にとっては頼もしいものであろう。
「わーったよ!しょうがねぇなぁ」
すぐにおれは音楽科の主任に問い合わせに行った。
使用の目的が明確なため、片付けと鍵の施錠、返却さえきちんとすれば構わないと、快く許可してもらえた。
さっそく今日からでも使用は可能だとのことで、吉報を携えて教室へ戻ると、大方の打ち合わせも終わったところであった。ホームルームの終業のチャイムはもう鳴り終わっていた。
パート別の音源は準備できたのだが、ラジカセは今のところ一つしか無い。
なので、杏子の伴奏がある程度形になるまでは、パート毎に日替わりで、ラジカセを放課後の自教室で使うことにし、もう一方のパートが練習するのであれば、校庭なり屋上なり体育館なり、部活動で使われていないどこかしら空いている所で集まって行うことに。
ゆくゆくは杏子の伴奏に合わせての音楽室での練習と自教室を交互に、最終的には皆で揃えていく、という流れになった。
とりあえず今日のところは、両パート共揃って教室で音源を聴きながら譜を読むことにするらしい。
こいつらがこうもやる気を出しているのは、喜ばしい事なのだが、何となく滑稽で変な感じがするのはおれだけだろうか。
何にせよ、せっかく前のめりになって取り組もうとしているのだからやる気を削ぐような真似をしない様にと、おれも黙って一緒に音源を聴くことにした。
一緒に音源に耳を傾けていると、教卓に置いたラジカセに群がる顔ぶれの中に、杏子がいないことに気が付いた。
机には鞄も無い。他にも何名か、今日のところはと帰ったから、杏子がいないことを誰も気に留めてはいなかった。
もしかすればと思い、おれは教室を後にし、音楽室へと向かった。
音楽室は、職員室がある校舎の三階だ。階段を登って廊下に出たら、教室を三つばかり過ぎて突き当たりまで行った一番奥の教室がそれだ。
廊下に出た辺りで、かすかにピアノの音が聞こえてきた。締め切った音楽室から、か細く漏れてくる音であったが、それが杏子の奏でるものだとすぐに分かった。ついさっきまで教室で聴いていた歌だから、いくら音楽に精通していないおれでもすぐに分かる。
音を手繰る様に静かに音楽室の前まで行くと、ドアのガラス越しに、ピアノに向かう杏子の横顔が見えた。
おれはドアの前に立ち、しばらく杏子のピアノに聞き入っていた。所々詰まったり、音が途切れたりはしていたが、楽器などできやしないおれからすれば、楽譜を見てすぐに弾けるということに驚くばかりであった。
杏子は演奏が終わるとふうと大きく息をついて、張り詰めていた糸が緩んだ様にだらりと椅子にもたれかかった。声を掛けるのならば今だろうなとドアを開けると、おれが中へ入るが早いか、杏子がこちらへ振り向いた。
「ずっと聞きよったん?」杏子はひどく驚いた様に目を丸くしている。
「途中からだよ。にしてもお前、もう弾けんの?すげぇな」
杏子は少し頬を赤らめ顔をピアノの方へ戻した。
「ピアノやってたの?」
おれの質問に少し間をおいて、杏子は顔を背けたまま返事をした。
「……中学の途中までやけどね」
そうかとおれが返事をしたっきり、しばらく無言の間が空いた。窓から見えた校庭では、ユニフォームに着替えた運動部の生徒達が練習の準備に取り掛かっている。
「なぁ、もう一回最初から弾いてみてくんね?」
言い終わる前に、おれはピアノに一番近い席に着いた。杏子は少し顔を顰めたが、また一つ大きく息をついた後、ピンと背筋を伸ばして、ふわりと手を鍵盤に添えた。
ドア越しに聴いたそれと、目の前で聴く演奏はまた違ったものであった。
杏子の指が滑る様に鍵盤の上を走る。
「あ」と、時折音が途切れつつも、時折速く、時折緩やかに。
その翔ける音の一つ一つに色が付いていて、それぞれが不調和無く並び、重なり、混ざり合う。鮮やかな音色に包み込まれた気になった。
杏子の体の躍動、鍵盤を弾く力強さ。目の前で聞く生の演奏は、おれにとって十分に感動に値するものであった。
弾き終わったところで、おれは自然と拍手をしていた。気の利いた指導のできないおれは、「本当にすげぇな」という言葉しか出てこなかった。
杏子は椅子にもたれかかって黙ったままだ。
「お前が弾くとさ、何となくだけど、明るい曲になんだな」
表面的ではあるが、この歌の背景を知った上で聞いた杏子の伴奏は、それと逆だとまでは言わないが、とても軽やかな曲に感じられた。
「じゃあ、また聴きに来っからよ。頑張ってな」
席を立ち、教室から出ようと二、三歩踏み出した辺りで、ずっと押し黙ったままだった杏子が静かに口を開いた。
「先生はさ……」
言い掛けたところで少し躊躇う様に口をつぐんだ。しばらく杏子の言葉を待っていたが、一向にその先が続かない。
窓の隙間からは運動部の生徒達の掛け声が入ってくる。
「じれってぇ野郎だな。お前な、出しかけたうんこをケツに引っ込める様な真似すんなよな。言いてぇ事はよ、グズグス肚に溜め込まねぇでスパッと出しゃ良いんだよ」
肩越しに見える杏子の顔が、少しだけムッとした様な気がした。
「あんたはさ、何でそうやって人を煽る様な言い方するんよ」
一学期、校庭で噛み付いてきた杏子の姿が脳裏にフラッシュバックした。
でも、あの日の様なヒリついた空気ではない。なのでおれは杏子の問い掛けは敢えて流した。
「さっき言い掛けたのってそれじゃねぇだろ?」
杏子はまたピアノの方を向いて黙ってしまったので、おれは再びさっきの席に戻って腰を据えた。
「おれのセンセイって人がさ、まぁ真っ直ぐな人だったんだよ」
おれは何やら急に杏子に語りたくなった。
「いらねぇ世話は焼くし、口うるせぇし。世の中が言う母親ってのはこうなんだろうなって人だったよ。あ。おれは施設で育ったから、自分の母親にも会ったこと無ぇから分かんねぇんだけどな。まぁ、だから、おれにとっちゃあ、そのセンセイが母親みてぇなもんでさ」
気付いたら杏子はこっちに顔を向けて話を聞いていた。
「たまに真っ直ぐ放り投げてくる言葉がさ、お前くれぇの頃にはむず痒くて仕方なかったよ。綺麗事ばっか言いやがってさ。クセェし熱苦しいったらありゃしねぇ」
杏子は依然、黙って聞いている。
「でも、あの頃よりちょっと大人になって、何となくセンセイの気持ちが分かる気がすんだよな。昔の人もさ、『かくばかり 偽り多き 世の中に 子の可愛さは 誠なりけり』なんて言うだろ?」
杏子の頭の上に小さな?が浮かんでいるのが見えるが、おれは気にせず席を立った。
「お前みたいな向こうっ気の強ぇ天邪鬼も、おれは嫌いじゃねぇよってこった」
それだけ言い残し、おれはそのまま音楽室を後にした。
階段に差し掛かった辺りで、またピアノの音が聞こえてきた。さっき聞いた二回に比べて、弾む様な音が廊下を渡って来ていた。
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