11.記憶の中の
なんとなく気が向いて、司は桜の植えられたその公園に近寄る。今はまだ十五時前後くらいだろうと思われるが公園には
端の方にベンチがあったのでそちらへ向かった司は、色が剥げている茶色の座面に腰を下ろし、背もたれに体を預ける。疲れを知らない体になったはずなのに、まるで五百メートルを全力疾走したかのように体が重かった。
「ああ~……」
見上げると、ベンチへ差し掛かるように桜の枝が伸ばされている。隙間からは少し薄まった青い色が見えた。そういえば巾着も青だったなと思い出し、ポケットから取り出して切り抜かれた空の横に掲げる。
この巾着を作ってくれた相手は今、どこでどうしているのだろうか。
(……ユクミ……)
半分だけが妖だった少女。
司がユクミを完全な妖だと思い込んでいたのは妖に関する知識がなかったからだ。人間のことは分かるし、隠邪のことも知っている。だが、妖に関する知識はない。半分だけ隠邪の人間がいないように、半分だけ妖の人間がいるとは思わなかった。
だが少なくとも司は、ユクミに人間らしいところをいくつも感じていた。そこから少しでも頭を働かせていけば良かった、と後悔してももう遅い。司はその思い込みのせいでユクミを失ったようなものだ。
猿は「相手の心が分かる」と言っていた。
隠邪の言葉を信じたくなどないが、確かにユクミは完全な妖でないことに引け目を覚えていたように見えた。猿の演じた「完全な妖ではないユクミを嫌う司」を容易く信じ込んだのは、きっとそれこそがユクミの恐れていたことだったからだ。
(ユクミの中の『俺』は、完全な妖ではないユクミを嫌うような奴だった……)
司は完全な妖ではないユクミに対して何も思わない。それどころか、勘違いしていたことを申し訳なく思っている。
だが、ユクミはそう考えなかった。今もユクミは司がこんな風に思っているとは少しも考えていないだろう。
(どう考えても、俺のミスだ)
初めて対面したあと、勝手な憶測で作り出した“ユクミ像”を語らなければ良かった。そうすれば互いに事情を話した時にユクミは自分の生い立ちについてきちんと語ってくれたはずで、司が今、こうして一人きりでベンチに座っていることもなかった。
「ユクミ……」
呼びかけても何も答えはなく、周囲はただ風が吹いて行くばかりだ。
「ごめんな、ユクミ。俺、もっとユクミの気持ちを考えれば良かった」
長い時間を一人で過ごすのは寂しくて辛い。先が見えない状況では特にだ。いつまで待てば良いのか分からない中で、自分一人のためにだけ時間を潰すのは長すぎる。
だけどそれもすべてはいつか会う誰か――大事な相手のためだと思えば少しは心が慰められるだろう。とは、司にも想像がつく。少なくともユクミならそう考える。
『約束の者』に会うまでの間、手慰みで作っていたという巾着はたくさんの色があった。加えてユクミは同じ色合いのものを幾枚も作っていたようだ。それは友介に差し出した巾着が青ばかりだったことからも察せられる。
例外的に青だけを複数枚作っていたとは考えられないから、箪笥の中には他の色合いの巾着もたくさん眠っているのだろう。
掲げた巾着を司は動かした。
巾着は振り子のように揺れながら、中に入った小銭の微かな音を響かせる。
昨日は司が白い不織布マスクを買ったときに「黒い方が良かった」と文句を言っていたユクミだが、今日は同じものを買っても何も言わなかった。それは司が青い巾着を選んだためではないか。
司が青が好きなのだと思ったから、ユクミは黒に固執しなかった。そう考えればユクミが青い巾着だけを持って社を出てきたのも腑に落ちる。
まったく、と司は肩を落とす。
司はこれっぽっちも気遣いができないというのに、司の周りにいる者たちは気遣いができるものたちばかりだ。
(隠邪退治の時もだよな。友介と組むと楽だったのは、あいつが完全に俺の補佐として動いててくれたからだ)
友介は常に司が動きやすいように位置取りをし、司の先を読んで行動し、攻撃にすべての力を注ぐ司のために隠邪を留める術を磨いてくれた。
司は彼から与えられるものを当たり前のように甘受し、友介が自分のためにどれほど気を配っていてくれたかを考えようとしなかった。
地面に視線を落とし、両手を足の間で組む。握り込んだ巾着の中で小銭が、ちゃりん、と軽い音を立てた。
『だって僕は司の敵にならない』
ふと、真摯な友介の声が聞こえた気がする。これは朝方、友介が言ってくれた言葉だ。
『例え納賀良さんが司の敵になったとしても、僕は絶対に、司の敵になんてならないんだ』
あの友介は隠邪の反応とは違っていた。だから知穂と同様に、“司の知る世界”の友介と同じ考えを持っていた。友介がそんな風に思っていてくれたことすら、言われるまで司は気づかなかった。
(ごめんな、友介……)
手のひらの巾着を強く握る。今度の小銭の音は、なんとなく友介が「しょうがないな」と笑っている声のように思えた。
「分かってくれたなら、いいよ」
友介ならそう言いそうだ。
加えて、
「司の察しが悪いのは昔からだろ? もう慣れてる」
とも言うだろう。
苦笑した司は手の中の巾着をポケットにしまい、立ち上がる。
(……さて、どうするかな。片っ端から隠邪を倒してみるか、それともあの暗闇の先に行けないかどうかを試してみるか……)
考えながら公園の出口へ向かう。視界に入る木は桜ばかりだ。今は誰もいないこの公園だけれど、春になれば花見をする人の歓声であふれるのだろう。
見てみたかったな、と思った司は同時に、この異界に桜は咲くのだろうかとも思う。
この異界は少なくとも一回は同じ日を繰り返している。このままずっと同じ日を繰り返していくのだとすれば永遠に桜など見られない。
(この異界に住む連中は隠邪だから、桜が咲いたところで花見をしたりしないだろうけどな。……ああ、でも)
知穂が望むのなら、ここだって花見客であふれるのかもしれない。
(……桜……サクラ……か……)
桜の言葉で思い出す中には司の心をひどくかき乱すものがある。
納賀良家の墓所にある一本の大きな桜。あれが、聡一の黒い服の上に白い花びらをはらはらと散らせていた風景。
まだ春の早い時期の話だったから、他のところで桜を見たことはない。なのにどうしてこの桜は咲いているのだろうと思う司に、祖母の佐夜子が教えてくれた。
納賀良家の墓所にある桜はエドヒガンという種類で、司の言う桜「ソメイヨシノ」よりも早く咲くのだと。
エドヒガンの白い花びらは桃や薄紅より青い空に映えるように司には見え、そんな美しい景色の中で知穂を埋葬するのは――。
(いや、違う。知穂ちゃんのときの俺はあれがエドヒガンだと既に知ってた。だから、あれは……)
あれは知穂がいなくなる二年前、美織の葬儀のときの記憶だ。
聡一は墓所のエドヒガンが咲いている時期に妻を失った。花びらの下で聡一が骨壺を抱いて立ち、横で三歳の知穂が「サクラ。きれいだね」と呟いた。
その声が先ほどの声と被って聞こえ、司は胸元を握りしめる。
どうして思い出さなかったのだろう。
さらに二年後、今度は知穂の葬儀があった。知穂を埋葬するときは苦しくて苦しくてたまらなかった。隠邪に食われた知穂は何も残っておらず、形だけの埋葬だったから。
だけどそのときも桜は綺麗だった。あんなにも悲しい景色を彩る満開の桜が綺麗で、悲しいからこそ余計に綺麗で、それがいっそう司を辛くさせた。
聡一はあの桜が咲く時期に妻を失い、そして娘も失ったのだ。
(……あそこだ)
足に力を入れて走り出そうとしたところで、司はふと動きを止めた。ユクミの声を聞いたような気がしたのだ。
辺りには誰もいないので、気のせいでしかないことは分かる。だけど司は空に向かって声を上げた。
「ユクミ! 本当にごめんな!」
できれば消えてしまう前に「半分だけ妖、なんて理由でユクミを嫌ったりしない」とも伝えたかったが、これは「もしかしたらどこかで聞いているかも」などという自己満足な状態で言うのではなく、本人に直接伝えたかった。
相変わらず後ろからの足音は聞こえないけれど、司は今度こそ大きく地面を蹴る。
向かうべき場所が決まった今、足は思った以上に軽い。
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