4.うた

 首を巡らせると、小さな顔も一緒に友介を見送っている。もやつく今の気持ちを出さないよう、生前していたようにゆっくり息をして気分を変えてから司は口を開いた。


「……どうして友介にかねを借りたんだ?」

「その方がいいと思った」


 意外にも返って来たユクミの声は少々翳りを帯びている。


「この異界は陰の力によってできている。たとえ世界の理が急に捻じ曲げられたとしても、陰の気配によって形づくられた存在なら順応できるだろう。……友介のように」


 確かに友介はこの異界の時が連続していると思い込んでいたようだ。あれはこの異界に順応していたせいなのか。

 同時に司はユクミが異界の仕組みに関して同じ見解を持っているのだと悟った。世界を作れるユクミが同じことを考えているのなら、司の仮説が正しいと実証されたも同然だ。


「やっぱりこの異界は、昨日と違う時間軸にあるんだな?」

「おそらくは。……それが時間が巻き戻ったのか、あるいはまた新たに時間が生まれたのかは分からないけど……」


 少し言い淀んでからユクミは呟く。


「陽の気しか持たないアヤがどうなったのか心配なんだ。友介に金を借りたら、“でんしゃ”に乗れる。走るよりずっと早く着くだろう?」

「……確かに。じゃあ、なるべく急いだ方がいいな。行こう」


 首肯するユクミを確認して司は歩き出す。湧き上がってきたのは自己嫌悪だ。

 アヤなる人物はこの異界にとって異質な存在であるらしいと聞いていたのに、そのことにまったく思い至らなかった。


(……まったく。俺は自分のことばっかりだ)


 ユクミは外で待っているというので、司は一人でコンビニエンスストアに入る。マスクに加えて最大の目的であるカッターナイフを手にしたあと、ふと棒つきのキャンディも買おうと思ったのは、なんとなく罪滅ぼしの一環だったのかもしれない。


(昨日は自分のものしか買わなかったもんな)


 無機質な店員の声を聞きながら友介に渡してもらった金で支払いを終え、ユクミがくれた巾着に釣銭を落とし込む。店を出るとユクミは昨日のように辺りを厳しい顔で見ていた。


「何かあったのか?」

「いや。変わったことはない」

「そっか」


 そのユクミの前に棒付きキャンディを差し出すと、彼女は厳しい顔つきを一変させた。実際の年齢はともかく、外見の年齢相応に見えるきょとんとした表情だ。


「これはなんだ?」

「飴だよ」

「飴? そうか、こんな形の飴もあるんだな。全部こういう形かと思っていた」


 ユクミは司に手を広げて見せる。そこには昨日と同じ飴が乗っていた。どうやら今日の友介もユクミに飴を渡していたらしい。そこに司が棒付きキャンディも乗せてやると、ユクミは黒い瞳を瞬かせる。


「あげるよ」


 司が言うと、ユクミは司を見上げ、手のひらへ視線を落とし、もう一度司を見上げて、また手のひらを見つめる。その頬が少しずつ赤みを帯びてくるので司はぎょっとした。


「どうしたんだ?」

「……司。司はこれを、私にくれるのか?」

「そのつもりだったけど、いらないようなら――」

「いらなくない!」


 キャンディを包み込んだ両手を胸に抱き、ユクミは頬を紅潮させて司を見上げた。その瞳は今の日差しのようにキラキラと輝いている。


「もらう! ありがとう、司! ありがとう、ありがとう!」

「あ、ああ……うん」


 数十円のキャンディでこんなに喜ばれて嬉しいという気持ちと、こんなに喜んでくれるなら昨日も買っておけば良かったという後悔とがないまぜになって司の胸の中で渦巻く。それらを払うようにして首を振り、「行こうか」と言って歩き出した。妙に重い気がする司の足とは裏腹に、ユクミの足取りはとても軽いようだ。気が付くと先に立って歩いている。今のユクミは完全な人の姿に変化へんげしているので三本の狐の尾は見えないが、妖の姿のままだったらきっと足取りに合わせて揺れていたことだろう。


 もしもその姿を知穂が見たらなんと言っただろうか、と司は思う。


 知穂は狐が好きだった。たまに皆で動物園へ行ったが、あれは知穂のリクエストで狐を見に行っていたようなものだ。知穂の母、つまり聡一の妻である美織も狐が好きだったようなので、その影響なのかもしれない。


(そういや知穂ちゃんはときどき、狐の歌も歌ってたっけ)


 その歌は知穂からしか聞いたことがない。どこで覚えたのか尋ねたこともあったが、知穂は「ナイショ」と言って教えてくれなかった。

 もしかしたらこの異界の知穂も狐の歌を知っているのだろうか。


「……子ギツネ キツネ

 はんぱな キツネ

 仲間に入れてと なく キツネ……」


 知穂の歌声を思い出しながら司はなんとなく口ずさんでみる。

 そのときだった。ユクミが急に体を大きく震わせ、立ち止まる。尋常ではない様子を見て取った司は歌をやめ、周囲へ気を配りながらユクミの横に並んだ。


「ユクミ。どうした?」


 しかし返事はない。よほどの何かがあるのか。


「何が、あったん――」


 少し腰を落としてユクミの顔を窺った司がそこで言葉を途切らせたのは、ユクミの表情が思いがけないものだったからだ。

 先ほどまで紅潮していたはずの頬は青を通り越して真っ白になっている。目は恐怖で大きく見開かれ、唇は微かに震えていた。


「大丈夫か、ユクミ!」


 ユクミは答えない。視線を落とし、浅い呼吸を繰り返す。忙しなく動く肩を気にしながら辺りを警戒するうち、司の耳に、ふ、ふ、という呼吸にまじって小さな声が届いた。


「……どこで」


 ともすれば風に攫われてしまいそうな、小さな小さな声だった。


「どこで、きいたの」

「聞いた? 何を?」

「うた……」

「歌? ああ、さっきの狐の? あれは……人が歌っていたのを、聞いたことがあったんだ」


 知穂が歌っていた、と言えなかったのはユクミの様子があまりにも不安定だったからだ。なんとなく言わない方が良い気がしてぼかす。


「……そう……」


 深く追求することなくうつむいて、ユクミは胸元の両手をぎゅっと握り合わせる。


「……それは、いやなうた……もう、うたわないで……」


 分かった、と司が答えるとユクミは小さくうなずく。歩き出す気配がなかったので司が足を動かすと、小さな足音はまた後ろから聞こえるようになった。ただしそれは今しがたの弾むようなものではなく、疲労困憊しながらやっと動かしているかのような、そんな印象を与える足音だった。

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