11.覚悟と引き換えるもの
人間を食う
その隠邪と戦うものたちが、
いかに隠邪を滅ぼす力を持っていたとしても祓邪師だって人間だ。隠邪の近くにいれば食われてしまうことだってあるのだろう。もしや祓邪師たちにとってはよくあることなのかもしれない。実際に先ほど司は「隠邪に食われて絶えた家もある」と言っていた。
ただ、その災いがあの
「隠邪の存在を知るのは、祓邪師以外だと政府中枢のごく一部だけ。それ以外の人に知られるわけには、いかない」
言いながら司は上着の横から透明な袋を取り出した。中には小さな布の袋がいくつか見える。それが香り袋のようだったので、どんな良い匂いがするのだろうかとつい身を乗り出してしまったユクミは次の瞬間、
「ぴゃう!」
声を上げて飛び退り、右肩と後頭部を壁にしたたか打ち付けた。
司が開く透明な袋から漂ってきたのは、あらゆる汚物を詰め込んで腐らせたかのような酷い
「ご、ごめん!」
謝る司が慌てて袋を閉めるが、既に臭いは社の中に充満していた。
頭や肩の痛みに加え、あまりの悪臭で鼻の奥も痛い。涙目になったユクミは右手で鼻を押さえながら左手で室内を扇ぐ。その動きに応じて室内の空気が大きくうねり、格子をくぐって外の空気と入れ替わった。幾度も格子扉の揺れる音を聞いたユクミが恐る恐る鼻から手を取り払うと室内の空気は元の清浄さを取り戻しており、司も先ほどの袋を上着に入れてくれているので、ようやく安堵の息を吐くことができた。
「……鼻が駄目になるかと思った……」
呟き、ぶつけた右肩と頭を左手でさすりながらもう一度先ほどの場所へ座ると、司が気まずそうに頭を下げる。
「確かにこれはすごく嫌な臭いがするんだ。先に言えばよかったな、ごめん。ぶつけたとこ平気か?」
「もう治った」
司がきちんと仕舞ってくれたとは分かっていてもユクミは司の上着の一部を凝視してしまう。あそこに悪臭の元があるのだ思うと落ち着かない気分だ。
「あれは何だったんだ?」
「隠邪の好む臭いを調合したものだ」
「なるほど、あんな臭いを隠邪は好むのか。ならば私は奴らと絶対に仲良くできないな」
「奇遇だな。俺もだよ」
思い切り顔を顰めるユクミに向け、司もうなずく。
「だけどこの袋は祓邪師が全員持つ物なんだ。長ったらしい正式名称はあるけど……そっちで呼ぶ人はほとんどいない。みんな『覚悟の袋』って呼んでるからな」
「覚悟?」
「そう。――さっきも言ったけど、隠邪がいることは人々に知られちゃいけないんだ。何しろ隠邪ってのは今や“お伽話”みたいなもんで、実際にいるんだって分かったら世の中は大混乱に陥る。だからいざってときに祓邪師は、自分たちの身を差し出してでも隠邪の動きを止めるんだ。何よりも隠邪の討伐を優先させるっていう、その覚悟の印が今の小袋さ」
司は、袋を入れた場所を上着の上からそっと押さえる。
「この臭いがしたらどんな隠邪も引き寄せられる。戦闘の途中だろうと瀕死の状態だろうと関係なく、臭いが届く範囲にいるすべての奴らが発生源へ向かうんだ。だから祓邪師たちは隠邪の注意を自分へ引くためにこの袋を使うことがある」
「司も使ったことがあるのか?」
「もちろん。ユクミに会う直前の討伐でも使った。一網打尽にしてやろうと思って集めた隠邪のうち、足の遅いヤツが離脱しそうになったからな」
ということは祓邪師たちは日常的に使っているのだろうか。ユクミがそう問うと司は首を横に振る。
「いいや。なんだかんだ言っても隠邪に狙われるのは俺たちだって怖いから、よっぽどじゃないと使わない。……だけどあの戦闘のとき俺は、友介と組んでたから」
言いかけて口を閉じ、司は寂しく笑う。
「友介なら気心が知れてる。万一のときにもフォローしてくれると信じてたから使ったけど、他の祓邪師と組んでたなら使わなかったろうな。それに、婆ちゃんと一緒でも使わない。『安易に袋を使うんじゃない』って怒られるのが目に見えてるし。あと……昔の聡一はやんわり注意してくる程度だっんでたまに使ってたけど、途中からは……」
言い淀む司の口調には悲痛さがあった。使わない理由を司が言わないことも含めてユクミにはなんとなく察しが付く。だが、つい尋ねてしまったのはやはり明確な答えが欲しかったため。加えて、司がユクミの質問を待っているような気がしたためだ。
「なんで聡一の前で使うのをやめたんだ?」
司の答えはユクミの想像通りだった。
「知穂ちゃんが隠邪に食われた理由は、覚悟の袋を使ったからなんだ」
思わず漏れ出た「ああ」という自分の声を、ユクミはどこか遠くで聞いたような気分になる。
「……知穂は、それが隠邪を集めるものだと知らなかったのか?」
「知っていたんだよ。だから、使った」
その後の沈黙は今までで最も重かった。
雨が屋根を叩く微かな音の中、司は口を開きかけてはつぐむ。それを何度か繰り返した辺りでようやく考えが纏まったらしく、一度大きく肩を上下させて話し始めた。
「俺はそのときの討伐に参加してなかったんで、これは全部、後から聞いた話だ。……三年前、五歳だった知穂ちゃんは、少しずつ術を覚え始めたこともあって聡一がときどき遠くから祓邪師と隠邪の戦いかたを見せていた」
祓邪師の子どもがまず見学から始めるのは珍しいことではないらしい。「俺もそうやって少しずつ慣れていったんだよ」と司は言う。
見学に際してはもちろん付き添いがおり、子ども一人に大人が二人というのが常だそうだ。そのとき知穂についていたのは父親の聡一と、年配の男性祓邪師だった。
「普段ならそれで問題ないんだけど、あの日は意外なほど多く隠邪が出た。見学を開始してすぐ、危ないから知穂ちゃんは拠点へ戻そうってことになったらしい。……でも多分、知穂ちゃんはそれが不満だった……」
自分も戦える、と言い張る知穂を強く宥め、聡一は知穂の手を引いてもう一人の祓邪師と共に拠点の建物へ向かった。その途中で知穂が誰とも戦闘をしていない隠邪を見つけた。「このままだとあの隠邪は家のある方へ行ってしまうかもしれない」と知穂は訴えたが、聡一は知穂の言葉に耳を貸さなかった。
ユクミは思わず口をはさむ。
「何よりも隠邪の討伐を優先させるのが祓邪師の務め、ではなかったか?」
「その通り。だけどこのときの聡一は知穂ちゃんを優先した」
ただ、年配の祓邪師だけは「隠邪を放置はできない」と言って隠邪の方へ向かった。
祓邪師は基本的に単独行動をしない。それは術を使う際にできる隙を互いに補い合うためだ。さすがの聡一もこのときは仲間の祓邪師の方へ気を取られ、ほんの一瞬だけ知穂への注意が逸れた。
たったの一瞬。
だがその一瞬が失敗だった、と聡一はのちに佐夜子へ語った。
このごくわずかな隙をついて知穂が聡一の手を払い、走りだした。直後、周囲に嫌な臭いが立ち込める。聡一の『覚悟の袋』を知穂がいつの間にか持ち出して使ったのだ。市街への方へ行こうとした隠邪が知穂に寄ってくる。
それだけではない。周囲で戦っていた他の隠邪も、祓邪師たちとの戦闘を放棄して知穂の方へ向かって来た。
もちろん聡一は知穂を守るために術を使ったし、周囲の祓邪師たちも対応しようとした。しかし残念なことに隠邪の数は多かった。倒しきれなかった隠邪のせいで、小さな体はあっという間に消えてなくなった――。
話を聞いているだけなら、司はうまく感情を抑え込んでいるようだ。荒ぶることも震えることもない声は、一定の調子で過去の惨劇を語っている。
ユクミは床の木目と、膝の上で強く握られた司の拳とを見つめながら、先ほど会った小さな彼女のことを思い出した。記憶の中の彼女が笑っているのが、ユクミの胸の奥を更に重くさせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます