8.嘘と過去

 驚きに満ちた司の声を聞いてユクミは「しまった」と思った。

 司に気を使わせないよう「戦いは嫌じゃない」と言ったのだが、どうやら「妖は戦いを好まない」というのが常識らしい。

 困って視線を落としたユクミだったが、逆に考えるのならここが好機かもしれないとも思う。


 ――生い立ちを話してしまおう。


 途端に心の中で「それはやめておけ」という小さな声が生まれる。

 受け入れてもらえるかどうか分からないのだから、黙っていても良いではないか、と。


 葛藤はわずかだった。

 話すべきだと決めたユクミは改めて床に座る。司はユクミと同様に床に座っているが、背の高い彼は座っていてもユクミより顔の位置が高い。その彼を見上げてユクミは唇を開く。


「……あの」

「ごめんな、ユクミ」


 しかし間の悪いことに、司が先に話し出してしまった。


「俺は伝聞でしか妖のことなんて知らないのに、半端な知識で勝手なことを言ったかもしれない」


 半端という言葉がユクミの心を刺した。声が出なくなる。


「妖だって縄張りを侵されたら攻撃するんだろ? ユクミの外見からするともともとは狐かな?」


 邪気のない司の言葉がさらにユクミの心を抉る。

 ユクミの母は確かに狐だった。しかし父が人間であるユクミには獣の姿がない。人でありながら狐の耳と尾を持つ、この姿こそがユクミの本性だ。もちろん術を使って狐に変化へんげはできるが、それは本性とは言えない。


「狐だったユクミは人の世界で縄張りを持ってたんだろ? 戦いを好まないユクミあやかしは人の立ち入らないどこか山の奥の方でゆっくりするつもりだった。だけど山奥にだって隠邪は関係なく現れるから結局は争う日々で、うんざりしたユクミはどんどん隠邪が鬱陶しくなった。だから隠邪となら戦うのが嫌じゃないんだ」


 納得したように一人うなずき、司は続ける。


「まあ、戦うのが嫌じゃないって言っても、戦いたいわけじゃないよな。結局のところユクミは縄張りを捨てることにした。この灰色の世界を作って籠ることにしたんだ。だけど隠邪のせいで人間が困ってることを知ってた優しいユクミは、祓邪師に『助けが欲しければここへ来い』って言い残してくれたんだ」


(どうしよう……)


 ユクミはきゅっと両手を握る。


(……全然違う)


 彼の考えを正さなくてはいけない。分かっている。分かっているのに、微笑んだ司が、


「こんな感じで合ってるだろ?」


 と問いかけてきたとき、ユクミは曖昧にではあるが首を縦に動かしてしまった。


 もしも司がユクミのこの首肯しゅこうを奇妙に思い、改めて問い質してくれたのなら本当のことを言う勇気も出ただろう。しかし彼が嬉しそうな笑みを浮かべて「やっぱり!」と言ったので、ユクミは正直に言いだすきっかけを失ってしまった。


「実はさ、今の隠邪は決まった場所にしか出ないんだよ。何百年も前に祓邪師と隠邪の決戦があって、なんとか人間が勝って、その後に隠邪の通り道をふさいだから。……つまりユクミはその決戦が起きるよりも前に生きてた妖ってことなんだな。そりゃ強い力を持ってるわけだ」


 司は妙にすっきりとした表情をしていた。

 どうやら彼の中でユクミは「本性は狐」であり、「人間の世界にいたときは縄張りを持って」いて、「それを守るために隠邪と戦い」、果てに「争いにんでこの灰色の世界を作って籠り」、そして「助けを求められるまでここで待つ」存在として決定づけられたようだ。


 確かにユクミの生きていた頃は隠邪がそこかしこに出没していた。だからユクミが長く生きていることだけは間違いない。ただ、他は何一つとして合っていない。

 時間が経てば司の中では思い込みが真実になってしまう。早めに打ち明けなくてはいけないと分かっているのに、じわじわと湧き出る「それが真実でいいじゃないか」という気持ちが強くなるせいでユクミの口は開いてくれない。嘘は駄目だと叫ぶ心はどんどん隅に追いやられていく。


(……だって、全部嘘というわけじゃない)


 ユクミの母は狐の妖だった。


(だから妖としての私は起源が狐。そうだ、狐だというのは嘘じゃない)


 しかもその母は大きな山を縄張りとしていた。ユクミも母と一緒に山の見回りに行くことがあった。


(だからあの山は私の縄張りでもあった。そうだ、縄張りがあったというのは嘘じゃない)


 そしてユクミは、母を失ってから隠邪と戦う日々を送った。


(そう……私は隠邪と戦ったから……)


 戦った理由は縄張りを守るためではなかったけれど。


(戦ったことだけは間違いない。だから、嘘じゃない……)


 だけど「争いに倦んでこの灰色の世界を作って籠った」はどう考えたら良いのか分からなかった。

 戦うのが嫌だったのは嘘ではない。だけど、この世界を作ったのはユクミではないのだ。


 あれはもう、何百年も昔のこと。

 その日に戦った隠邪は強かった。辛うじて勝ったものの大きな傷を負い、ユクミは草むらの中で動けなくなってしまった。

 もしもこのまま死んだなら、父は、父の家族は、村の誰かは、ユクミを思って泣いてくれるだろうか。


(……泣いてくれたら、いいな……)


 そう思いながら雨に打たれていたとき、現れたのが一人の老爺ろうやだった。

 彼はユクミを屋根のある場所へ運び、傷の手当てをしてくれ、こう言った。


「妖と人間の血を持つものよ。お前のことを見ていたよ。お前は人間のために隠邪と戦っているのだね。母を人間に殺されたというのにとても健気な子だね」


 ユクミの事情を知っているこの老爺は村の関係者かもしれない。もしかしてまた苛められるのだろうかとユクミは反射的に身を小さくしたが、意に反して老爺はユクミの頭を優しく撫でる。頭を撫でてもらったのは母が死んで以来のことだったので、とても懐かしく、あたたかく、そして嬉しかった。


「小さな者よ。お前を見込んで頼みたいことがあるのだ」

「頼み? 私に?」

「そうだよ。お前にだ」

「どんなこと?」

「ここではない場所へ行き、望みを抱いて来る者――『約束の者』を待ってもらいたいのだよ。もしも引き受けてくれるのなら、あの村が隠邪に困らないよう便宜は図ろう。どうだ?」


 ユクミはしばし悩んだ。

 正直に言えばユクミが隠邪を倒しているのはあの村のためというより自分のためだ。自分が隠邪を倒している限りあの村は頼みを聞いてくれる。そしてあわよくば、いつか自分のことも受け入れてくれないかとの淡い期待もユクミは持っていた。――だけど。


「……聞いても、いい?」

「なにかな?」

「その、『約束の者』っていう人は……すぐに私と仲良く、してくれる?」

「もちろんだとも」


 老爺は破顔した。


「お前たちはその後の運命を共にするのだからね」


 決め手はその言葉だった。

 それに、自分が老爺の言うことを聞く見返りとして隠邪が出ないよう便宜を図ってもらえるのだから、自分が倒しているのと同じだと言えるはず。

 そう考えたユクミが「やる」と答えると、老爺はユクミを不思議な領域へいざなった。曇天の下で小糠雨が降る、静かな灰色の場所。

 草原にぽつんと建つ社へ入ると、中にはいつの間にかユクミのための品々が用意してあった。箪笥の中にはたくさんの着物、籠の中には各種の遊び道具、他にも鏡台や水が湧き出る甕などが。

 妖のユクミは服を汚さないし、飲食を必要とはしない。でもこうしてこまごまとしたものに囲まれていると、両親と一緒に山中の小屋で暮らした日々を思い出してあたたかい気持ちになれた。


「では、たのんだよ」


 声と同時に社の格子扉が閉じられる音がしてユクミは振り返る。まだ重要なことを聞いていない。


「『約束の者』はどんな人なの? どうやったら分かるの?」

「解放の言葉を使ってこの扉を開ける者が『約束の者』だ。時を重ねるうちにお前が心のまま選ぶことになるだろう。『約束の者』によって道が決まれば、この場所も閉ざされる」


 老爺の表情は陰になって良く分からなかったが、声には笑みがまざっているような気がした。


「――さて、どのようになるかな」


 その言葉を最後に残し、老爺は姿を消した。

 だからここを作ったのが誰なのかまったく分からないまま、以降のユクミはずっと一人で『約束の者』に思いを馳せながら過ごしてきた。いつか必ずユクミを頼って『約束の者』が来る、ということだけが心のよすがだった。


 なのにユクミはようやくここへ現れた司を。その後の運命を共にするはずの相手を、見捨てようとした。

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