#敬宮愛子様誕生日に思う

夢美瑠瑠

#敬宮愛子様誕生日に思う



 この漢字が読めない人もいるかもしれませんが、(KYではなく知識が足りずにw)「トシノミヤ」と読んで、愛子内親王の、正式なお名前なのです。


 よく知らんが、習わしで、現天皇は徳仁(なるひと)、昭和天皇は裕仁(ひろひと)だった。上皇様は失念したw




 年号が決まる時のプロセスやいわれもなんとなく知っているが、こういうのは誰が考えるのだろうか?寡聞にして知らないです。


 日本の皇室が「万世一系」といって、世界一古い王家?ロイヤルファミリーらしいのも知っています。


 邪馬台国の卑弥呼、とは関係ないのか?


 志賀島の金印?というのの、漢委奴国王、というのは誰やったかな?とかも曖昧。




 日本神話の、イザナギイザナミ、ヤマトタケル、は天皇の先祖らしいが?実在の人物かどうかはよく知らない。


 神武天皇、雄略天皇…とかの初代からの系譜が、教育勅語にあって、親とかは暗記させられたらしい。


 女帝は確か3人?持統、孝徳…あと度忘れで調べると、10代で8人おられたらしい。




 壇ノ浦で入水したのが安徳天皇で、女性、と記憶していたが、これはまだ天皇は子供の頃だったので、諸説あるそうです。その後に生き延びたという伝説とかもあるらしい。




 皇室典範では、天皇になるのは直系の男子?と定められていて、と(適当にあやふやなことばかりうろ覚えを書き散らしてしていますが時間つぶしなので?ご容赦ください)愛子様が天皇になれるかどうかは微妙らしい。「継承順位」だと秋篠宮家の、殿下?二人が優先らしいよな?




 皇后の雅子様については、これまでに毀誉褒貶や甲論乙駁?百家争鳴?喧々諤々?なんだかいろいろ日本社会が揉めてきた印象があって、皇后さまとは同じ1963年生まれなのですべてボクなどもリアルタイムで追体験?というかともに月日を歩んできたというような?烏滸がましいがそういう世代です。


 


 最近では有名なスケーターが世間との軋轢というか圧力?嫌がらせ?に耐えかねて離婚したという事件があったですが、こうした「有名人」への嫉妬というか何とはなしに違和感があるゆえのイジメ?そうした空気社会ゆえの弊害はよく問題視されて批判もされるし、典型例が皇室やその係累、あるいはスキャンダルを起こした芸能人とかかと思う。




 社会のこととかはわりと感覚が鈍いので?生半可ですが、例えば皇室をめぐる微妙なクーキ?がなにゆえに生じるかとかはそれこそフッサールという現象学者にでも聴かなければわからないような?なんだか不可解な様々な現象が現実には当然のように生じるというそのワンノブゼム?としかボクには理解できない。




 教室での「イジメ」と同じなのだ。原因やメカニズムは結局ナゾであって、ある自殺した子供は「いじめの原因、それは空気だ。…」と遺書に書いていたという。が、その子も「じゃあ、空気って何だと思う?」と重ねて問われたら答えに窮すると思う。




 ボクもいろいろと「いじめ」の本とかを読んだこともある。


 自分でも、人間の集団というものが要するにどういうメカニズムで行動しているのか?そういうこともよく考える感じです。


 そういうことに関する様々な表現も目にして、繰り返し想起するフレーズとかも多々ある。




 「スケープゴート」という言葉は、「贖罪の山羊」という意味で、いけにえの羊、とまあ同義かと思う。


 


 「告朔の氣羊」というのは、中国の魯の国に毎月一日に羊のいけにえを捧げる習慣があったことですが、これはそういう習慣が廃れている、形骸化していることを孔子様が嘆いた、という故事のことであまり関係ないです。




 「シッダールタ」というのはヘルマン・ヘッセがブッダの生涯を小説仕立てにしたものですが、その中に「いけにえ」という表現がたびたび出てきて、意味不明ですが、想像するにマヤ帝国とか南米の原始的な宗教は「イケニエ」の習慣があって、ハドソンの「緑の館」とかも、それを踏まえていたのかと思う。そういう文脈の延長で、仏様以前のインドには「いけにえ」などという宗教紛いの蛮風が遺っていたとかそういうことの表現かと思う。




 つまり人間-human-being-というものの心性には、「いけにえ」を求めるという、プリミティヴではあっても、集団の宿命として根本にどこかそういう存在を希求してしまう、そうした性向が存在するのではないか?




 が、普通には人間はだんだんに成長して大人になっていき、そういうまあ言ってみれば動物的な衝動とは訣別して?或いはキリスト教、仏教、或いはヨガ、瞑想、というように精神的に sophisticateされ、 進化、深化していく、そういう道程をたどるのがヒトの、ホモサピエンスとしての本来的で真っ当で、正統的な在り方だと思う。




 根っこにある暴力的な衝動は、が不図した時にやはり、例えば群集心理にからめとられたり、怒りで理性が消し飛んだり、酔っぱらったり、ドラッグのアルタードステイツとか?だから本能というのはもしかしたら、精神、理性の上澄みというか、芸術や美と逆の観念なのかなとか、そうすると「いけにえ」を求めてしまうというのは道徳的、または人間的に?もしかしたら本当は正しいことなのだろうか?それが天使とか悪魔とかそういう概念のプロトタイプなのかな?とか、




 なんかこんがらかってきたけど、兎に角、思春期には「唯幻論」にしかリアリティがなかった自分も、経年劣化はしてきたが?「自分の頭で考える」というのがどういうことか、と、そういう初歩的な自我の萌芽とかに目覚めてきた、と、そういう自覚もあって、やはり命や人間は尊い?と思えるようになりかけてきた気もする。




 ボクにはだから、愛子様、やそして「愛」が本当に尊いものだとも今は本音では思いにくいのだが?


 誕生日を、(特に自分の場合は?w)本当にめでたいとか思えないのがそういう不幸な運命の端的な表れなのだろうが?




 兎に角、迷える子羊を「いけにえ」にするのは人間ではないヒトでなし。


 


 そうして、「電気羊ちゃん」にも「賢者の贈り物」の夫婦が「賢者」であるという本当の意味が、そういう大人な認識のいろいろが、いつか分かってくる日が来るかもしれない…? 




 人間を肯定できる日が来るかもしれない。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

#敬宮愛子様誕生日に思う 夢美瑠瑠 @joeyasushi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ