最後の仕事 五 〜秘密暴露は仕事の後で〜

 霞が帰るとすぐ、桜が帰ってきた。

 彼は腕まくりをして台所に入ると、皿を洗い始めた。


「許可は下りましたけど、流澄さんのことは黙っていますからね。捜査は僕単独でやることになりましたから。あと、秘密警察の職務の範疇を超えたものだから、下手な真似はするな、と。たしかにこれ、もう秘密警察じゃなくてスパイですよ」


 カチャカチャという音にかき消されないように、少し声を大きくして桜が言う。


「ついにスパイか、経験が増えていいんじゃないかい」


 流澄はソファにもたれたまま背をそらして、首だけを逆さにして、桜の顔を見た。


「許可が下りたこと自体奇跡ですからね!僕の弁舌に感謝してください」


「はいはい、ありがとう」


 流澄は座り直すと、窓の外に目を向けた。

 西日が床を赤く染めている。日が沈むのが早くなった、と彼は思った。


「たばこ、たばこか」


 彼はふとつぶやいた。

 「はい?」と桜が聞き返す。


「いや、ベルメール帝国に行くなら、たばこを吸ったほうがいいかな、と。ベルメール人はたばこが好きだからね」


 流澄は西日に懐古の目を細めた。


「そうは言いますけど、体に悪いですよ。ミシェルさんに言ったら、絶対反対されますね。逆に体が弱い設定にしては?」


「うむ、体が弱い設定、か。悪くないね。何かにつけては咳をして、肩を上下させていればそれらしくなる。舐められるだろうが、それくらいがちょうどいい」


 桜は単純に流澄の体を気遣っているのだろう。流澄にはそれが自然に心地よい。


 流澄は年季の入った照明を見上げた。


「昔の煙管きせるを出そうかと思ったが、どうやらその必要はないようだね」


「たばこを吸っていたことがあるんですか?」


 桜が皿を置く、ガチャンという音が響いた。


「ああ。ルーチェ王国立大学に入る前だよ」


 流澄は遠くを見る目で言う。

 桜は少しためらった後、口を開いた。


「前から気になっていたんですが、流澄さんの出身って、どこなんですか?」


「秘密は秘密であるからこそ価値があるんだよ」


 使い古して手に馴染んだ辞書のように、少しも間を置かずに出る言葉。


 桜はここで引いてはいけないと思った。彼のような者でも、好奇心は抑えられないのである。


「ミシェルさんにも、そう言ってはぐらかしたんですね」


「ミシェルのやつに変なことを吹き込まれたのかい」


 桜の立つ台所からは、流澄の顔は見えない。


「いい加減教えてくださいよ、もう僕もミシェルさんも、とっくにしびれを切らしています」


 桜の皿を拭く手は、いつの間にか止まっていた。


「君たちの事情なんて知ったこっちゃないね」


「そこをなんとか」


「だめなものはだめだ」


 珍しく強い流澄の語調に、桜は台所から出ようとして、やめた。


「私だって、君の秘密を詮索したりはしなかっただろう」


 そう言う声は、普段の調子に戻っていた。


「それはそうですけど……。あなたは国にも記録がない。僕の場合とはわけが違います。お願いします、一生秘密は守りますから!」


 桜は顔の前で手を合わせて頼んだ。流澄はやっと振り返ると、


「そんなに言うなら、話さないこともないが……」


 そう、少し不機嫌そうな顔で言った。


「君ほどの者でも、好奇心には勝てないか」


 失望したよ、とは彼は口に出さなかった。


「勝てませんよ。あとは、どのようにして集めた財産なのか、把握しておく必要がありますからね」


「仕事にこじつけているようにしか聞こえないがねぇ」


「好奇心だって認めたじゃありませんか」


 むむ、と唇を尖らせ、桜は皿拭きを再開した。


「教えてもいいが、ひとつ条件がある」


 流澄は人差し指を立てた。


「何でしょう」


「誘拐事件を解決してからだ。逮捕の直前に話そう」


「それって、いつになるんですかね」


「さあね。君自身の腕前しだいじゃないかい」


 流澄は他人事ひとごとのように答える。


 桜は、条件つきでも、教えてもらえるだけありがたく思うことにした。

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