第18話
「暗いじゃない」
気がつくと自分の部屋に戻ってきていた。完全に無意識だったが、これが帰巣本能というやつだろうか。まるで動物だ。
部屋にはミシェルがいた。ここのところ、ずっと彼女はここにいるが、自分の生活は良いのだろうか。気がつくと、随分彼女の私物が増えた。元々、私の部屋にはほとんど物がなかったが、今では随分にぎやかになってしまった。壊れたディスクリートは彼女が捨てた。
ミシェルがこちらに気づいたのと同時に、子供も私が帰ってきたことを認識した。そして、彼女は笑顔になった。その笑顔を見た瞬間、体に衝撃が走ったような気がした。私の全身を幸福感が駆け抜けた。
やはり、自分は決定的に変わってしまった。
ミシェルに話すべきか悩んだ。そんな私の様子を見て、ミシェルは眉を顰めた。
「なによ」
私は頭(かぶり)を振った。こんな気持ち、話したところで馬鹿にされるだけだ。
「なにも」
私は部屋を出て屋上へ向かった。途中、廊下にはまだ銃痕が残っていたが、玄関扉は新しくなっていた。あのマフィアたちは、あれ以来現れていない。
初めてあの子供と出会ったのがここだった。あのとき座っていたベンチを撫でる。腰を落ち着けると、空を見上げた。空はまだ明るかった。この時間帯は、何故か不思議な気持ちにさせる。あるはずのない郷愁が込み上げてくるのだ。これも、人間に植え付けられた感情の一つだろう。
ポケットに手を入れると、電子タバコが一本入っていた。オーナーが喫(の)んでいる銘柄だ。咥えて熱すると独特のフレーバーと水蒸気が発生する。デカダンスではない、ただの電子タバコだった。オーナーはどうしてこれを私に渡したのか。彼のことだ、意味なんてないのだろう。
煙が茜の空に向かって立ち昇った。まるで空へ還る天使の道筋だーーオーナーが以前そんな事を言っていた。彼にしてはロマンティックなポエムだが、似合わないなと思ったのを覚えている。
もうすぐ、マフィアから宣告された期限の一週間だった。
子供を手放すべきだろうか。このまま、私と一緒にいたところで彼女が幸せになるとは思えなかった。私のような日陰者と一緒にいるよりは、ミシェルに任せたほうが良いかもしれない。ミシェルは子供のことを気に入っているし、私よりも世話が上手い。もしかしたら、マフィアだって私よりは彼女を大事にしてくれるかもしれない。なぜなら、彼女はこの地上唯一の人間の生き残りなのだから。無下にされることはないだろう。
何度考えても、子供を手元に残しておくという結論が得られない。それでも、私は躊躇ってしまう。
「支援AI。私はどうしたらいい?」
支援AIを起動すると問いかけた。
「その考察には、あなたの要望が含まれていません。要望はなんですか?」
AIに尋ねられて、私はハッとした。私の要望ーー私はどうしたのか。
「私は……」
手から電子タバコが落ちた。電子タバコのパッケージからなにか見えた気がしたが、今は子供のことで頭がいっぱいだった。
「私は、あの子供と一緒にいたい」
口にして初めて、それが自分の気持であることを自覚した。
気がつくと私は走り出していた。
早く子供に会いたい。この気持ちを伝えたい。
逸る気持ちを抑え、家の玄関を開けると、なにか違和感があった。
「ミシェル」
声をかけても虚しく響くだけだ。サーモセンサーで見ても誰もいない。
また、街へ連れて行ったのだろうか。
まだ高揚したままの気持ちを落ち着けながら玄関扉を閉めると、扉の裏に「ごめん」と書かれていた。
「人間の書物には、鉄板とボルトとナットでできたような、無骨なロボットがよく描かれているが、我々アンドロイドの外見は人間とほとんど同じだ。人工筋肉も、シリコンでできた人工脂肪も柔らかい。動作の際にアクチュエータの動作音がするが、それも今の静音化技術ならほとんど聞こえないはずだ。つまり、我々アンドロイドと人間はほとんど同じだ。ロボットとは違う。そう思わないかね?」
男はなぜか裸だった。ミシェルが体を凝視していることに気づいて、彼は豪快に笑いながら「失礼。服というものがどうも苦手なものでね。このスタイルでやらせてもらうよ。何せ、ここは俺の城なんだから」と嘯いた。
ミシェルは子供の手を引いて、マフィアに会いにきた。街の中心にある最も高い建物、通称ベルリンの壁。まるで壁のように聳えるその建物の中に、マフィアの事務所があった。この街に住むものなら誰もが知っている。
ミシェルが通されたのは、その建物の最上階だった。エレベータが止まり、扉が開くと、ワンフロア吹き抜けの大きな部屋だった。その中心に彼はいた。彼は自身をボスだと称した。だだっ広いフロアにいる無数のアンドロイドの目は全てこちらを向いていた。彼らの肉体は人型というにはあまりにも改造されすぎていた。全身に兵器を背負っている。ミシェルが何かしようものなら、無数の鉛玉が物理的にミシェルを破壊するだろう。ここではクラッキングがどれほど上手くても、暴力という単純にして最強の力には敵わない。
「さあ。あたしは人間を知らないし、ロボットも産業用ロボットしか知らないわ」
アンドロイド世界の産業は、ほとんどが産業用ロボットによるものだった。労働に特化したフォルムの様々なロボットが、アンドロイドの生活を支えていた。
「そうだな。産業用ロボット。あれは良い。ただ、コストがかかる」
「コスト?」
ミシェルはおうむ返しをするだけで精一杯だった。彼が何の話をしているのか見当がつかなかったからだ。何でもないような話をしているようで、彼から受ける圧力はあまりにも強い。話しているだけで頭の中を掻き回されるような感覚に陥る。エヴァンから彼のことを聞いていたが、こんなに強い圧力を持つ男だとは思わなかった。それに、彼がマフィアのボスだなんて、彼は言わなかった。今度会った時に文句を言ってやらねば気が済まない。
「そうだ。コストだ。我々は圧倒的にコストを圧縮する方法を見つけたんだよ」
「一体、何の話をしているの?」
この部屋に入ってから今まで、彼が何を言いたいのかさっぱりわからなかった。
男はニヤリと笑う。金色に光る歯が眩しい。
「わかっているんだろう? さあ、人間の子供をよこせ」
男はこちらへ手を差し出した。ブルリと体が震える。本能的に彼に恐怖を感じている。子供を見ると、彼女もまた怯えたように震えていた。彼女の恐怖が伝播してきているのだろう。
ミシェルは子供を彼の方へ押しやろうとした。しかし、手が離せない。子供が握っているからだけではない。彼女自身が手を離すべきではないと感じている。
どうしてだろう。自分で彼女をここに連れてきたはずなのに、ここで手を離してはいけない気がする。それは、本能に刻まれた警告のように感じる。
「どうした?」
男が少しイラつきを含んだ声で言う。
ミシェルは「はあ」とため息をついた。
「あたしは、マネーが好きなの」
ミシェルが言う。
「わかってる。用意させている」
男が指をパチンと弾くと、全身改造男のうちの一人が進み出てきて、チップを自身の腕に差した。手のひらを撫でると、その上に小さいディスプレイが浮かび上がる。そこに、目が飛び出るほどの額のマネーが表示されていた。
「足のつかないマネーだ。好きに使うが良い」
全身改造男はチップを取り出して、ミシェルに差し出す。
ミシェルはそれを見て、喉を鳴らした。実際、唾を飲み込んだりはしないのだが、そういう動作がインプットされているのだ。
「ねえ、この子を何に使うの?」
極めて軽い話題のように、明るく尋ねた。
「それは君の知ったことではない」
彼の声音に怒りが含まれていることは、ミシェルにもわかった。全身改造男が泣きそうな表情でチップをこちらへ差し出している。ミシェルがこれを受け取ってさっさとここから帰らないと、お仕置きされてしまうのかもしれない。
「一体なんだ。ここまできて、それを渡さないと言うつもりか?」
男が子供のことを「それ」と言ったことに、ミシェルの中の何かが弾けたような気がした。
「お前のような野良クラッカーが一生目にすることがないマネーだ。何が不満なんだ。それを持ってとっとと失せろ。ドブネズミが」
「舐めんじゃないわよ」
ミシェルの目が光った。その場に共有されているネットワークに侵入して、全員に対してクラッキングを仕掛けるのに1秒もいらない。ミシェルは子供の手を引いて、部屋の入り口を目指した。
だが、最新の兵器が彼女をロックオンして貫くのも、1秒も必要なかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます