騎士と司祭

御影聖

破られた静寂

「妹をよろしくね」

ヴェロニカ・スティカ・アースラは、木漏れ日のような笑顔で言った。午後の暖かな日光が開け放たれた窓から差し込み、風に乗って、レースカーテンがドレスの裾のように優雅に波打っていた。窓際に立つヴェロニカの暗い金髪は、日光を受け麦の穂のような光を放っており、聡明そうめいさの滲み出るその瞳は深海のごとく碧かった。とても、兄の葬式を終えて、次期男爵の重荷おもにを背負ったばかりには見えない。

「ヴェロニカ……」

婚約者であるヴェロニカの言葉の意味を理解して、オリバー・エイドリアン・ガルシアは栗色の瞳を見開き、そして決まりが悪そうに、瞳と同色の頭をかいた。彼は、ヴェロニカのいう"妹"――レイラ・ノア・アースラ――に気があったからである。

「……本当に良いのかい?君は……その……聡明で謹直きんちょくだし……」

自分の考えに罪悪感を覚えたのか、オリバーはおろおろと、『婚約破棄を思いとどまらせよう』とする台詞せりふを並べ始めた。

「いちいち堅苦しい世辞は並べなくていいわ」

笑顔を崩さず、ヴェロニカは淡々と述べた。彼女はオリバーが妹を恋慕していることに薄々気付いていたし、彼女自身、オリバーを恋愛対象として見たことは1度も無かった。

「婚約破棄の書類は準備してあるから、後は貴方が署名するだけよ」

そう言ってヴェロニカは執務机の引き出しを開けて、1枚の書類を取り出した。

「あぁ……ありがとう」

ヴェロニカが差し出した書類を言われるがまま受け取って、オリバーは何か言いたげにヴェロニカに視線を送った。

「婚約の書類はレイラに持たせているわ。中庭に居るはずよ」

オリバーの『何か言いたげ』な視線に応えて言い放つと、ヴェロニカは窓の方に向き直った。冷涼な風が、高く結い上げた彼女の金髪を揺らした。

これが、『退室』を促す合図のようなものだった。オリバーは「本当にありがとう」と明るさに微量の緊張を混ぜた声で言うと、足早に執務室を出て行った。


事件が起きたのは、その翌日だった。

「ヴェロニカお嬢様!」

「どうしたの、マイア」

まだ夜空を星が彩る夜明け前、執務室で、ヴェロニカが父の代わりに執務を行っていた時だった。メイドのマイアが慌てた様子で駆け込んできた。

彼女は癖のある茶髪の房を大きく揺らして肩を上下させた。荒い呼吸を落ち着かせながら、マイアは口を開いた。

「レ、レイラお嬢様の……!」

はぁ、はぁ、と呼吸するマイアの顔は、月光に照らされて青く見えた。

「レイラお嬢様のお姿が、どこにも見当たりません!」

ヴェロニカはいぶかしげに眉をひそめた。レイラの姿がどこにも見当たらない?どういうことだろうか。マイアは切羽詰まったようにまくしたてた。

「アーシャがお部屋に入ったら、寝台でお休みになっていたはずのレイラお嬢様のお姿が見当たらず……。執事長のボリスさんを中心に、使用人を集めてお屋敷の中を探したのですが、どこにもいらっしゃらないのです!」

ヴェロニカの深海色の瞳が見開かれた。はぁ、はぁ、というマイアの息遣いに重ねて、ヴェロニカは彼女に問うた。

「本当のことなのね?」

「はい。まさか、誰かにさらわれたりしたんじゃ……」

うぅっとマイアは青い顔で嗚咽を漏らした。

ヴェロニカはしかし、落ち着き払った様子で立ち上がった。

「マイア、大丈夫よ。レイラはそう遠くへは行っていないはずだわ。街にも捜索隊を出して。屋敷の使用人は全員いつも通り仕事をするように、と伝達してちょうだい」

「ヴェロニカお嬢様……」

そうだ、そんなに悲観的になってはいけない。まだ希望はある。マイアは、冷静かつ堂々とした次期当主の態度に感銘を受け、「はい!」と言って涙を拭くと、力強い足取りで執務室を後にした。

マイアの足音が遠ざかると、ヴェロニカは椅子の上にくずおれた。どっと汗が噴き出し、彼女の喉元に、抑えていた不安が込み上げる。

「レイラ……」

レイラは、ヴェロニカにとって大事な妹だった。

マイアの言うように、誘拐されたのか?それとも、屋敷を窮屈に思って家出したのか?まさか、他に想い人がおり、オリバーとの婚約が嫌だったから?

屋敷に来る度にオリバーはレイラに真っ先に話しかけた。その時のレイラは明るい応対をしていた。2人は仲が良かったように見えたが、レイラはどう思っていたのだろうか。

ヴェロニカの中に、遠い記憶が蘇った。


「貴女が、ヴェロニカお嬢様?」

美しい女人が、ヴェロニカの名を口にした。紅色の髪が風に乗って揺れる様子は、グラスから溢れたワインが無造作に宙を舞うよう。薄青い瞳は、澄んだ湖のよう。そして彼女が歩く姿は、百合のようだった。他に類を見ない程に神々こうごうしいその姿は、今でもヴェロニカの瞼の裏に焼き付いている。

「私は、アースラ男爵家が長女、ヴェロニカと申します」

ハッと我に返り、慌てて頭を下げたヴェロニカを見て、女人は花のような笑みをこぼした。

「これから家族になるのだから、そんなに堅苦しい挨拶はしないでちょうだい」

そう言って彼女は後ろを振り返ると、ドレスの裾に隠れていた少女の手を引いた。ドレスの影から現れた絹のような白い髪の少女の、桜色の瞳と目が合い、ヴェロニカはドキリとした。純粋無垢な、しかし俗世と無縁ではいられなさそうな美しい容貌。不思議そうに見上げてくる彼女の顔を見つめて、

『何としてでも彼女を守らなければならない』

ヴェロニカはそう感じた。

「私の名前はエレノア・ス・アースラ。今日からアースラ男爵夫人、貴女の母親になります。この子はレイラ・ノア・アースラ。今日から貴女の妹になるので、よろしくお願いしますね」

また花が咲くような笑みがこぼれた。微笑んだエレノアはレイラの方を向いた。

「さ、貴女もお姉様に挨拶して」

「あたし、レイラ」

まだ幼いレイラは、母親に勧められてとりあえず名乗ったようだった。

「エレノアお母様、レイラ、よろしくお願いします」

すっかり頬を紅潮させてヴェロニカがお辞儀をすると、エレノアは春の日差しのように暖かい眼差しで、ヴェロニカの心の片隅に居場所を開拓したのだった。

ヴェロニカの実母は、彼女が1歳の時に事故死した。物心ついた時から、彼女の、母親の存在があるはずの心の片隅には、隙間が空いていた。エレノアは、その隙間を埋める存在になったのだ。

今日から自分は、この神々しい母子の家族になるのか。その時はあまり実感が湧かなかったヴェロニカだったが、とりあえず屋敷の中を案内する為に2人を先導して歩き出したのだった。

この時のヴェロニカにはよく分からなかったが、エレノアは平民出身で、レイラは、彼女が死別した夫との間にもうけた娘だった。


それから1年程で、エレノアは寝台から出られなくなった。

社交界に馴染めないストレスから発症した病は、一気に悪化した。

この時まだ6歳だったヴェロニカは、差別の概念を知らなかったが、エレノアが平民出身だから冷遇されていることには気付いていた。

「ヴェロニカ、レイラ……」

消え入るような声で、エレノアは2人を枕元に呼んだ。長男のルイスは呼ばれなかった。この頃から既に、ルイスは病に侵され、とても寝台から出られる状態では無かったのだ。

「強く生きるのよ、2人とも。ルイスにもそう伝えてちょうだい」

湖から水が溢れ出したようだった。エレノアの薄青い瞳を水源として、白い肌に透明な水が川を作った。つられて、レイラの桜色の瞳にも、涙が滲む。ヴェロニカは唇をきゅっと噛み締めて頷いた。

「それと、ヴェロニカ。レイラを頼むわね……」

語尾は、宙に消えた。ヴェロニカはなんとか、明るい顔を作った。

「お母様、レイラのことなら私に任せて下さい!なので心配せずに、早く病気を治してくださいね」

ヴェロニカの答えに、エレノアは微かに笑ったようだった。

永遠の一瞬が、3人の間に亀裂を走らせ、エレノアと、2人の娘を引き離した。

エレノアは静かに息を引き取った。享年23歳。まだ逝くには若いということは、ヴェロニカにも分かった。

ヴェロニカの父であるルバート・ワルト・アースラ男爵は、妻の死を悲しむこともせず、また喜ぶこともせず、ただ無感情に形式的な葬式を進めた。泣きわめくレイラを慰める役は、ヴェロニカに回された。

その日の父の、エレノアとレイラに無関心な様子は、ヴェロニカに強い確信を持たせた。

『レイラを守れるのは、私しかいない』と。


兄が死んだ時にも感じなかった悲しみを、レイラの失踪でヴェロニカは感じていた。

彼女は、最近死んだ兄とは、まるで他人のような付き合いだった。生まれつき体が弱く、いつも部屋にこもっていた兄ルイスの声を、彼女は思い出すことができない。

「お父様に報告しないと」

微かに、しかし確かにしだした頭痛に顔をしかめながら、ヴェロニカはゆっくりと立ち上がった。

ヴェロニカの父、ルバートは、寝台で横になっていた。彼の黒髪は、所々白くなっており、病が及ぼす影響が感じられた。しかし、灰色の瞳は、未だ鋭い光を放っており、ヴェロニカは幼い頃、その瞳を頼もしいとも思ったし、威圧感があり怖いとも感じたものだった。

「レイラが失踪した?身分の卑しい平民出身の娘だ、放っておけ」

彼はヴェロニカの報告を聞くなり、なげやりに言い放った。

「お父様……!レイラは私の妹で、貴方の娘ですよ!それを卑しい平民出身の娘だなんて……!」

怒りを露わにして、ヴェロニカは声を荒らげた。ルバートは嫌悪を顔全面に展開し、鋭い眼光をヴェロニカに向けてこう言った。

「私はルイザ1人を愛した。いや、今も愛している。エレノアを愛したことはない。愛妻が死に、ここぞとばかりにその地位を獲得した卑しい女を、誰が愛せる?」

ヴェロニカは戦意を削がれた。そんなにエレノアを嫌うのならば、何故再婚したのだろうか。

「エレノアは、ディザール侯爵閣下の愛人だった」

ルバートの言葉は、巨大な衝撃を、ヴェロニカに与えた。驚きで声が出ないヴェロニカから、布団を掴む自分の手に視線をずらすと、ルバートは続けた。

「ルイザが死んで間もない頃、うちの領地の視察があった。もちろん、うちの主君であるディザール侯爵閣下の視察だ。その時、パンを売るエレノアに、侯爵閣下は目を奪われた。それから2年程逢瀬を重ねて、侯爵閣下は私におっしゃった。エレノアを夫人に迎えてくれ、と」

ルバートはただ、ルイザ1人を愛しただけだった。馬車の事故で死んだ、ヴェロニカの実母、ルイザ・ハンナ・アースラ。金糸のような髪に、深海色の瞳を持つ彼女は、類いまれな美しさとは言わずとも、聡明で落ち着いている様子は、ルバートの目を奪った。ルバートの、彼女を失ったやるせなさ、不甲斐なさなどの感情の矛先は、全てエレノアに向いていた。

ただ、ルイザの後から嫁いできただけで。

エレノアの葬式の時に、後妻とその連れ子に無関心な様子を見せたルバートだったが、内心は彼女らを嫌悪していた。確かに、レイラはヴェロニカの影響を受けなかったら、教養を身に着けようとはしなかっただろう。ルバートはレイラの教育に関して消極的だった。それ程までに、レイラは義父にいらない存在だと思われていたのだ。

「……貴方の、エレノアお母様やレイラへの情の無さは理解しました。ですが、レイラが私の大切な妹であることに、変わりはありません」

礼もそこそこに、ヴェロニカは父の寝室を後にした。

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