第3話 花婿
「あんた、いつまであの子を放っとく気なんだ? 」
アントーニ・メーディオはもう何度目になるかも分からない問いかけを再三胸の中でかき回し、目の前の友人の猫背に投げつけた。一体、他にどうしろというのだろう。アントーニの友人は高熱を出していることになっていて、宥めてもすかしてもその設定を撤回しようとしないのだ。
はじめのうちは問いかけられるたびに何かしらの電流がその丸まった背にも走っていたらしいが、もはやそんな痛みにも慣れてしまったのかもしれない。エルド・フォーリは返事をしなかった。だがアントーニの小言を黙って聞いているということは、叱責を拒否する資格がないことくらいは承知の上なのだろう。
アントーニは舌打ちしたいのを何とか胸の内だけに留めた。この年上の友人がそういう粗野な表現を好まないのは知っている。
それに反応が鈍いだけで、たとえどんなに答えにくいことであっても、エルドは人からされた質問を完全に無視できるような性格ではなかった。
「………まさか、あんなに若いとは思わなかったんですよ。あれでは女性というより、女の子でしょう」
「そうは言ったって、二十五とか六とかそこらだろう。そう聞いてただろ? それとも、二十代の女を見たことがなかったっていうのか? だとしたら気の毒だな」
「そうかもしれないな……なにしろ、僕はもう三十五ですから。しばらく目にしなかったものはどんどん忘れていくんですよ。君もそのうちに分かります」
「バカ」
アントーニはたまらず毒づいた。こちらがいかに熱くなっても――いや、熱くなればなるほど、殊勝に聞いていそうなこの男は、のらりくらりとして心を開きやしない。エルドがぬるく朗らかな笑顔をしているときを、アントーニはあまり信用していなかった。
人見知りや動揺をごまかすためにエルドが使うほほえみはとても人好きがしたが、おかげで彼が吊り目がちなことや、本音をそのほほえみの中にひた隠しにしているということに気がつくものはあまりいなかった。
全体に線が細く上品な印象がするから、きっと繊細で鋭利な心を隠し持っているのだろうと勘づくものがいるくらいだ。国でも指折りの名家の当主で、当代きっての詩卿――まさかそんな彼が、自分の婚礼をすっぽかすような男だとは誰も思うまい。
アントーニとしては、一度結婚に踏み切ったのだったらあのサナという花嫁ときちんと向き合うべきだと思っていた。あの婚礼の夜、大広間に入ってきた彼女を最初に祝福したのは彼だ。見たところ可愛い娘だったし、使用人たちに話を聞いたところでは、
「旦那さまにお似合いの、お優しい奥さま」
だという。
会ってみて気に入らないというのならまだしも、たったの一度も、顔も見せないというのではあんまりだ。サナがひとりで結婚式を挙げるところを見ていたアントーニは、すっかり彼女の味方だった。
「そんなに会いたくないなら、家に帰してやったらどうなんだ? 今のままじゃかわいそうだろ」
するとエルドは、実に悲しそうに首を振った。
「それはできませんね――彼女の名誉を傷つけてしまう」
「じゃあ、どうするんだよ」
「僕はこのまま姿を見せませんよ。ちょっと変わった親戚の家に来ている……そんなふうに、思ってくれればいい。使用人たちとも仲良くやってくれているようですしね。世の中には、そんな夫婦もいるでしょう。一緒に住んでいてもお互いに顔を見せないような」
「ああ、まあな。だが、まさかあんたがそんなつまんねえ暮らしをしたがるとは思わなかったぜ」
アントーニはいらいらと言った。この短気がいけない。カリカリすればするほど、エルドのゆったりとした口調に覇気を抜かれやすくなる。そうなったらもう、もともと不利な押し問答に敗北が決定してしまう。ものの言い方は優しいのに、エルドは口での喧嘩には誰が相手であろうときっと勝つ。それはひとえに、朗らかそう、柔和そうという、ほほえみの印象からは推し量り切れない彼の冷静な頭脳によるものだった。
今もむっつりと黙ったアントーニを、エルドはまるで弟か息子を――五歳と離れていないのだが――慈しむような目で見つめている。それも、手のかかるやんちゃものを見るようなまなざしだ。なんだ、そんなじいさんみたいな顔をしやがって。毒づいて胸ぐらをつかみ上げれば、アントーニが勝つのは簡単だ。しかしアントーニは、全体に糸杉みたいな格好をしたエルドの細身を痛めつけたくはなかった。
エルドは若い妻のいる部屋を窓越しに遠く見つめた。彼が焦点を合わさずにどこか見はるかすとき、その心はまったく霧に隠れてしまう。眉の辺りに浮かぶ表情さえなければ、生まれて初めて目を開いた赤ん坊か、死ぬ間際に一切の未練を断った聖人がするような目だ。純粋で、清く、近寄りがたい。
「他に好きな人がいたかもしれないのに。そう思いませんか、アントン」
「なんだって? 」
「彼女が僕のことをどう聞いてきたのかは知りません。しかし、急に十歳近くも歳が違う男のところへなど……メリル伯母さまは、そうお思いにならなかったんだろうか」
「おい、まさか財産目当てだったとかって、疑ってやしないだろうな」
エルドは息の調子だけで心外だと伝えてきた。
「そのくらい清々しい態度でいてくれたら、僕もいくらか気が楽なんですがね。大体、コラジ家はそんなに切迫していないでしょう」
彼がどうしてサナと結婚したのか。今さらどんなに問いただしたところで、自分の方が後悔することになるとアントーニには分かっていた。結婚式の夜、発熱を理由に顔を見せなかったエルドの部屋に押しかけ、すでに問い詰めていたからだ。
そのときの、彼の情けなさそうな、申し訳なさそうな、泣き出しそうな、なんとも名状しがたい傷つききった顔が、アントーニは忘れられなかった。
――いつのまにか、こういうことになっていたんです。伯母さまに、ちゃんとした返事をしなかったせいで。一体どういうつもりだと自分に詰め寄るアントーニにエルドはそう話し、自分の言葉にひどく失望した顔をしたのだった。そんな無責任なことがあるか、ととどめを刺せるほど、アントーニは無神経ではなかった。……
「彼女、僕がいつまでも出て行かないものだから、忘れられているんじゃないかと思ったようですね。……まったく、こちらは彼女のことで頭がいっぱいだというのに」
「あんたが言うとずいぶん色っぽく聞こえるな。詩人だからかな」
その詩人めいた繊細さとありあまる想像力のせいで余計な悩みを増やし、現実と心配をないまぜにしているのだという皮肉のつもりだったが、言葉が足りなかった。エルドはひとり言のようにぶつぶつ呟いた。
「彼女は、どうして僕のところへ来ようと思ったのか……僕はどうしてあげたらいいんだろう。どうしてこんなことに……いや、僕が先に逃げたのがいけないんだけれど……」
なんて度しがたい男だろう、とアントーニは溜め息をついた。その責任感と思いやりとをひとかけらでも勇気の前に差し出せたら、今すぐにでも解決できるような問題なのに。持ち前の観察眼で彼女を見つめたら、もっともふさわしい答えも出ようものを。
さほど難しいことではないはずだ。しかし、エルドにはそれができないのだ。できないからこそ、縁談をはっきり断ることも、嫁いできた花嫁を受け入れることもできずにいる。
一応、付き合いの長いアントーニはエルドがなぜこうも逃げ腰なのかについて心当たりがないわけではない。だからといって、今の態度を継続してもよいということにはならないとも思っていたが。
アントーニは尋ねた。
「見たんだろう? サナのこと」
「うん」
「かわいいと思わなかったか? 」
「思ったからといってどうにかなるような問題ではありません。第一、僕が彼女を気に入るかどうかはどうでもいいことだ」
「じゃあ、サナがあんたのこと好きだったらどうするんだよ」
「顔も知らない年上の男を、どうして好きになれるんです」
優しいのか、冷淡なのか。恐れているのか、何なのか。どうもこの友人は、自分を低く見積もりすぎているようだとアントーニは思った。
これ以上なんと声をかけたらいいのか。アントーニは困り果て、結局窓の外を向いたままのエルドの横顔を見守るしかなかった。それはもう何年も前に、詩卿を継いだばかりの彼と出会った日に見出したのと寸分違わない横顔だった。
アントーニは画才を認められた〈画卿〉だ。人の印象から心を分析するのは得意だと自負しているし、他人向けに作られた表情に包まれた細やかな心理をも画布に写し取ってこその絵画だと思っているし、自分にはそれを見抜く眼力があると信じている。
それがこの男だけは、今もってよく分からないのだ。情の熱そうな、淡白そうな、涙もろそうな、そうでもなさそうな、またそういう分析のすべてをあっさり裏切っていきそうなエルドにアントーニはひとかたならぬ友情を感じていたが、エルドの方でも同じかはやはり確かでなかった。何か、心の芯に近い部分では、とてつもなく強烈な〈何か〉を秘めているような感じはある。だが、それが何なのかはやはり今のところ分からずじまいだった。
同情すべき立場ではあるが、アントーニはサナが羨ましかった。少なくとも、エルドはサナのことで、他の誰についてよりも心を使うことになるから。暖簾に腕押しを人間にしたようなエルドが今度のことにどう向き合うか――現状まったく向き合えていないが――は大いに見ものだった。
「失礼いたします、旦那さま」
一方的な膠着の中にやってきたのは、執事のジュリオだった。彼はアントーニに目礼するふりをして、すばやく目配せを交わした。この優秀な執事とアントーニとの間で、エルドに対する見解はおおむね次のように一致していた――他のことはさておき、とんでもない頑固。
エルドは振り向き、静かにほほえんだ。
「ああジュリオ、今日はどんな様子でしたか? 黄色のバラはそろそろ終わってしまいますね――他の花に変わっても許してくれるといいですが」
「奥さまならばどんな花でもお喜びになりましょう。……旦那さま、実は奥さまがお望みのものが、今朝やっと判明いたしまして」
「ほう。今度は一体なにかな? 」
尋ねたエルドがそれまでとは一転、ずいぶん嬉しそうな様子を見せた。アントーニはぎょっとした――エルドの感情表現としては、気味が悪いくらい心に正直な笑顔だった――確かに心の通ったその表情は、一度もまともに顔を合わせたことがない女性の話題で出てきたものとは到底思えなかった。
アントーニは結婚式から今日までの間、この城に来られなかった自分の都合を初めて恨めしく感じた。対面に至るほどの大幅な進展はなかったものの、頑固なエルドにも何か心情の変化があったに違いない。結婚式の夜であったら、こんな笑顔は決して出てこなかっただろう。
「ずいぶん嬉しそうだな」
「そう? ああ……そうかもしれないな。おもしろい子なんです――せめて不自由な思いをさせないようにと思って、欲しいものがあったらなんでも、と言伝したんですよ。そうしたら……昨日はなんだったかな? 〈雪の女王の鏡〉でしたね」
「はい、旦那さま。愛の前では役に立たないので、いけませんと申し上げました」
「そして、眠り姫の育てたバラ? 」
「ときどき力尽きた戦士の剣が刺さっていることがあるそうなので、いけませんと」
「天まで伸びる豆の木、というのもありましたね」
「前回植えた方が種を収穫する前に切り倒してしまいまして、申し訳ございませんと」
アントーニは目を丸くした。サナのお茶目と、ジュリオの機転と、彼らのやりとりを楽しんでいるらしいエルドに。
エルドは窓のそばに寄りかかり、詩の最初の一節を考えるときと同じように、琥珀色の目をちょっと細めた。
「僕としては、三女神が争った金のリンゴをぜひ彼女に贈りたいですね」
「それじゃ戦争になっちまうだろうが」
アントーニが言うと、エルドは自分ではそうと気がついていないだろうが、誰かを慈しんでいるような目をした。
実のところ、なんだかんだ言いながらも彼は彼女を愛しているのではないか――アントーニは思わずそう期待した。だからこの城のものは、この妙な状況下でもこれほど落ち着いているのではないか、と。
エルドは朗らかに言った。
「それで、今度は何をお望みかな? そろそろひとつくらい、叶えてあげられるといいのですが」
今朝のやり取りにも言葉遊びはあったのだろうが、ジュリオはその部分を思い切って省略することにしたらしい。実は、と話し出した顔は嬉しげではあったが、真剣だった。
「奥さまは、本をお読みになりたいと」
「本……」
エルドは一瞬目を見開き、すぐにあごに手をやって唇を吊り上げた。謎かけの挑戦を受けたような顔だ。
「本というと、もちろんあの本ですね? 呪文だの薬の調合の仕方だのしか載っていないような本ではなく? 」
「はい、普通の詩集や、物語や、画集――その他どんなものがお好きかはまだ存じませんが、そういう本でよろしいかと」
ジュリオは笑いをこらえている声で言った。
「書庫にお通ししてもよろしゅうございますか? 」
「よろしいも何も、あそこは出入り自由でしょう……ああしかし、屋根とランプの仕掛けのことはよく教えてあげてください」
「へえ、あの子本が好きなのか」
ジュリオはサナを案内するべく、部屋を下がった。アントーニはエルドをつついた。
「詩卿の娘で縁があったから、ってだけじゃなさそうだな。あんただって、おもしろい子だと思ってるんだろ? トゥッカヴェルデ夫人は、そこのところを見抜いてあんたとくっつけようとしたんじゃないのか? 」
「そうですね」
エルドは、なおも控えめに囁いた。
「そうかもしれませんね……」
なあエルド、とアントーニは声をかけた。なんです、と彼は珍しくまともにアントーニを見つめ返してきた。
「あんたは、どうしたいんだ? 」
エルドはうっすらとほほえんで、本当かどうか、
「……さあ。まだ、よく分かりませんね」
と答えた。
*
サナが可憐なだけの娘でないことには気づいていた。そして自分の関心は、まずそういう〈かわいらしさ〉を差し引いた面に向いているということにも。何しろ、サナを可憐というのは遠目に二、三度見た限りの感想だったし、ジュリオやマルタがしきりとそう口にするので、自分でもそう思いたいだけなのではないか、とエルドはいまだ疑っていたからだ。
何事も美しいに越したことはない。それは確かだ。だがこと人間の容姿に関しては、それを麻酔のように使うものがいるということをエルドは知っていた。夢から醒めて目にするものは様々だが、夢見ている間に後生大切に抱いていたものは大抵空っぽだったり、金と偽ったメッキだったり、あるいは棘だらけで、宝と信じて抱えていたものを血まみれにして捨てていくのだ。
――確かに、可愛いには違いないんだろう。エルドは考えながらも、〈サナは可愛い〉と思うにつけ、ただでさえ淡い夫婦間の親しみが余計によそよそしいものに感じられてくるのだった。彼自身がサナの美質を体感したわけではないために、まったく顔を合わせていないということが浮き彫りになるせいだろう。それとて一度でも彼女と顔を合わせれば片がつくことであって、やはりエルドに責任があるのだが。
大体、可愛いのが悪いことのはずがないし――なんて面倒な男だろう、とエルドは自分自身にうんざりした。その間にも思考は止まらない。
そうだ、美しさとは絶対的な価値だ。何を美しいとするかはまた人それぞれだが、僕としては――エルドは好き勝手に伸びていこうとする持論の芽を、頭を振って無理に摘み取った。僕が言いたいのは、彼女が容姿以外に大きな財産を持っているらしいことと、それは僕にとってとても喜ばしいということだ。
ジュリオに聞き出した彼女の端々を繋ぎ合わせるのは、今ではもうエルドの日課といってよかった。工夫された〈要求〉を聞くのが、近頃彼は楽しくてならないのだ……。
「なんと、旦那さま」
どこへ向かうでもなく城を歩き回っていると、目の前に突然ジュリオが現れた。驚いて立ち止まってみて初めて、エルドは自分が二階の書庫の扉の前に来ていたことに気がついた。長年の習慣のなせるわざだろうか。
ジュリオは書庫の屋根を開くための鎖を引こうとした格好のまま、何事も丁重な彼としては珍しく、少し不躾なくらい長いことエルドを見つめた。エルドはあまりのきまり悪さに、ああジュリオ、と声をかけることさえ忘れてそこへ突っ立っていた。ジュリオが何を考えているかが、手に取るように分かった。
「……もしや、奥さまのご様子を? 」
「い、いや……」
考えごとをしながら歩いていたら普段の行き先へ足が勝手に向かったのだという説明をどう信じてもらおうかと、エルドは頭を悩ませた。しかしその考えごとで何度も行ったり来たりしていたのはサナのことであり、サナのことを考えていてサナのいるところへ辿り着いた以上、習慣のしわざというのが事実なのかどうか、もはやエルド本人にも疑わしかった。
「……決して……恐らく……――とにかく、そういうわけでは……」
「さようでございますか」
優秀なジュリオは主人の主張を疑うことなく、細かい追及などもちろんしなかったが、その声には親しいものにやっと聞き取れる程度のわずかな暗さがあった。表情にはまったく表れていないが、ジュリオなりに主人の答えにがっかりしたのだろう。
よく分からない照れだか意地だかのために、彼を落胆させるわけにはいかない。エルドは正直に言った。
「考えごとをしながら歩いていたら、いつの間にかここへ来ていたんですよ……」
「長年の習慣の賜物でございますな」
「そう。だから、僕自身が彼女の様子を見に来ようと思っていたわけではないんです。……少なくとも、自覚はありませんでした」
「自覚とおっしゃいますと」
「考えごとというのは、彼女のことだったので……」
今度の
「さようでございますか」
は、普段と比べても明るかった。ジュリオは、よほどサナを女主人として愛しているのだろう。それはそれは、とほほえましげな表情を向けられたエルドは、突然なにかとても純粋な気恥ずかしさを感じた――すっかり錆びついているか、経年によって別物のようになっているに違いないと思っていた気持ちが、ふと心をよぎったのだ。そのことを考えるだけで心が潤うような、快い感情だ。だがしかし、他人にそれを悟られるとなると実におもはゆい。
彼は観念して自覚した――サナが自分にとって〈ちょっと変わった親戚〉には収まるまいということを。
「――サナは? 」
すんなりと口をついて出た彼女の名前にエルド自身はひどく驚いたのだが、ジュリオがはっとしたのは別の理由からだった。
「もう少々ご辛抱ください」
まだ真っ暗な書庫の中へジュリオが声をかけると、返事の代わりにごく小さく息を呑む声が聞こえた。サナは一階にいて、部屋の暗さに耐えているらしい。
エルドは思わず口元を緩めた。
「怖いでしょうね、真っ暗ですから」
「当家のお子さま方はみなさま身に染みてご存じでしょうな」
ジュリオがほほえみながら鎖を引いた。彼がフォーリ家へやってきたとき、エルドはもういたずらを咎められるような歳ではなかった。だが、年かさの庭番や洗濯番たちから何か不名誉なことを聞いていないとも限らない。
「誰から何を聞いたんです、ジュリオ」
「真っ暗な書庫がお仕置き部屋としていかに有効であったか、ということを少々。中には考えごとやご自身との対話を、暗いままの書庫で延々という方もいらしたようですが。暗い方が内観しやすいのかと、ラーノさんが首を傾げておりました」
庭番のラーノじいさんは城一番の古株で、五分前のことには記憶が曖昧だが、二十年前のことは昨日のことのように思い出せるという人だ。エルドが生まれる前から城に仕えていた彼にとっては、エルドはいくつだろうが〈若さま〉のままなのだろう。
エルドは念のために補足した。
「〈彼〉が暗いところで悩んでいたのは、二十歳くらいのときですよ」
はいはい分かっております、という顔でジュリオは頷いた。
「今は、ご自分の机の前で延々お悩みになっているのをたまにお見掛けしますな」
屋根が開いたようだ。ジュリオは主人がさらに言い募る前に、サナがいる方へ行ってしまった。からくり三層書庫でございますとかなんとか、説明しているのが聞こえる。すごいわね、とサナが答える声は明るかった。
エルドは扉の陰からそっと書庫の一階を覗いた。ジュリオが足音をさせないようにこちらへ上がってきて、横へ並んだ。
「ご満足いただけたようで何よりです」
そう言い置いて、ジュリオは書庫を去っていった。サナは一階層目の、手近な本棚の中から好みの本を探しているようだ。ああよかった、少し背伸びすれば一番上の棚にも届くみたいだ。エルドは我知らずサナの様子に見入りながら考えた――今度暇を見つけて、ジュリオたちと上の棚に軽い小さな本を集めよう。あまり詰め込み過ぎないようにしなくては……。
サナは最初の一冊を選んだようだ。まあきれいな装丁、というように表紙を眺めている。エルドはその様子を見て、人知れず喜びを覚えた。サナが手に持っているのは、ずいぶん前にエルドが選んで買ってきたものだったから。
エルドは本の中身が同じなら、どんなに高価でも装丁の美しい方を選ぶように心がけてきた。父や祖父にも似た傾向はあったが、好み自体は血のつながりと関係ないらしく、重厚な趣きのものを好んだ祖父に対して父は紙とインクの対比の美しさを前面に押し出したあっさりした雰囲気のものを求めた。エルドは柔らかな色合いや美しい絵が使われた装丁が好みだ。この代々のお約束のせいで書庫には一冊きりの本は珍しく、サナが手に取った本も、三冊か四冊は並んでいるはずだ。その中からエルドが気に入って買ってきたものをサナが選び取り、素通りせずに見てくれたということが無性に嬉しかった。
サナが長椅子に戻った。もう本の中身に気を取られているのだろう、無造作に腰かけたために、ふわりとスカートが流れる。清々しい、白いドレスだ。柔らかにまとめられた髪の房を彼女が耳にかけたので、何となくしか分からなかった顔立ちがよく見える。装飾ガラスから降る七色の光が、ドレスや本の紙面、そしてサナの上に、万華鏡のような色をつける。彼女は美しい、優しい顔をしていた。
エルドはサナを見つめたまま後ろ向きに、ジュリオより静かに外へ出た。自分の存在が異質に感じられるくらい完成された世界というものには、稀にだが出会えることがある――絵画の中へ立ち入れないのと同じような。
廊下の角をひとつ曲がってようやく普通に歩きはじめながら、エルドは今見た光景にふさわしい言葉を考えた。階段を上がって、最後の段でつまずくまで考えたが、詩卿の名に恥じないような美しい至言はひとつも浮かばなかった。浮かばなかったことにすら、転びそうになって初めて気がついた。考えていたのは確かだが、思い返したあの書庫の光の色に心を奪われたまま、頭はまったく働いていなかったのだ。……
そこまで思ってエルドは、彼の勇気だけでは到底巡り合えなそうな幸運を――サナと顔を合わせる機会を、たった今ふいにしてきたことに気がついた。だからといって、踵を返して書庫に戻り、〈自分は君の夫だ〉などと突然名乗りを上げたら彼女はどんな反応をするだろう? 静寂に守られたあの優しい表情は、間違いなく困惑で塗りつぶされるだろう。もしかしたら、見知らぬ男に声をかけられたことで恐怖を感じさせてしまう可能性もある……などと、自分に都合のいい解釈ばかりが後から後から湧いて出た。何が〈ちょっと変わった親戚の家に来ていると思ってくれればいい〉だ。これほど気にしているくせに。
しかし、いかに逃げ腰であろうとも、いかに葛藤していようとも、その日一日エルドの心からサナの姿が消えることはなかった。フォーリ家の使用人たちは優秀だから、日が落ちてからの書庫での過ごし方についても、サナにきちんと説明しているに違いない。マルタあたりは、三時ごろに膝掛けやお茶の差し入れをしてくれそうだし――それでも、一応。エルドは胸中で意味の分からない言い訳をしながらふたたび書庫へ足を向けた。一応、一応だ。何かあったら、大変だから。それ以上の理由は断じてない。
二階廊下のフクロウは右翼を開いていたが、灯りをつけるための鎖はそのままになっていた。施錠しないまま夕食に呼ばれて出て行ったというだけならいいが……書庫に滑り込んで階下を覗いたエルドの目に、白っぽいサナの影がふわふわ動いているのが見えた。それは暗がりの中で彼女がもっとも恐れているであろうものによく似て見えたが、
「いやだわ、どうしましょう」
という声にはおろおろとうろたえているなりの活きやかな愛嬌があり、エルドはほほえみを通り越して笑いそうになった。それじゃあ君、幽霊失格ですよ……。それから、廊下に戻って灯りの鎖を引いた。
自分では何もしないうちに明かりがついたので驚いたのだろう。サナはしばらく書庫を見回していたが、じきにエルドのいる二階層目の扉の辺りに目を留めた。まさか顔を見せない夫が自分のことを案じて様子を見に来たということまでサナに見抜けるはずはないが、それはそれとして、誰か仕掛けを動かしてくれた人物がいるということに聡明な彼女は気がついたのだ。
「……もうすぐお夕飯ですよ」
他にいくらでも言うべきことはあったのに、口から出たのはそんなことだった。しかも、ほとんど無意識に口が動いたようなものなのに、出た声はちゃんと緊張していた。そっけなく、固い声だった。
サナは戸惑いながらもなおもエルドの方を見ていたが、そのときちょうどニコラが入ってきてエルドと同じことを言った。サナはもう一度こちらを振り向いたが、ニコラに従って書庫を出て行った。彼女のことだから、夕食のあとでまた戻ってくるつもりかもしれない。
エルドはそっと書庫の中へ入った。そしてサナがしていたように見慣れた明かりの風景を見渡したとき――彼はふいに、今日サナの髪を結んでいたリボンと自分のものとが、同じ色をしていたことに気がついた。
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