第2話 声

 結婚式のような変に厳かな歓迎会のような、サナにとっては悪夢でしかなかったあの催しから、とにかく三週間が過ぎた。着飾った花嫁と遠路はるばる集まった招待客を放って、城の主であるばかりか花婿であるはずのフォーリ卿が発熱のためだとかで姿を見せなかったので、サナはたったひとりで神前に誓いを述べるという、実に間の抜けたことをやるはめになった。イライザとアリーチェの前でというのがいっそう惨めだった。


 大半の心あるお客と使命に忠実な神官は、サナが誰もいない方に向かって手を差し伸べたり、フォーリ卿の発言があるべきところをサナが黙って耐えたりしているのを、これは冒しがたい神聖な儀式であるということをわきまえて大真面目に見守ってくれた。


 しかし、いとこたちはそうではなかった。さすがにおおっぴらに顰蹙を買うようなどうしようもない馬鹿ではなかったが、招待客の最前列へ出てきて、底意地の悪い目で哀れな晒しものを始終嘲笑っていた。


 といっても、このいとこたちがサナに対して意地の悪いことをするのは今にはじまったことではなかった。ただ、フォーリ家の大広間には本が一冊もなかったから、代わりに見たくもない彼女らの性根がはっきり見えてしまったというだけだ。彼女たちにしてみれば、前々からまったく話の合わなかったいとこを名乗る〈変人〉が、国でも指折りの財産持ちに嫁ぐというのはちょっとやそっとの不幸を笑うくらいではおつりが出るほど忌々しいことだったのだ。


 そういうわけで、彼女たちは二日の滞在の間にすでに未亡人のようなありさまの〈サナ・フォーリ夫人〉をさんざんからかい、それをかなり寛大な慰謝料だと思っていた。ふたりの父、つまりサナの伯父と叔父(コラジ卿は次男だった)は主にイライザの悪知恵のために娘たちの不躾な振舞いを目にすることはなかったし、見ていたとしても妻にそっくりな我が娘を諭すのは不可能だっただろう。


 コラジ夫妻はもともとの予定をのびのびにして五日の間城にいてくれたが、最終的にはサナに促されて、振り向き振り向きという感じで帰路についた。明るいマリアンナですら、別れ際には顔を曇らせた。


 「ねえサナ、本当についていなくて大丈夫? ええ、結婚というのは大変なものよ。だけどねえ、これほどとは思わないんじゃない? 」

 「仕方ないわ」


 本当に仕方のないことだったので、サナは肩をすくめた。


 「お加減が悪いんですもの。きっと準備でお疲れだったんだわ。だから、なるべく早くいつものお城にした方がいいのよ」

 「なんて優しい子なの! 」


 コラジ夫妻を見送るためにサナと一緒に玄関へ出てきていたトゥッカヴェルデ夫人は涙ぐんだ。


 「まったくエルドには……いえ、マルタ、ハンカチはいいわ、ありがとう。本当にね、わたくしサナが大好きなの。エルドがこの子にきちんと謝れるようになるまで、サナのことはわたくしが責任を持ちます。ご心配なさらないで」


 こうしてまたしばらくはトゥッカヴェルデ夫人が実の伯母のようにサナの相手になってくれたが、それも先週までのことだった。急にどうしても見送れない用が入ってしまったとかで、夫人は帰らざるをえなくなってしまったのだ。どんなに急いでも次に来られるのは三か月は先という事実は、サナはもちろん、夫人本人を誰よりがっかりさせた。


 「こんなことなら、ダイナの町へ嫁ぐんだったわ! 小さな町だけど、一時間もかからないで行き来できるのよ。隣町だから」

 「まあ、メリルおばさまったら……」

 「あらあら、本当よ。今度遊びに出かけましょうね。お手紙しましょうね。きっとよ――それとね」


 トゥッカヴェルデ夫人は馬車の窓から身を乗り出してサナの両手を握った。


 「エルドのことを、どうか許してやってちょうだい。あの子が何をしても――しないのが問題なんだけど――それはあなたのせいではないわ。……わたしのお節介が、過ぎたのかも。サナ、エルドはね、本当にもう馬鹿みたいに繊細なの………」

 「お熱じゃ仕方ないわ。少しだけでもお会いしたいのだけど、病気をうつしてしまうから、って。ね、ジュリオさん」

 「――ええ、そのように伺っております」


 ジュリオは主人の体調を案じているのか、神妙な憂いを浮かべてサナを見つめた。トゥッカヴェルデ夫人はもの言いたげなまなざしをサナに向け、けれど惜別を振り切るように、サナの手を離した。


 「あなたには頼んでばかりね。だけどサナ、あの子を待ってあげてね。お願いよ……」


 夫になった人はそんなに体が弱いのかとサナは気の毒になったが、正直なところ、すぐにコラジ家の娘から誰かの妻になったということを受け入れなくて済んだのにはほっとしていた。覚悟はあったが、やはり人生における大きな転機であることには変わりない。マルタやニコラ、ジュリオといった使用人たちが新しい女主人を思いやり深く迎えてくれたこともあって、サナはおっかなびっくり、何事もすべて未知の経験ではあったが、少しずつフォーリ家になじんでいった。


 だが実家より数倍は広い城の間取りや、使用人たちの名前を覚えるのに四苦八苦した段階を過ぎてしまうと、サナは結婚式からの日数を数えるたびに、どうにも説明のできないうすら寒さを感じるようになっていった。〈あの人〉は――会ったことのない人を呼び捨てにはできなかったし、もう〈フォーリ卿〉とは呼べないので、どうしてもそんな呼び方になってしまう――一体何をお考えなのかしら。


 「こういうものなのかしら、奥さんって」


 ある朝、着替えを手伝いに来たマルタを相手に、サナは呟いた。


 「広い場所に住んでいると、誰かひとりくらい増えても忘れてしまうのかしら」

 「まあ、奥さま」


 ドレスを二着、サナに選んでもらおうと差し出していたマルタは、ぎょっとした様子で青ざめた。サナは知らなかったが、実は使用人一同この優しい女主人が愛想を尽かすことを何よりも恐れていたのだ。


 もっとも、尽きて困るほどの愛情を夫との間に育むことすら、サナにはまだ許されていなかったのだが。彼女は眉を下げて笑った。


 「ごめんなさい、朝からおかしなことを言って。……ねえマルタさん」


 エルド・フォーリという人は、ちゃんと実在するのよね。聞いてみたかったが、はばかられた。それで、毎朝尋ねている問いを繰り返すしかなかった。


 「旦那さまは、お加減いかが? 」

 「もうすぐよくおなりです。ええ、そうですとも! 」


 マルタは両手を握りしめて宣言した。いつもは困ったようにほほえんで


 「もう少し……」


 と答える彼女から、こんなに力強い言葉が返ってきたのは初めてだった。


 翌朝から、ジュリオが一輪ずつ花を届けてくれるようになった。フォーリ卿が選び、言伝を添えて妻に贈るようにと頼んだものらしい。最初の一輪は、淡い黄色の中心に酸味のある紅色をにじませた、朝日そのもののようなバラだった。


 「〈あなたを忘れるはずはない。わたしの心にかけて〉……とのことでした」


 ジュリオは託されてきた言葉を正確に伝えてから言った。


 「奥さまがお望みのことは叶えて差し上げるようにと仰せつかりましたので、何かご要望があればなんなりとお申しつけください」


 ジュリオは教本のような美しいお辞儀をした。そうねえ、とサナは考えるふりをした。彼は長年詩人に仕える優秀な執事だ――ほんの軽い冗談のつもりで、サナは言った。


 「美しい胸紐か、櫛がいいわ。魔女のおばあさんがお姫さまのために用意したものよ」


 ジュリオはこれを聞いて目をしばたたいたが、沈黙は束の間だった。彼は思わずといったようにほほえんだ。


 「櫛の次は毒のリンゴですが、よろしゅうございますか? 」


 今度はサナが沈黙する番だった。使用人の中でも堅物に見える彼が、これほど柔軟に付き合ってくれるとはさすがに思っていなかったのだ。


 「じゃあ、人魚姫がお誕生日に髪を飾った真珠がいいわ。こんなに大きなのを半分に割って、花の形にしたものよ」


 ジュリオは心底申し訳なさそうに首を振った。


 「残念ながら、奥さま。彼女が泡になったあとから、行方知れずのようなのです」

 「それなら、ガラスの靴を履いて乗るための素敵な馬車がいいかしら」

 「ひと晩限りでカボチャに戻ってしまいますから、おすすめはいたしませんな」


 サナはこらえきれずに笑ってしまった。そこで、この日のお願いは次で最後になった。


 「本当のことを言うと、少しチョコレートが欲しいわ」

 「お菓子の家のかけらでなくてもよろしゅうございますか? それでしたら、すぐに」


 ジュリオは愉快そうにほほえんだ。彼とのこうしたやり取りが、この日以降しばらく続いた。


 ジュリオが花を持ってやってきて、サナの望みを尋ねる。大体は、サナが何か甘いものを頼んで終わる。サナは、〈夫に会いたい〉と口にしたことはなかった。それが叶わないからこうしてジュリオが来ているのだ。口にしても困らせるだけなら、言わない方がいい。


 だが、ジュリオの方でも思うところがあったのだろう。ある朝彼はこう言った。


 「――奥さま。僭越ではございますが、その……もう少し、高価なものや大きなものをお望みになられてはどうかと」

 「女の子からできた本物のアメシストが欲しい、とか? 」

 「ははは、それは困った……人身売買に抵触してしまう可能性がございます」


 ジュリオは朗らかに応じたが、恐らく彼にとって今までのサナの要望はわがままの度合いが低すぎたのだろう。〈夫に会う〉という何よりもたやすげな願いがなぜか一向に実現しない以上、なんとしてもサナを楽しませようという執念に近いものが彼の目にはあった。劇場をひとつ借り切ってオペラを見たいというくらいのことを頼んだところで、彼は動揺ひとつしないだろう……。


 「チョコレートより欲しいものがあるとすれば……」


 ジュリオがわずかに身を乗り出した。サナはひと息に言った。


 「本が読みたいの」

 「本でございますか」


 サナが他人に本をねだったのはこれが初めてだった。記憶にはないが、過去に苦い思い出があるに違いない。いつからか彼女は思っていたのだ――何か欲しいものはないかと聞かれたとき、ブローチやドレスと答えた方が丸く収まるのだと。サナの部屋に置き去りにしてきたものがたくさんあるのはそういうわけだった。


 きれいな装飾品や可愛らしい雑貨の類が嫌いなわけではなかったし、幸いコラジ家には本がたくさんあって不自由しなかった。そして、コラジ卿は娘を好きなだけ読書漬けにしておいてくれた。理由は三つある。ひとつは娘がそういうものを好むから。ひとつは、サナが読みたがるようなものは若い娘が読むものとしてはまっとうな詩だの物語だの画集だのだったから(コラジ卿はこうした種類の本は毒にも薬にもならないと思っていたのだ)。そしてひとつは、コラジ卿自身はそういう本にあまり手を触れないからだった。


 ジュリオは眉を寄せることもなく、ただ少し拍子抜けしたように聞き返してきただけだったので、サナは素直になったことを後悔せずに済んだ。


 「そうでしょうとも」


 ジュリオは口髭をむくむくと動かし、どうやらにっこりと笑ったようだった。


 「トゥッカヴェルデ夫人――メリルさまは、以前おっしゃいました。アンナさまのお嬢さまであれば、きっと宝石よりも本をお喜びになると。お聞き及びでしょうか。アンナさまが首飾りではなく詩集をお喜びになったことがあると」

 「まあ、本当に? 」

 「ご友人からお誕生日の贈りものをお受け取りになったおり、わけて喜ばれたのがメリルさまからの詩集だったということでございます。もしや、ご自身にもそのようなご経験が? 」

 「どうかしら……覚えてはいないけど、昔あったのかもしれないわ。お客さまにいただいたお人形も、あまり嬉しくなかったし……もしかしたら、そのときに〈ご本がいい〉なんて言って、嫌な顔をされたのかもしれないわね」

 「それはそれは」


 ジュリオは有能な執事だったので失笑の失態をおかすことはなかったが、実に合点がいったというように目を細めて、くすりと息をこぼした。


 「どうりで、風情のあるやり取りを楽しませていただきました。当家の執事ともあろうものが、考え及ばずお恥ずかしい限りです」

 「そんな……相手が本を読みたがっているなんて、最初には考えつかないもの」

 「お優しいお言葉、痛み入ります。しかしながら、この城に身を置くものとして必須の能力……執事頭として十分備えていると自負しておりましたが、まだまだ勉強が足りないようです」

 「まあ。このお城で働くのって、大変なのね」


 サナは眉を下げたが、ジュリオは静かに首を振った。


 「いいえ、決して。それに、その能力――いわば〈財〉は、奥さまも十分にお持ちのはずです。よく耕された心に宿り、他者を思いやることのできる優しさの源となる〈財〉ですので」


 何のことかしら、とサナは悩んだ。ジュリオはサナの考えごとを妨げないよう、旦那さまに書庫を開けてくださるようにお願いしてまいります、と囁いてそっとサナの前を下がった。


 扉から出る直前、彼はふいに言った。


 「豊富にお持ちなのはよいのですが、あらゆる可能性を検討できるために悩みを増やしたり、余計なしがらみに捕らわれてしまったりする方も中にはおられます。そういう方には、また別の財が必要ですな」

 「えっ? 」

 「〈財〉とは〈想像力〉でございます、奥さま」


 扉は音もなく閉められた。ジュリオがお辞儀から頭を上げた瞬間、たやすく解けない謎をかけたものが見せるにんまりとした笑顔が、彼の口元に見えたような気がした。



 フォーリ家の書庫は西の塔にあり、一応の戸締まりはするが――さもないと、潮風でもろもろのものがあっという間に傷んでしまうのだ――、〈鍵〉は出入り扉のすぐ脇にあるとのことだった。普段誰でも好きに使えるようになっているだけに、サナへの説明を欠いてしまったのは許されざる過失であったと、玄関広間を先導しながらジュリオは言った。


 「大変申し訳ございませんでした。これからはどうぞお心の向くまま、お好きなだけご活用ください」

 「書庫は、ずいぶん大きいの? 」


 ジュリオは心なしか少し胸を張った。


 「それはもう……とお答えするのは簡単ですが、あの書庫はやはり、ご自身で確かめていただくのが一番かと存じます。〈鍵〉を含めて驚くべき場所です、とだけ申し上げておきましょう」

 「〈鍵〉を含めて? 」

 「あちらをご覧ください」


 ジュリオは西の塔へ至る扉を指さした。サナの身長の二倍ほどもある、大きな木製の扉だ――その脇の石壁に、これもまた大きな、不思議なものが掛けてあるのがサナに見えた。


 どうやら、フクロウだ。そこには大きなフクロウをかたどった巨大な飾りものがきらきらと輝いていた。全体が輝いているのは、宝石がたくさん散りばめられているからだ。ひとつひとつ磨かれたトパーズや琥珀や黄水晶が、モザイクを描くようにフクロウを形づくっていた。フクロウの体からは鎖が二本下がっており、先端には手で引きやすいように輪が取りつけられていた。


 「こちらがこの書庫の〈鍵〉となります」


 サナが目を丸くして突っ立っているので、ジュリオは満足げに言った。


 「フォーリ家は代々優れた詩卿を排出してきた輝かしい歴史ある家系なのですが、約五代前のご当主のご兄弟にからくり細工で名を馳せた方がいらっしゃいました。この〈鍵〉は、その方の手によるものです」

 「これ……〈鍵〉なの? 」

 「おっしゃるとおり。こちらの右側の鎖を引きますと、この扉と、二階の出入り口にあたる扉が解錠されます。施錠するときは、左です」


 ジュリオは説明しながら右側の鎖を引いた。壁の内側からがらがらと何かが動く音がし、フクロウはゆっくりと右翼を開いた。やがて目の前の扉が開いたことを示す小さなカチッという音がした。


 「これと同じフクロウが二階の扉の前にもございます。右の翼がこのように開いているときは、中に誰かがいるか、施錠を忘れているということなのです」

 「素晴らしい仕掛けね……」

 「お喜びいただけたようでなによりでございます。どうぞ中へお入りください」


 ジュリオが扉を開けると、ひんやりとした空気のかたまりが押し寄せてきた。紙とインク、そしてわずかなカビ臭さ。間近に本が置かれている気配がするが、慣れない目には何も見えないくらい、そこは暗い場所だった。城のどの部分も自分の庭のように知り尽くしているジュリオに手を引かれるまま、サナは柔らかな座面を持つ椅子のようなものに辿り着いた。


 「日光で本を傷めないよう、施錠時は常にこの状態が保たれております。ただいま光を入れてまいりますので、おかけになってお待ちください」


 サナは余計なことを考えないようにしながら大人しくそこで待った。余計なことというのは、真っ暗闇から急に伸びてきた白い手に足を掴まれたらどうしようとか、この柔らかな椅子が実は息をひそめてサナを窺っている獣だったらとか、どこかへ消えたジュリオがこれっきり姿を見せてくれなかったら……そして誰かが外から部屋を施錠してしまったらとか、暗闇を味方につけた怖い想像の類だ。サナは温かな背もたれがあることを感謝した。


 「もう少々ご辛抱ください」


 ジュリオの声が気づかわしげに響いたが、まさか彼の声にこそサナが声も立てられないほど驚いたとは、ジュリオ本人は思わなかっただろう。彼の落ち着き払った声は、なぜかとても高い位置から発せられたかのような、妙に荘厳な響き方をした。聞きようによっては、亡霊の声のようでもあったのだ。


 がたんがたん、と建てつけの悪さを嘆くようなくぐもった音がした。次いで、金属の鎖を巻き上げる音。さらに、歯車が回り、噛み合う音がした。まるで時計台にいるかのようだ。


 そして突然、光が差し込んだ。


 「奥さま、ご覧ください」


 ジュリオの声に、サナはせいぜい


 「ええ」


 とか


 「ああ」


 といったような返事ができただけだった。朝方の光に浮かび上がった書庫は――。


 サナがいたのは吹き抜けの書庫の一階層目だった。二階、三階と、円柱の塔に合わせて手すりつきの丸い廊下が壁に沿って巡っている。階と階の間には優美な階段が連絡し合い、天井からは嵌め殺しの装飾ガラス越しに虹色の光が降り注いでいた。


 なにより、どこへ目をやっても本棚にぎっしりと詰まった、本、本、本………。


 「フォーリ家名物、からくり三層書庫でございます」


 二階層目から下りてきながらジュリオが言った。どうりで、高いところから声が聞こえたわけだ。


 「二階層目と城の二階が通じておりまして、城側へ出ますと、二階のフクロウには屋根を開くための鎖が下がっております。一階のフクロウにもこの鎖があればいいのですが、あまりに繊細な設計のため改造のしようがなく、今にいたります」

 「すごいわね」


 説明できない感動でいっぱいの胸から、やっと一言溢れた感想がこれだった。


 「すごいわ――とても。美しい魔法みたい」

 「まさしく。からくりを設計した方は魔法を扱うように自由自在に、仕掛けを動かしておられたとか」


 ジュリオは説明を加えたが、サナの様子をひと目でも見れば、気に入ったかどうかわざわざ確かめる必要は彼にはなくなった。優れた執事というものは、時にみずからの存在を霞か靄のように薄らいだものに仕立て上げることができる。このときのジュリオはまさしくほほえみを溶かした霞だった。彼はサナが本に夢中になっている間に静かに書庫を出た――サナは昼頃ニコラに呼ばれて顔を上げるまで、ジュリオの不在には気づかなかった。


 「奥さま、お昼だよ。ああ、ここって大時計の鐘が聞こえないんだよね」

 「まあ、ニッカ……」


 サナは物語の本から顔を上げた。一階層目の本棚から見つけたものだ。


 「もうそんな時間なのね。……あら、ニッカったら、なんだかおいしそうな匂いがするわよ」

 「今日のお昼だよ。どうせならケーキの匂いでもついてくれりゃいいんだけど、どうせ豆のスープとか焼いた肉の匂いなんだよね……サナは何を読んでたの? 『鳥にまつわる愛の物語集』? ははあ、悪いことしちゃったな。あたしについたこの匂い、鶏肉の匂いなんだ。塩と胡椒とハーブをまぶして、脂がしたたるまで――悪かったって。ね、おいしいよ。どうする? ここへ持ってこようか? 」


 これはとても魅力的な提案だったが、サナは昼食のために一度書庫を出ることにした。静かに守られた人気のない書庫は落ち着く場所には違いなく、何事も受け入れてくれそうではあったが、時間をかけて降り積もる埃以外の汚れはこの侵しがたい詩人の聖域にはふさわしくなかった。


 一時間かけてニコラ自慢の料理を最後まで堪能し、忙しい彼女が次の仕込みへ向かうまでの間少しおしゃべりを楽しむのが、嫁いだ翌日からのサナの昼食の過ごし方だった。ときにはマルタや、ニコラの夫のマッシモが加わることもある。使用人が主人の食事に同席するなんて、とマルタが眉をひそめたのは最初の一度きりだった。彼らが同席しなければ、サナはたったひとりで食卓につかなければならないのだから。


 「午後も書庫へお入りになりますの? 」


 食後のお茶を給仕しながらマルタが尋ねた。許される限り入り浸るつもりでいたサナは、ためらいがちに頷いた。


 「もしかして、閉める時間が決まっているの? 」

 「いいえ、そんなことは。ただ、西の塔は陽が落ちるととても冷えますから。夜更かしなさるならせめてお部屋でと……あら、話が逸れましたわ。どうぞ膝掛けをお持ちくださいましね。三時に一度、温かいお茶をお持ちいたしますから」


 暦の上で夏が過ぎて、一週間になる。もともとこの辺りの地域は温暖な気候が特徴だ。昼間などはまだうっすらと汗をかくほど暑いので、マルタの心配は杞憂なのでは、と六時までのサナは思っていた。


 周囲の様子に気がついたのは、辺りが薄暗くなって、本の字が読みづらいと思ったときだ。天井の装飾ガラス越しの光は赤みがかかっている。そうしてもうずいぶん夜に近いことや、手足の先が冷え切っていることが分かったあとで、光が入る前の書庫が真っ暗だったことをサナはようやく思い出したのだった。


 あの、孤独をひたすら濃く醸し出したかのような、ひやりとしてカビ臭い真闇――。


 「いやだわ。………どうしましょう」


 サナは膝の上に開いた本を閉じて、おろおろと胸に抱えた。本棚と本棚の間にランプが取りつけてあることや、そのランプを使うための仕掛けが二階のフクロウのところにあるということをジュリオはきちんと説明していたのだが、サナの生返事は心のこもった相槌とあまり変わらなく聞こえるということを彼はまだ知らなかったのだ。


 まだ読み足らないという気持ちひとつのために、サナは書庫から出ることなど思いもよらずただ途方に暮れた。秋の陽はあっという間に落ちるという、この際全然助けにならない知識ばかりがサナの頭にちかちか点滅した――。


 ふいにじりじりと音を立てながらランプに火が灯ったので、サナは立ち尽くしてぼんやりと灯りに見惚れた。上から下まで余すところなくオレンジ色の明かりで照らされた書庫の中は、実際より温かく感じられた。まるで、祝祭のために飾りつけられたともしびのようだ。きらきらとした夢のような雰囲気は、本当に魔法が行われたかのようだった。


 サナはしばらくうっとりと書庫を見回していたが、すぐに誰か灯りをつけてくれた人がいるのだということに気がついた。ジュリオだろうか? サナは二階層目の、城の廊下へ繋がる扉の辺りを見つめた。


 ジュリオが入ってくることはなかった。彼のものとは違う、少し強張った声だけが、サナに向かって落ちてきた。


 「……もうすぐお夕飯ですよ」


 どなた、と尋ねるより早く昼のときのようにニコラが入ってきて、誰やら知らぬ声とそっくり同じことを言ってサナを急かした。サナはかなり後ろ髪を引かれたが、〈声〉への未練を断ち切らなければならなかった。


 どうも、サナがわがままを言ってそこに頑張っている限り、〈声〉は姿を現さないのではないかという気がしたのだった。

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