漆黒の魔術師イドラ

宇多川 流

白珠の謎編

第1話 洞穴の奥に潜むもの

 ――話は、昨日の朝にさかのぼる。

 僕とイドラは数日の草原の旅を経て、レーナッド大陸中央部の大きな町エストラメリアに到着した。立派な魔法学院もあり魔術師が研究に使う塔もいくつもそびえ、商人と客で混雑する市場や商店街もこの辺りでは最大級だ。

 でも、門をくぐって街並みを目にする前に。

「あっ、あなたはもしや……!」

 ローブ姿の人間の男が話しかけてくる。見た目は中年くらいでその格好からしておそらくは、魔法を扱う魔術師。

 彼の目は一旦は空中の僕に向いていたが、驚きはイドラに視線を移した後の方がずっと大きい。外見はまだイドラの方が人間そのものではあるけれど。

「その杖といい、その黒尽くめの姿といい……〈漆黒の魔術師〉イドラさまでは?」

 そう、彼は知っていたのだ。イドラが有名な魔術師であることを。

 〈漆黒の魔術師〉――などというふたつ名はこの大陸の誰もが寝物語に聞く神話伝承に近いくらい有名だ。『英雄セルディスの冒険譚』、『王女ゲートルード漂流記』、『古代帝国興亡史』という有名な伝記にもその名が登場する。

 そこに記されている彼の他の異名、〈邪神の黒幕〉だの〈魔王の化身〉だのから想像される通りの、髑髏の飾りがついて先が三日月形になっている黒い杖を手にした黒尽くめの魔術師の姿。記述にある黒いローブにコートと帽子、しかしその顔は若々しいというのも彼の目の前の姿と符合する。

「ああ、そのイドラだよ」

 本人はあっさり認める。

 なにせ、彼の持つ魔杖カールニフェックスは常に強力な魔力を放っているから、身分なんて偽りようがない。居場所を全力で知らせ続けているようなもので危険極まりないが、その杖を使い続けることにこだわりがあるらしい。

「ではやはりイドラさまも、ナスコの洞窟の邪神を退治にいらしたのですか」

 目を輝かせて迫る相手に、イドラは一瞬訳がわからないように動きを止める。

 そりゃそうだ。僕らは目的があってここへ来たわけじゃない。案の定、彼は首を振った。

「邪神なんぞ知らないな。昔、ここから遠くないところにある火の山の洞窟に住む邪神を吹き飛ばして財宝を奪ったことはあるけれども」

 ああ、と中年魔術師は少しの間だけ落胆した様子を見せたものの、すぐに気を取り直す。

「しかし、イドラさまほどのかたなら邪神も余裕で退治できるはず。どうか、人々の願いを聞いていただけないでしょうか」

「聞くだけならいいが、人々の願いはどうでもいいな」

 まだ僕が彼と一緒に旅を始めて一ヶ月くらいだけれど、彼は基本的に人助けに興味がないことはわかっていた。

 たまに、なにか自分の役に立つか、気が向いたときに助けることはあるけど。僕が彼についていくことにした切っ掛けも、魔獣に追われていたのを助けられたことだ。

 さて、今回の場合はどうなるか。

 僕らは町の中心部にある会館の一室へと案内された。神殿を模したような芸術的な建物だ。この町は公共施設も大きくて造りも凝っている。

 お茶を出されて少し待つと、町の役人のお偉いさんらしい男たちが二人現われた。身なりはどちらも上流階級のようだけれど、一方は白髪に白髭と老年で、もう一方は焦げ茶色の髪の若者と呼べる年代に見える。

「まさか、かの大魔術師イドラさまにお会いできるとは……とても光栄です」

「前置きはいい。ナスコの洞窟とやらについて聞かせてもらおうか」

 この二人の男たちが何者なのかは、イドラだけでなく僕も興味はない。

 促されて、年長の方の男が語り始める。

 それによると、この町の北東にあるというナスコの洞窟は、町ができる遥か昔から存在したらしい。そこは瘴気が漂い、風向きによってはこちらまで流れてきて、体調を崩す者も何人もいたという。

 勇気ある探険家が洞窟を調べ、衰弱して命からがら町へ戻ったことがあった。その探険家は戻って三日後に亡くなったが、それまでに伝え残したことによると、洞窟にはいくつも罠がありそれを抜けた先には瘴気を噴き上げる毒々しい沼があるとか。

 瘴気、というのは普通の生物の身体にとって良くない力のこと。発生源が邪悪なものなら邪気だけれど、原因の不明なものや自然発生的なものは瘴気と呼ばれる。

「大昔に比べれば少しずつ量は減っていましたが、それでも被害は毎回出ていました。そして沼を浄化しようと百年と少し前、強力な魔力を持つ女性魔術師が洞窟へ向かったのです。瘴気を生み出す力には限りがある、あの洞窟から感じられる魔力はもう十年ほどで尽きるでしょうが少しでも人々の苦しみを早く終わらせられるなら……と」

 しかし、魔術師は戻ってはこなかった。それどころか以前より漂ってくる瘴気が濃くなり、旅の魔術師らは口をそろえ、以前は徐々に弱くなっていたはずの洞窟から感じられる魔力は、今の方がずっと強くなったという。

 あの魔術師は嘘を言い、沼の魔力を我が物にしたのではないか。そんなことができるのは人間じゃない、邪神かその使いだったのでは――多くの魔術師と魔法研究施設などを抱え、瘴気を遮る防御結界で町を守れるようになった今ではそう予想されている。

「それで、なんで邪神退治が必要なんだ。邪神がまだいるとも限らないし、もう瘴気も防げるならこの町にとっては害はないはずだろう?」

 イドラの疑問に、若い方の男が口を開く。

「それでも交易に行き来する商人が旅をする際に困りますし……それに、新月の日には瘴気が薄くなるのですが、ここ百年ほどはその日に必ず地震が起きるようになってしまったのです。それもまだ邪神が洞窟を拠点にしているからだと予想されています」

 新月の夜には魔力はどこも普段より薄くなる。だから、新月に魔術師が身を守るためやどうしても魔法を使う必要がある場合は、普段は必要ない儀式を行ったり、なんて話は聞いたことがあった。

 地震、ねえ……と小さくつぶやき、イドラは窓の外を眺める。

 街並みには古い石造りの建物も多いが、崩れた痕跡などはない。

「どうか我々をお助けください」

 と、男は懐から取り出した巻物に書かれていたらしい、お礼とやらを並べ立てた。


 ひとつ目、この町に像を建立し名前を刻む。

 ふたつ目、この町の所属するデラフィグ王国の王宮に名誉国民として申請する。

 みっつ目、一ヶ月宿泊できるくらいのお金。


「くだらない。そんなものに価値を見出すと思うのか?」

 あきれたように笑い、イドラは驚く男たちの前で椅子を引いて立ち上がる。

 ああ、やっぱり。

 すでに伝承に登場しているほどの有名人に名誉や名声なんていらないし、提示された金額は命を懸けるには微妙なものだ。魔法ってのは研究したり儀式に使う物をそろえるのにとても金がかかる。大魔術師になるまでにはそれなりに蓄えている。

 まあ、正直、もっと早い時点でこうなることはわかっていた。〈漆黒の魔術師〉だの〈魔王の化身〉だの呼ばれる魔術師に邪神退治を頼むなんて歪過ぎるだろう。邪神がお宝をたんまり蓄えているなんて話もないみたいだし。

「しかし、これ以上我々からは……」

「どうぞ、お引き受けください! もしお望みなら、宮廷魔術師への推薦状をお書きしてもかまいません」

 そんな紙切れになんの意味があるのか。と言いたげにイドラは鼻を鳴らす。推薦は受け付けられるとは限らないし、そもそも彼は宮廷にとどまることを望まない。

 その様子を、僕はお茶を舐めながら静かに眺めていたのだけれど。

「ほら……お連れさまも、なにか欲しいものはございませんか?」

 こちらに水を向けられて少し驚く。

 僕と行き合う人間はたいてい、「小さくてかわいい」だの「竜なのに弱そう」だの感想を持つか、不気味に思って距離をとる。ここは魔法研究が盛んだからこの人たちも、ことばが通じることを知っててすがってきたか。でも普通なら、魔術師がよく従えている使い魔だと思いそうなものだ。

「馬鹿げたことを。妖精竜が人間の金銀財宝に惹かれるわけないだろう」

 僕が口を開く前にイドラが嘲笑する。

 そう、僕は妖精竜だ。まだ成体にはなっておらず、人間の幼児くらいの大きさで、遠くの海にいるタツノオトシゴという海洋生物に似ているらしい。人の目線くらいの高さまでは飛べるけど成体のように大空は飛べず、炎の息を吐いたりもできない。ただ、妖精竜は生まれながら三つだけ魔法を使えるけど、僕が使える魔法に邪神を退治するような力はない。

「じゃ、そういうことで」

 僕はそう言い残すと、ドアに向かい出ていこうとしていたイドラの背中を追った。

「どうするんだろうね、あの人たち」

「さあ、必要ならそのうち適当な人材を雇うんじゃないか」

 会館を出るとそんなことを話しながら商店街で買い物をし、宿を決め、暇潰しに歴史ある図書館で本を読んでみたりした。暇潰し、といっても大概は図書館には寄るけれども。知識の宝庫で土地の歴史もわかるし、館内で読むだけならよそ者でもタダだし。

「百余年前に町に現われたという邪神とやらは、天女のごとく空から突然舞い降りたところを何人かの旅人が目撃している。女神のようだった、だとさ」

 一応気にはなったのか、イドラはこの町の歴史書を棚から持ち出していた。

 とても背の高い本棚が並ぶ間から、天井にはシャンデリアが見える。古い城のような内装の図書館は広く、テーブルと椅子も何十組と並んでいた。ほかの利用者もそれなりにいてこちらにチラチラ視線を向けているのもいるが、僕らはメチャクチャ目立つのでもう慣れている。

 話しかけてこられるとちょっと面倒だけれど、その様子はない。

「そんなこと、やろうと思えばキミもできるんだろ?」

 魔法でできないことは行われていないように思えた。

 ただ、神さまもそれほど万能ではないけれど。

 神話によると、最初は万能な神さまが一柱だけいたけれど、溺愛していた花が枯れた衝撃でバラバラになって、たくさんの魔術師に毛が生えた程度の神さまが誕生したとか。

 その神々は天空に浮かぶ島に住んでいて、たまに地上に降りてくる姿が目撃される。

「そうだな。ただ、強力な魔術師には違いない」

 本のページをパラパラとめくりながら、彼はなにか考えている様子。

「なにさ、洞窟へ行ってみたくなった?」

「そいつが邪神なら見ものだが、そうでないなら何者でどうなったのか、なぜ洞窟の沼は延命したのか。経緯が気にならないか?」

 やっぱり。

 本から顔を上げたイドラの大きな目は、玩具を見つけた子どものように輝いている。彼は地位も名誉も富も必要とせず、人の役に立つことにも興味はないが、とにかく好奇心が強い。

 何百、何千年と生きているとそうなるんだ――と彼は以前に言っていた。僕もいずれはそうなるんだろうか。

「それなら、依頼を受けた方が得だったんじゃない?」

 と言うと、大魔術師は不服そうに眉をひそめる。

「あんなケチな連中、誰が頼まれるか。魔法研究の盛んなこの町なら魔法の材料も道具もいくらでもあるだろうに。研究塔ひとつすらつけないとは……。いや、そもそも相手が魔術師や邪神でもわたしが退治するとは限らないが」

 伝承や異名の持つ物々しさに反して、イドラ自体の外見は若々しくて魔法学院の生徒のようにも見える。肩にかかるくらいの栗色の髪に大きな目と、女学生にすら間違えられそうな容姿だ。普通の格好をしていれば人間の女性が僕を見たときによくやる反応と似たような反応をされそう。

 そのせいか、大魔術師にしては軽く見られることもある。特に魔力を感知できない一般人には。でもどちらかというと、正体を知っている相手から軽く扱われる方を嫌う。

 彼の自分の正体を誇示し続けるような目立つ杖を手放さないのには、そういう理由もあるかもしれないな。

「たぶん、財産積んで頼むほど困ってないんだろうね」

「瘴気だって風向きを読むことができれば避けられるし、今はそれなりの町なら一人くらい風読みがいるだろう」

 風読みは天気の予想屋だ。当たる率は結構個人差があるものの、ちょっと先の風向きや天気なら半分以上は当たるんじゃないかな。

 この町は防御結界で守られているし、旅人は風下を避けて歩けばいい。ただ地震が煩わしいとか、安眠が妨害されるという程度なんだろう。

「この町の連中のことはどうでもいいが、ナスコの洞窟がどうなっているのかは気になる。それほど遠くもないらしいし、明日の朝食後にでも出発しよう」

 未知の知識や存在があれば調べずにはいられないのがこの大魔術師の性格だ。最初に〈ナスコの洞窟〉という単語を耳にしたときから、こうなる予感はしていた。

 そして僕らは翌日、予定通りにナスコの洞窟へ向かうわけだけど……その前にもうひとつ、僕らの行動に影響を与える出来事があった。

「なにか騒がしいね。なんだろう、あれは」

 朝食を終え、イドラが食後の薬草茶を飲んでのんびりしていたとき、食事をしない僕はなんとなく見ていた窓の外の異変に気がつく。

 通りの脇に並ぶ人々。その向こうを、何人かの若い人間たちが通過していく。どの若者も武装しているように見えた。

 宿の食堂には別の宿泊客たちもいるけれど、戸惑っていたり平然としていたり。

「ああ、あれが始まったんだね」

 そう反応したのは、カウンターの向こうの白髪の老人。腰が曲がっていて足もとが頼りないものの、いい意味で客に必要以上の興味を抱かないこの宿の主人が彼で、僕もイドラも過ごしやすかった。

「昨日の夕方過ぎに、この町に〈虹の勇士たち〉と呼ばれる有名な旅の一団が来たんだよ。色々なところで怪物退治をしているとか。その彼らがナスコの洞窟の邪神退治を請け負って、町で出発式をやってるんだよ」

 へえ。僕らの後に引き受けた人たちがいたのか。

「それは物好きな」

 お茶を飲み干し、イドラは肩をすくめた。

「しかしそうなると……わたしたちが行った頃には荒らされている可能性がある。そうならないためには先回りしなければ。トーイ、そろそろ行こう」

 立ち上がって彼はテーブルの上に金貨を一枚置いた。この宿の代金としては、もう一人分くらい高い金額だ。

「釣りはいらん。取っておけ」

 金貨を目にして、主人は驚いたようだ。

「いいのかい? 持っていけば別のどこかの宿代になるかもしれないよ」

 そこまで親切に気にしてくれるけど、もう魔術師は出口のドアを開けている。

「いいんだよ、お金持ちなんだから。細々と計算するための時間を買っているのさ」

 そう言って、僕はイドラの後に続く。後ろで宿の主人は、へえ、と納得したような声を上げていた。

 それにしても、こういうときはせっかちなんだから――と、僕は飛ぶ速さを上げて同行者に追いつく。別にここで急がなくても、高速移動の魔法でビュンと滑るように移動できるのだ。

 そうやって町を出た僕らは律儀に出発式とやらにつきあっていた四人の勇士たちとか呼ばれていた旅人らより、かなり早くこの〈ナスコの洞窟〉に侵入したのだった。

「生き物らしい気配はなさそうだねえ」

 それほど高くない岩山に開いた入り口は意外に大きかったものの、牙のような鍾乳石を上からも下からも突き出した洞窟の内部はやや狭くなっていた。

 ぬるぬるとした黒っぽい岩と乳白色の鍾乳石に囲まれ、天井辺りには黒いもやのようなものが漂う。魔力のない者には見えないあれが、瘴気というやつだ。

 お世辞にも良い環境とは言えない。妖精竜である僕は本来、自然の中の魔力を吸収して生命の糧とするのだけれど、瘴気は草木も枯らして魔力を奪ってしまう。自然の多い場所では大気中にも魔力が漂っているが、ここにはもちろんありはしない。

 正直、僕にとっても気分のいい場所ではない。イドラの魔法の防御結界があるので身体に影響が出るようなことはないけれど。

「勇士たち御一行が到着するまで一刻はかかるだろう。それまでに奥に辿り着けないほど広くはあるまい」

 常に防御結界を張ったまま、イドラは明かりのために光の球体を頭上に飛ばしていた。行く手は暗く、いくつも並ぶ鍾乳石の柱の間を抜けて進むものの、ずっと同じようなところを通っている気がしてしまう。

 それでも一応、わずかな変化が着実に進んでいることを教えてくれる。たまに頭上から岩の矢が落ちてきたり、横手の坂道から岩が転がってくる。探険家が言っていた罠だろうが、結界のおかげでほとんど問題にはならなかった。

 問題にならないならならないで、一本道をずっと飛んで進んでいるだけはちょっと飽きてくるんだけれど。せめて、終着点がわかれば。

「洞窟の一番奥、を魔法で探せたら楽なのに」

 思わずぼやくと、一歩先を行く魔術師は小さく笑ったようだ。

「トーイが大人になったら魔法が発展してそれができるようになるかもしれないな」

「魔法の発展か……なるといいけどね」

 僕が三つだけ使える魔法のひとつは、探したいものを探す追跡の魔法だ。ただし探したいものや人の名前と特徴を知っていなければならない。

 だから、〈洞窟の一番奥〉なんて行ったことのない場所は探せない。例えば僕が覚えた特徴のある石や道具を誰かが洞窟の一番奥まで持って行って置き、それを魔法で探そうとすれば僕自身は行ったことがなくても奥がわかる。

 でもそんなのは現実には無理だし、地道に進むしかない。

「心配しなくても下に魔力を感じるぞ。おそらくそこが奥だろう。そばを離れないで進んでいれば一刻足らずで到着するだろうし、安全だよ」

 物騒な異名をいくつも持っている割に、イドラは僕の生命は大事にしてくれる。彼に同行したいと僕が言い出したとき、『話し相手になるなら』と承諾してくれた。意外と寂しがり屋なのかもしれない。

 でも、彼は長年一人で旅を――否、一人とは限らないぞ。僕でも人間の寿命の何倍も生きているけれど、その僕から見ても気の遠くなるような年月、その一時期でも大部分でも同行者がいたかもしれないじゃないか。なにせ、僕が知っているのはここ一ヶ月だけだもの。

「いきなり広くなったな」

 イドラの声で我に返る。

 彼のことば通り、両脇の壁が遠くなっていた。天井も今までよりかなり高い。床には端の方に石や岩がゴロゴロ落ちていたり鍾乳石の柱も並ぶが、中央部は開けている。

 そして光球がさらに奥に飛ぶと立ち塞がる凸凹の壁。行き止まり……いや、地面に大きな亀裂が走っていて、その一部には人間も簡単に抜けられそうな大きさの穴が開いている。

 穴からは黒いもやが絶え間なく噴き出す。間近で見たことはないけれど、活火山の噴火口がこんな感じなのかもしれない。

「あの下に沼があるのかな」

「そうらしい。魔力もこの下に感じるな」

 この空間に入ると、魔力は僕にも感じられた。そんなに強くはないけれど、下に広くよどんだような魔力。

 ためらいなく穴の淵まで歩み寄ると、イドラは空中へ一歩を踏み出す。

 その身体は勢いよく落下するようなことはなく、ふわふわと羽毛のように舞い降りていく。僕はもともと飛んでいるので、速度を合わせて追いかける。

 光球が先行して降りる。瘴気で明かりも消え視界は悪い。燻製にされている気分になりながら降りる高さは、二階建ての家の屋根くらいだろうか。降りているとそのうち瘴気の間から下に広がる黒くぬめぬめしたものが見える。沼か。

 そう思っていると近づくにつれ、あるものが目に入る。

 最初は、作りかけの石像かなにかに思えた。

 でも違う。黒い石の柱と、半分それに同化しかけている髪の長い女の人。左半身が溶けて糸を引いたようになりながら柱と同化し、沼につかる足首もだいぶドロドロになって黒く変色している。皮膚は血の気がなくて灰色の石のようにすら見える。

 そんな状態でも整った顔立ちはわかるし――生きてはいるらしい。見開いた右目がはっきりと意思を持って、彼女の前の地面に向かってふわふわと降りていく僕らの姿を追っている。

 瘴気のため沼の端っこがわかりにくいけれど、イドラは沼から少し離れた岩の上に降り立った。とても今までの洞窟の光景からは予想できないような広大な地下空間が目の前に広がっている。瘴気と暗さのせいもあり、奥は見えない。

 それでも魔力や気配を辿れば、ここにいる生き物はあの半溶解した女性だけだということが感知できる。

「ここに平然と降りる人間がいるとはな」

 意外としっかりした、でも頭の中に響くような声。

 声の主を探すけれど、生き物、そしてこちらを見ているような気配はあの女性だけ。その目は確かに知性の光をたたえて僕らの方を見つめていた。

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