第22話 善と悪
そう言った途端、彼の髪の毛がぶわっと舞い上がった。風なんて私はちっとも感じないのに、だ。そしてその体から、何かが再び出てくる。皮膚からざわざわと蜃気楼のように揺れながら、少し白みがかった不思議な空気が揺れている。それはどこかキラキラと輝いているように見え、一瞬綺麗だ、と思った。
だがそう思ったのも束の間で、私はすぐに恐怖に慄いた。なぜかは分からない、柊一さんの体から出てくるそれらが、あまりに強い力で恐ろしかった。神々しさを感じつつも、私には決して手に負えない、近づいてはいけないものだと思ったのだ。佳子さんにしがみつかれた時や、部屋に閉じ込められた時とまた別の感覚だ。
体の震えが止まらない私を、暁人さんが支えるようにしてくれる。柊一さんの髪がなお大きく靡き、同時にあのモヤみたいなものが巨大化し、彼の全身を包んだ。色のない炎のようだった。柊一さんが燃えてしまうような錯覚に陥って、叫びそうになるも、声すら出なかった。
少しだけ見えた柊一さんの横顔は、苦しそうでもあり、楽しそうでもあった。眉間に皺をよせ、額に汗をかいているかと思えば、口元は笑っている。そんな複雑な表情をして佳子さんをじっと見つめていた。
「喰え」
柊一さんが、誰かにそう命令した。
その途端、彼の体から出ている白い炎のようなものが、一斉に佳子さんを襲った。ものすごいスピードで、彼女は逃げる暇もなく、一瞬で包まれる。
とてつもない悲鳴が上がった。腹の底から出されたような、あまりに苦しそうな声で、私はつい耳を塞いだ。
白いやつらは意思を持っているのか、佳子さんを確実に包んでいる。まるで普通の人間が火事で苦しむように、彼女は全身をバタバタさせ痛がった。そして呼吸苦になるように喉を押さえ、舌を長く出しながら暴れる。その皮膚がどろりと溶け出したのに気が付き、私はただ震えを大きくさせた。異臭までしてくる。
そのまま佳子さんはどんどん溶けた。溶けたあとは何も残らず、あの白い炎たちに吸収されているようだった。ほんの数秒で全身が溶け切ったかと思うと、白い炎が完了したとばかりに柊一さんの元へと戻ってくる。彼の体に染み込んでいく。
皮膚から入ってくるたび、柊一さんの表情が歪んだ。その綺麗な顔が苦痛に満ち、ああ溶けた佳子さんが今、柊一さんの中へ入っているんだと分かった。
すべてが消えた瞬間、柊一さんががくっと膝を折った。暁人さんが慌てて駆け寄る。私はただ今見た光景が衝撃的過ぎて、その場からすぐに動けなかった。
「柊一!」
柊一さんは意識を保っているようだった。そして西雄の方をゆっくり見る。
「まだ……あっちが、終わってない……」
すっかり西雄……いや、西雄さんの存在を忘れていた。そっちを見ると、彼は血だらけのまま立ってこちらを見ている。暁人さんが立ちあがり、数珠を握りしめる。そしてじっと西雄さんを見つめる。
「……ずっとここに閉じ込められていたんですか」
彼の問いに、西雄さんが少し俯いた。暁人さんは優しい口調で話しかけ続ける。
「あなたの方が被害者だったんですね。見た通り、あの女はもう消えました。動けますか?」
西雄さんはゆっくり辺りを見回す。痛々しいその体で、彼はやっと口を開いた。
『情けない……長かった……』
初めて聞く彼の声は、想像以上にずっと優しいものだった。声色から、彼がどんな人かわかるほど。
そのたった一言が、どれほど辛かったのか分かった。理不尽に命を奪われた挙句、ずっと囚われていた苦痛なんて、私には理解できない。そんな彼を加害者だと勘違いしていた自分が憎かった。
「情けなくなんて……ないですよ!」
つい反射的に言ってしまった。彼はきっと、ここから出られず成仏すらできなかった自分をそう呼んだのだろうが、それは違う。暁人さんも頷いた。
「あの女の執着心が異常だっただけであって、あなたに非は何もありません。死んだ後の力は、残念ながら腕力や気持ちだけではどうにもならない世界です。今まで誰からも気づかれず辛かったでしょう。やっと行きたい場所へ行けます」
『行きたい場所……』
「安心して眠れる時間が来る。解放されて思い切り伸びが出来る。それだけで、あなたにとっては大きな変化でしょう。大丈夫、あなたとあの女はここから去ったあとも、決して会うことはない。二人の行き先は全く別の場所なのですから」
暁人さんの言葉に、西雄さんは少しだけ微笑んだ。すると、徐々に彼の体に変化が訪れた。
血まみれだった体に、肌色が戻ってきたのだ。真っ赤な血が徐々に消えていく。痛々しく残った全身の刺し傷も、自然と治癒していく。
あまり見えなかった彼の顔がようやく見えた。
とても優しい顔をした青年だった。真面目そうで、柔らかい表情をしている。佳子さんとは全く違った、温かな人間性が分かる人だった。
ーーああ、本当はこんな顔をしていたんだ。
胸が締め付けられる思いだった。一方的に好意を持たれた挙句、刺し殺され、今までずっとここに閉じ込められていた。それでも彼は完全な悪霊になることなく、自分を保っていたのだ。
綺麗だ、とても。
「……本当はそんな優しい顔をしてらしたんですね。やっとあなたの顔が見えました」
私が涙ぐみながら言うと、彼は照れたように少し笑った。そんな西雄さんに暁人さんは近づき、黒い数珠を持ったまま手を合わせる。
「悔しいし無念な思いもあるでしょう。でも来世で必ず報われます。必ずです。それだけはあなたを救える」
じっと目を閉じ、祈るように手を合わせている。そして、西雄さんに向かって手を翳した。たったそれだけの動作が、とても美しく、尊いものだった。
西雄さんは眠るように、自然と目を閉じる。そして安らかな顔をしたまま、すっと音もなく消えていったのだ。
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