桜ひとひら

あかさ

第1話 桜ひとひら

若葉が風に揺らされ心地の良い音を奏でる。

 樹が立ち並ぶ道は青々と茂り、葉擦れの音が重なるようにして響き渡る。鳥たちのさえずりが豊かな緑の波に更なる賑わいを添えていた。

 一本の大木の上に腰かけ体よりも太い幹に背を預けたまま気持ちの良さそうな寝息を立てているのは、この地に住まう土地神の翠(スイ)である。涼しげな風と暖かな陽の光を浴びて腰まである漆黒の髪は艶を増し流れるように舞う。時折、うっすらと目を開けるが再び眠りに落ちていく。髪の色と同じ瞳は光を湛え少し目じりの下がった目元は優しげである。薄紫色の衣は絹のように軽くて柔らかく、風が撫でるたびに衣の裾をはためかせる。

 バサバサと羽音がし、全身を青く染め上げた二羽のオオルリが翠の眠る樹にとまり、翠の顔を覗き込んでいる。

「翠様、まだお昼寝中かしら」

 翠の膝の上に一羽のオオルリがとまり、しげしげと見ている。

「みたいだね。どうしたらそんなに寝ていられるのか教えてほしいよ」

 肩の上にもう一羽のオオルリがとまりさらりと言う。

「翠様のことだから寝ている間に村を見回りすることも可能で今はお忙しいのかもしれないわ」

「ただ寝ているだけにしか見えないって言ったらダメかな?」

「と、取り敢えず、お腹すいたし起こそうよ」

「そうだね。見回りしてきたから疲れちゃったよね」

 二羽のオオルリはわざと羽をばさばさと鳴らし、良く通る声で翠の耳元で騒ぐと、翠はぱちりと目を覚まし、二羽の姿を捉えるとにこりと微笑みおかえりと声をかけた。

「あまりに気持ちの良い風でついつい寝すぎてしまうね」

「いつも寝ている気がする」

さくっと突いてくるのは慈光である。物怖じしないので使えている翠に対しても口調が厳しくなってしまうところがある。

「わかるわかる。慈光ちゃんが行くよって言わなかったら私も一緒に寝ていたいもの」

 翠に同意するのは恵光である。おっとりとしており、のんびり屋なのでできれば翠と一緒に昼寝をしていたいと思っているのだが、慈光に言われて仕方なく後を着いていく毎日である。

青く美しい二羽のオオルリは土地神翠に使える神気を宿した鳥であり、翠のそばに常にいて

翠の補佐をする役割を担う。土地神の翠に代わって村の見回りから帰ってきたところだ。春の陽気に誘われて眠ることの多くなったこの季節は専ら見回り担当となっている。

 翠は手の平にお供え物の果物を乗せて二羽のオオルリに食べるように促した。途端に目を輝かせたオオルリは、美味しい美味しいと夢中になってついばみ始めた。

「今日も素晴らしい一日になるよ」

翠がそう呟くと、無我夢中で啄んでいた二羽のオオルリは顔を上げたが、翠は太陽の光を浴びながら輝いている樹の葉を眺めて微笑んでいるので、いつもと変わりない様子を確認して再びご飯に戻った。

翠と二羽のオオルリが住まうお社は、とても小さな村だが緑豊かで作物が良く実り、気候に恵まれている。数年に一度激しい雷雨に襲われる時期が訪れるが、それ以外にはさしたる問題もなく人々は長きに渡りこの地を耕し生きてきた。

 古くからあるお社は、立派とは言い難いが丁寧にやすりがかけられた木材を用いて組まれており、簡素な作りではあるがなかなかしっかりしたものである。季節の花々や作物をお供えする置き板もあり、お社の隣にはいつでも誰もが寛げるように長椅子も置かれていた。この土地に暮らす村人たちが、自然の恩恵を得られるよう、子々孫々の繁栄を願い造ったものである。

 人々の強い願いはやがて結晶化し、翠という土地神が生まれた。この土地に住むものたちの願いによって翠は誕生し、その願いに応えるように翠はこの土地を静かに優しく見守ってきた。

 翠は自然を愛し、そして何より人を愛していた。人の脈々と続く暖かな営みと永久に在ることが翠の願いであり喜びでもあった。

 人々の願いは翠の力の源となっており、信仰が厚ければ厚いほどに神力は増幅されていく。共に慕い、助け合うことで翠と村人との調和は保たれ、美しい愛情がそのまま形づくられていくように、繁栄していた。

 二羽は食事が済み、満足気に羽繕いをしていた時だった。

「うわーん!おとうさーん!どーこー」

 どこからともなく泣き声が聞こえてくる。ふいに翠は風を読み、声の主の気配を探り視線をお社の前を伸びる道の先へと走らせた。目をこらしてみてみると、よたよたと歩いてはしゃがみ歩いてはしゃがみを繰り返す小さな影が見えた。

人か獣かと不思議がって見ていると、幼い男の子の姿が目視できた。子供の顔には泣きじゃくった跡がいくつもあり、涙は堪えず流れ続け、ぐしゃぐしゃの顔をしている。どこから歩いてきたのか何度も転んだのであろう足は土埃があちこちについており、けんかに敗けた帰りだろうかという様である。翠は周りを見渡してみたが男の子の他に人影は無かった。

「ちょっと遊びに行こうか」

翠はそう言いながら手の上で啄みつづけているオオルリに声をかけ、一羽は人指し指に乗せ、もう一羽は肩に乗せ、ふわりと木の上から飛び立った。一羽のオオルリは顔を上げて翠を見上げつつ、そのまま大人しく翠の指に止まっていた。風の力に乗り男の子がしゃがみこんで俯いているところまで行くと、男の子の目元にオオルリをすっと差し入れた。

「‼」

男の子はいきなり現れた手と青い鳥に驚き、びくっと顔を上げてのけぞった。オオルリは小首をかしげながら愛嬌ある声でルルルルと囀って見せた。オオルリの囀りは良く響き綺麗な音程を作っている。一羽の歌声に合わせてもう一羽もルルルルと輪唱を始める。

突然湧いて出た翠とオオルリに驚いてはいたものの、驚きが流れ続けていた涙をぴたりと止まらせた。男の子は可愛らしく囀るオオルリをじっと見つめ続けていた。

「坊や、見かけない顔だね。どこから来た?」

にこりと微笑みながら問う翠に、男の子はあっちと家々が立ち並ぶ方向を指さした。

「ここ、どこ?おとうさんいなくなって、道わかんなくなって、おうちに帰れなくなって、おとうさんにおこられる……」

 男の子は親に怒られることを想像したのか、一度止まった涙を再びいっぱい溜めはじめた。どうやら親とはぐれて迷子になってしまったようだ。

「足痛くてもう歩けないよ」

 ぐずりながら地面にへたりこんでいる様子を見て、翠とオオルリは目くばせをすると、慈光はすっと翠から離れ村の方へと飛んでいった。

「心配いらないよ。まだ日が高いからここで休んでいるといい。この道は村と外と繋ぐ道。必ず誰かが通るから、それまで少し足を休ませようか」

 そう言って長椅子に男の子を座らせ、果物を手渡し食べるように促した。翠は男の子の足を擦り、頭を撫で、心が落ち着くようにと歌をうたって聞かせた。恵光もルルルと調子良く合いの手を入れると男の子は陽気に笑い始めた。迷子になっていたことなどすっかり忘れていたような笑顔を見せるようになった頃、慈光がふわりと翠の元へと帰ってきた。

 翠に耳打ちをするように慈光は見てきたことを知らせる。翠は再び風を読み人の気配を辿った。慈光の知らせ通り、もうすぐここのこの子の親が通りかかるようだ。

「さあ、坊やもうすぐ君のお父さんがここを通るよ。もう迷子になってはいけないよ。しっかり道を覚えてから冒険に出るようにしなさい」

 翠はあやす様に微笑みながら男の子の頭を撫でて言うと、男の子は急に俯きさみしそうな顔をした。どうしたことだろう、と不思議がるのは翠の方で顔を覗きこんで見たりした。

「お父さんが怖いのかい?心配しているだけだよ」

 父親の雷がよほど怖いのだろうかと、翠は撫でる手をぐいぐいと強めてみた。その時突然、

「あした!あしたもまた来る!」

 男の子は俯いていた顔をばっと上げて翠に大声で告げた。

「あしたも会いたい!一緒に遊ぼう!」

両目を見開いて驚いたのは翠だ。人の子から、明日も会いたいと言われたことなど、あっただろうか。そもそもこの子は私が人ではないと思っていないのだろう。説明するには若すぎて、怖がるだけかもしれない。この子の笑顔を消したくはないと少しの間思案し、ここはひとつこの話に乗ってみることにした。

「しっかり道を覚えたなら来るといい。私はいつもここにいるから」

 そう言いながら、翠は花が綻ぶような笑顔を見せた。

「うん!ぼく太一!おねえさんは?」

「私は翠。この子は慈光、この子は恵光。三人で待っているよ」

 二羽のオオルリもルルルと囀り、太一の周りをふわりふわりと飛び回って喜びを伝えているようだ。

その時、遠くから男の子を呼ぶ声が響いた。父親が太一を見つけたようだ。太一の耳にも父親の声が届き、振り向いて両手を振っている。

「気を付けておかえり」

そっとささやいた翠は太一の頭にかすかに触れるほどに手を乗せる。太一が翠の方に振り返った時には、翠の姿は無く、太一は周りをきょろきょろと伺って翠の姿を探していた。翠たちは音も無くいつもいる木の上に移動し、太一の様子を眺めていた。

太一は父親に大きなげんこつを貰い一度は大泣きをしたものの、すぐに泣き止み手を引かれながら家路に着いた。翠はその様子を笑いながら木の上で見ながらも、これで大丈夫と胸をなでおろした。

「でもさ、おねえさんじゃないよね」

 唐突に口を出したのは慈光だ。

「まあ、おにいさんでもないしね」

 ついでにと言わんばかりに訂正に入るのは恵光。

「二人とも、今の私の心地良さがわからぬはずもないだろうに。何故に余韻に浸らせてくれないのだろうね。ん?」

「「なんとなく」」

 慈光も恵光も声をはもらせるあたり他意はないらしい。

 翠は脱力しながらも再び木に寝転んだ。

「たまたま私は性別を持たなかった神。そして私を同じ人だと思っている太一にわざわざ説明する必要もなかろうよ。おねえさんね。それもまたいいではないか」

 翠はそう言い遠くの山に沈みゆく太陽を見つめていた。

「慈光も恵光も見てごらん。今日の夕陽はまた一段と素晴らしい。太一という面白い子にも会えたし、今日もとても素晴らしい一日になったね」

 翠と二羽のオオルリは、紫と朱が入り混じりながら暮れゆく空と色付く村々と見つめながら今日という日に感謝と祈りを捧げていた。

 これが、翠と太一の神と人の子との出会いだった。


「すいー!」

 翌日早々に太一は約束通り遊びにきた。

 しかし、このところ寝ることを生業としているような翠には、時間的に早すぎる来訪者であり春風の中で惰眠を貪っていたところだ。これはまずいと思った慈光は翠の頬を自慢の羽で容赦なくばしばしと叩く。恵光は時間稼ぎとして太一の前にふわりと舞い降り、ルルルと歓迎の歌を囀ってみせた。

「翠様!起きて下さい!」

慈光の叱咤は翠が目を覚ますまで大きくなる一方だ。

「翠様も忘れていたわけではないだろうけど、なにしろ今の陽気に翠様が勝てるわけもないんだよな」

 慈光はぶつくさといいながら手加減なしで翠を起こす。やがて慈光の舞い散った羽が翠の顔にひらりと落ちてきた。

「なにごと……?頬がとっても痛い……」

 頬をさすりながらぼんやりとしている翠は、慈光の更なる叱咤を受けることとなった。

「太一が来てますよ。早く起きてしっかりしてください」

 太一という単語が頭に浸透した瞬間、翠の脳は瞬時に覚醒した。瞬間的に身支度を整えるとお社の後ろに回り込む。

昨日見送った小さな背中と恵光がじゃれている姿がそこにあり、翠は思わず頬が緩み胸の奥がじわりと温かくなった。

「太一。おはよう。迷わず来られたね」

 優しい微笑みを浮かべながら、翠は太一の前に姿を現した。

「おはよう翠」

太一は翠に気が付いて翠に走り寄っていきおい良く抱き着いた。

「昨日ね何回もお父さんから教えてもらった。翠と約束したからね。ボク約束はちゃんと守ることにしてるんだよ」

 太一のまっすぐな眩しい笑顔を見て、翠は幸福すぎてくらりと立ちくらみを起こしかけた。

子供の純粋な好意というものに勝るものは無いのは知っていたが、太一の笑顔は天下一品だ。

 二羽のオオルリはひとまず役目を終えたとばかりにお社の屋根にとまり、羽繕いをしている。慈光は翠の緩み切った顔をみながらぼそりと呟く。

「翠様明日からのんびりなんてしていられないね。早起きしないといけなくなったね」

 恵光も続いて呟く。

「あの様子なら大丈夫でしょう。私たちの苦行のような日課がなくなることはいいことだわ」

 二羽の声は翠にはしっかりと聞こえていても、太一には囀っているようにしか聞こえない。二羽の呟きに、翠は大丈夫任せなさいと言わんばかりの満面の笑みで返事をする。その様子を見て二羽のオオルリは少しばかり溜息を吐いた。翠は太一と並んで座り話しかける。

「何をして遊ぼうか?」

「探検ごっこ!」

 太一は腕を力強く振り上げて、瞳を輝かせながら翠に元気よく言う。

「仰せのままに」

 翠は太一の意向を汲み取り、その日は探検ごっこに明け暮れた。それからというもの、太一は毎日のように翠のお社に来ては、山遊びをし、小川で遊び、翠から昔話を聞いたり、翠と太一と二羽のオオルリは友のように、親子のように長い時間を共に過ごし、思い出を重ねていった。

 しばらく経って村に馴染んできた様子の太一は自慢げに言った。

「このあたりの道はもうほとんど覚えたよ」

 翠は自信をつけ始めた太一の様子を頼もしく見つめた。

「それは良かった。でも、最初の時みたいに迷って泣いている姿を見られなくなるのはさみしいものだね。あれはあれでとってもかわいかったからね」

「いつまでも子供扱いして。翠のバカ」

 頬を膨らませてふてくされている太一がまた可愛らしくて翠は太一の頭を撫でまわす。太一も翠に撫でられることに慣れているので、されるがままだ。

「でも、迷子にはならないけど、ここに来る途中にある古い橋はちょっと怖いかな」

「ああ、あるね。あれは昔からなかなか作り替えて貰えない橋なんだ。あの川は増水してしまう時もあるから、危ない時には絶対に渡ってはいけないよ。わかったね」

「うん。そうする」

 太一は翠の言葉に素直に頷いた。

村とお社を繋ぐ道には古い橋がある。川幅は広く普段は水かさは浅く安全だが、豪雨の時には近隣の川から流れ出る水が合流し一気に増水する。その為時折洪水を起こしてしまう。橋は決壊してしまう恐れがあるのだが、作り直して貰えていないのが現状だ。

どうにかして直して貰うことはできないだろうかと、翠は悩んだ。誰かが不幸な目にあってからでは遅いのだ。未然に防ぐことが必須であることを伝えられたらいいのだが。

「あ!忘れるところだった!」

 突然、太一はリュックの中をあさりはじめた。中から取り出したのは、丁寧にハンカチに包まれたものだ。

「はい。翠にあげる」

「これは?」

「おばあ様に頼まれてたの。翠にあげてねって」

 翠は包みを開けてみると中にはおはぎがあった。それは毎月お社に供えられているものと全く同じもので、翠は驚きで声を詰まらせた。

「おはぎ!おはぎ!」

「翠様の大好物のおはぎ!」

 固まっている翠とは違ってはしゃいでいるのは慈光と恵光。

「おばあ様、足痛めちゃって今月は来られないです、ごめんなさいって」

 おはぎを作ってお供えに来てくれていたのは、この村に住む高齢の女性だった。毎月必ずお参りに来ては一時をここで過ごしてゆく。翠にとってとても大切な人だった。太一のように言葉を交わしたことは一度も無かったけれど、女性の一人語りを聞いているのが楽しくて翠は心待ちにしていたのだ。

「……そうか。太一はあの人の血縁だったんだね」

「うん!おばあ様とっても優しいから大好き。翠のことおばあ様にいっつもお話してるんだよ」

「私のことを?何て?」

「んー。お社に行くといつもきれいなおねえさんがいて、遊んでくれるって」

「そ、そうか。おばあ様ちょっと驚いていないかな?」

「ううん。そうだろう、そうだろうって言うよ」

「そ、それは物分かりがいいな」

 翠の脳天にじわりと痺れるような感覚が襲ってきた。

「翠様しどろもどろね」

「焦ってるね」

 慈光と恵光の突っ込みは翠を見事に直撃している。

「ちょっと黙っていなさいね」

 翠はにっこりと二羽のオオルリにひきつった笑顔を向ける。

「え?」

「あ、いや、なんでもないよ」

 小首を傾げながら、太一は言葉を続ける。

「でもね、翠のことはおばあ様にしか言ってないの。あ、お父さんとお母さんにもここにいることは言ってる。村の同じ年くらいの子には誰にも内緒!秘密にしてる!」

「それはどうして?」

「ボクには当たり前のことでも、皆には当たり前じゃないことがあるって教えられてるから」

「おばあ様にかい?」

「うん。あとお父さんとお母さんにも。ここに来る前に住んでいたところで、何も知らなくていろんなこと話してたらボク嫌われちゃって住めなくなって、いるとこなくなって、ここに来たから」

 太一の声はだんだんと小さくなっていき、表情は陰り俯いてしまった。

翠には太一の過去が容易に想像できた。普通の人が見えないものが見える。それは良い時もあれば、人に恐怖を与えることもある。図らずとも、他人に与えてしまう畏怖というものは、助長していくものだ。この小さな体はすでに辛く悲しい体験をして、その後ここに辿り着いたのだということも理解した。

「私は太一に出会えて幸せだよ」

 翠は太一の頭を優しく丁寧に撫でた。この言葉は真実。しかしこれだけで太一の傷が癒えるとは思えないが、伝えなくてはいけないと思った。

「太一がこの村に来てくれて嬉しいよ」

 太一が翠を見上げる。瞳には大粒の涙がいっぱい溜まっていた。

「泣きたいなら好きなだけ泣きなさい。ここには私しかいないから」

 翠は太一をそっと抱きしめる。小さな体に無数についた傷跡が消えるように癒えるようにと祈りを込めながら。

「うん。うん。翠は、人じゃないんでしょ?」

「そうだね。私はこの土地を守る神だよ」

「皆には見えてないよね」

「そうだね。太一のおばあ様はもしかしたら見えていたかもしれないけれど、話をしたことはなかったな。私とずっと静かな時を共有している。そんな人だった」

「おばあ様はね、翠を大切にしなさいって言うんだ。ボクのことも気持ち悪いって言わない」

「そうだね。そんな人だね」

「おばあ様だけなんだ。この力はボクの為になるって言うの。まだよくわかんないんだけど、そのうちわかる?」

「太一がずっと今のままの太一でいれば、自分も周りも助けていける力となる日が来るよ」

「今のまま?」

「そう。純粋で優しくて痛みを知ってなお強い太一のままってことだ」

「そっか。ボクがんばる。翠が言うならがんばれる」

 翠の腕の中で涙を流していた太一は次第に泣きやみ、涙でぐしゃぐしゃになった顔を袖で乱暴にぬぐった。そして、太陽のように眩しい笑顔を翠に向けた。この破壊的な笑顔が翠を再びくらりとさせたのは言う間でもない。

 翠の様子を見てすかさず、突っ込み役を買って出るのは慈光だ。

「翠様って子供に滅法弱いよね。見ていて恥ずかしいくらいに」

「昔から人好きではあるけど、太一は別格ってところかしら」

「俗に言う、ろりこんとか言うやつ?」

「やだっ。慈光ちゃんどこでそんな言葉覚えてきたの?」

「翠様に変わってパトロールしてるとこーゆーことも覚えてしまうんだよね。人間界って面白いよ。というか、恵光も知ってるんじゃないか」

「やあね。ちょっと小耳に挟んだだけよ。私そんなに俗世に浸りきってるわけじゃないもんっ」

「……よく言うよ。井戸端会議ってやつをしょっちゅう聞いているのは知ってるけどね」

「慈光ちゃんっていじわるよね」

「今頃改めて言うことでもなくない?」

「見てみぬふりをするってこと知らないのかしら」

「変なことしでかさないか見張ってただけだし」

「見張る?やめてよー」

 二羽はぎゃあぎゃあと口喧嘩を始めた。

「翠、今日はオオルリたちすっごい賑やかだね。なんてお喋りしてるの?」

 囀りにしか聞こえない太一はうるさいほどに鳴いている二羽のオオルリを見て呟いた。

「知らない方がいいこともあるよ」

 翠は二羽のオオルリに向かって珍しく睨みを効かせているようだ。二羽は翠の視線を感じ逃げるように木々の間を飛び周り、葉と葉の間に姿を隠した。それでもなお、二羽の攻防戦は続行中だ。

慈光と恵光も翠と同じく人間界の面白さを満喫している質なので、物珍しいものがあるとすぐに飛びついてしまう。その為俗物に染まってしまうことも多々あるのだ。楽しんでいるようだからいいかと容認していた翠だが、今回は少々嗜めた方がいいかもしれないと思った。

 それから幾日も月日は巡り、太一も年を重ねつつ、春も夏も秋も冬も翠と二羽のオオルリは太一と共に移ろいゆく時を過ごしていった。


 体がだるいな……。

 木の幹にもたれ掛かりながら、翠は手を陽にかざしてひらひらと動かしている。その表情に笑顔はなく、陰りが見て取れる。葉擦れの音は今も昔も変わりはなく、翠の耳に心地良い音階を届けている。自然が奏でる爽やかな音が少しだけ翠の不安を軽くしていた。

「今日もまた一人旅立って行ったか」

 呟きは風にさらわれてかき消される。天寿を全うした命が地上から離れるのは摂理だが、この頃は翠を熱く信仰していた者の死が続いていた。翠を求める者がいなくなってくるということは、力の源を失うことを意味している。故に体に力が入らない時が続いたり、深い眠りにつく時間が長くなったりと今までのように存在していることが出来なくなってきていた。

 ぼんやりと焦点の合わない双眸で空を仰いでいると、馴染んだ羽音が近づいてきた。

「翠様。調子どう?」

 心配そうに声をかけるのは恵光。

「パトロールはいつも通り問題なしだよ」

 しっかりものの慈光は報告を怠らない。

「ありがとう。すまないね」

 体制を立て直そうとするも、今日はいつもより体のだるさが強く出ていて動きが鈍い。僅かに息を吐き出して上体を起こし、予め用意していた果物を二羽に差し出す。

 二羽はそれを見てもすぐさま啄むことをしなかった。

「どうした。お食べ」

 恵光は小さな目を潤ませていた。

「翠様、体が薄くなっているよ。後ろが、木の枝が透けて見えるよ」

 恵光の言う通り、翠の体はところどころ透けている。隠そうにも二羽に隠せるはずもなく、翠は心配をかけまいとなだめる言葉をかけてあげることしかできなかった。

「今だけだよ。心配かけてすまないね。私は大丈夫だから。少し寝て休めばいつもの元気を取り戻せる。風邪をひいたようなものだよ」

「嘘だね。そんな嘘ボクたちに通用すると思わないでよ」

 慈光は翠を強く見返した。

「……。今日一人旅立ったのは知ってるね。さきほど挨拶に来られた。ありがとうって感謝を言い残して空へと上がっていった。お前たちもよく知っている人だったよ。思えば私を慕っていてくれている人達というのはほとんどが高齢になってしまっていて、天へ戻る時期は大体同じで。普遍的なものはないと分かってはいても、継承されないものの中に私も含まれているという事実を痛感しているよ」

「翠様この先どうなるの?消えちゃうの?」

「……わからないな。今すぐ消滅はしないけれど、求められなくなった時が私の最後だということは分かっている」

「翠様は人の想いが作った神様でしょう?どうして、どうしてそれを忘れちゃうの?」

 涙をはらはらと流しながら恵光は翠を問い詰める。

「悔しいよ。すっごい悔しいよ」

 苦渋の表情を浮かべる慈光は人に対する怒りすら持ち始めているようだ。

「仕方のないことなのだよ。時代は流れる。私を作り上げた者たちはとうの昔にこの地を去っている。それからもここにずっといられたことの方が奇跡なのかもしれない」

落ち込んでいる二羽を元気付けたくて、力の入らない体から声を絞りだしていた。この身に迫りくる悲しみを払拭することは容易ではなかった。鈍い重さがある腕を動かし、二羽を手のひらに乗せる。

「お前たちは私の同士だ。尊い命だ。例え私の最期がきてもお前たちのことは守るから。そうしたらこの地はお前たちが私の変わりに守っておくれ」

「っ……」

 恵光は大粒の涙を流し続けた。翠が何度拭ってもとめどなく溢れ出てきて翠の衣の袖を濡らしてしまうほどだった。慈光は泣くのをぐっとこらえている。そんな姿が愛おしく、翠は撫でる手を止めることはしなかった。

「人を、恨んではいけないよ」

「翠様は人を恨んだりしないの?」

 恵光が潤んだ瞳で翠に問いかける。

「私が人を愛していることを知っているだろうに。それは愚問だよ」

「……うん」

「お前たちも勿論愛おしい。だから、決して恨みを抱くようなことはしてはいけないよ。私の想いに寄り添ってくれることを期待しているからね」

「翠様がしないことをボクたちは絶対にしない」

「うん。しないよ。翠様」

「ありがとう。いい子だ」

 そう言って翠は瞳を閉じて二羽のオオルリを額に寄せた。柔らかで暖かな温もりがじんわりと気持ち良く、失いかけていた生命力がゆっくりと体内に巡っていくのを感じた。

 見慣れた四季の移ろいも、風の香も日輪の輝きもいつまでもここで見ていたい。そしてここで暮らす人々の営みの傍にいたい。翠の願いは昔も今も変わることは無かった。

 私の願いを、受け止めてくれる人がいたならば……。


 ある夏の日、地面を打ち付ける激しい雨音で翠は目を覚ました。雨が降り始めてから三日目となる。お社の前の道は辛うじて地肌が見えているだけの状態だ。

「今年もまたこの時期が来たか」

 一年を通じて過ごしやすい気候の土地ではあったが、雨季の長雨だけは毎年用心ならない。雨は勢いを増し、衰えることを知らないようだ。横殴りの風は社をも倒してしまいそうなほど強さを保っている。

「止みそうにない。これは危ないかもしれない」

 翠は慈光と恵光に声をかけるとすぐさま村中を駆け回った。翠が目にした光景は増水し決壊寸前の川、冠水した田畑、薙ぎ倒されている木々、浸水しかけている家々だった。川には流木がいくつも流れ折り重なり、岩にぶつかっては蓄積し始めていた。

 川にはお社と太一の家とをつなぐ橋が架かっている。その橋が決壊してしまう寸前のところまで水位は増してきていた。

「川が氾濫してしまったら……村は水没してしまう……」

 翠は茫然としていた。かつて無いほどの水量。これを止める力は今の自分には残されてはいない。どうしたらいい。何ができる。この地を守る者として何ができる。

 翠を混乱に陥れる雨は、無情にもさらに強さを増して行く。突風が木を薙ぎ倒す。折れた木はしなり、お社に向かって倒れてきた。

「‼」

 倒れこんできた木は小さなお社の上に直撃し、無残に破壊した。翠には長い時間のように思えたが、時間にして数秒のことだった。倒れてくる木を止める術がない翠は声を発することができず、目を見開き固まっているしか出来なかった。

「社が……」

 手が僅かに震えている。社は祈りの結晶でもあり、翠に残された力の最後の灯でもあった。その社が崩壊した今、翠に残されている力は微々たるものでしかなくなってしまった。茫然としている翠を慈光が大声で呼ぶ。

「翠様!太一がいる!」

 慈光の声を聞いた翠は慈光が示す方をばっと振り向き、信じられないという形相で見た。あろうことか、太一は氾濫寸前の川の橋に足を踏み入れようとしている。

「太一!やめなさい!とまりなさい!」

 翠の悲痛な叫びは豪雨の中にかき消されて太一の元には届かない。何度も叫んでも太一は前進しようとする。

「太一!渡ってはいけない!戻りなさい!」

 太一の元まで風にのって飛んで行けたら太一を救い出せるのに……。

 奥歯を噛み締め、伸ばしても届かない手を思い切り握った。翠にはその力すらすでに残っていなかった。この頃、翠を慕っていたのは太一しかおらず、太一の友情だけが翠の消滅を食い止めていたといっても過言ではない。

「ボク達が行く。何かできるかもしれないから」

 慈光と恵光は太一に向かって飛んで行った。二羽の声を聞きとれなくとも、目の前で普段と違う動きをしている様を見たら勘のいい太一のことだから、気づくかもしれないという一縷の望みにかけた。

 太一は二羽に気づき、そして橋の反対側にいる翠にも気づいた。ぶんぶんと手を振っている。

「太一!」

 翠は太一に向かって声を張る。

「危ないからここから離れなさい!家に帰りなさい!」

 雨音が邪魔をして二人の声は途切れ途切れになりながら互いに届く。

「すーいー。いっしょにー……」

 太一は何を言っている?

地面をけたたましく打ち付ける雨音と暴風が太一の声をさらっていく。太一が叫んでいるのは分かるのだが、何を言っているのかまでは分からない。その時、恵光が翠の元へと帰ってきた。

「翠様に、一緒に家に行こうって言ってるよ。橋が決壊したらお社も流されるかもしれないって家の人が言ってるのを聞いたみたいで。翠様を迎えに来たって言ってるよ」

「私を……迎えに……?」

 太一が手招きをしている。この豪雨の中、自分の為に一人でここまで来たのかと思うと胸が痛んだ。

「あのバカ……」

 翠の目にはうっすらと光るものが浮かんでいた。私の為に命を張る必要などないのに。吹き荒れる嵐の中、翠には太一が幸福の光を放っているように見えた。そこだけに光が集中しているかのような、その手を伸ばせば誰もが救われるかのようなそんな強さを感じていた。

 翠は、残された時間が無いことを自覚しつつも、太一の為に橋を渡った。あと少しで太一のところに辿り着くという時。

 ごおおっという凄まじい音が上流から近づいてきた。支流が決壊し寸でのところで留まっていた濁流が一気に押し寄せてきた。勢いと水量を増した川は支流に痞えていた流木を押し出し、翠が渡りきろうとしていた橋の支柱へ激しくぶつかった。その衝撃に加え流木が支柱を浚っていき、橋の支柱は傾き、折れ始めた。

「翠!」

 太一は翠へ駆け寄ろうとする。

「来るんじゃない!」

 翠は走り寄って、手を思い切り伸ばし勢いよく太一を突き飛ばした。

 これ以上はもたないだろう……。

 翠はその身に残る力すべてを放出する準備に入った。深く息を吸い込むと、翠の体は黄金の光で包まれていく。大気から、自然界の植物から、気を吸い込み始めた。

太一から少し離れた場所にふわりと漂い両手を広げる。

「翠……何してるの」

 しりもちをついている太一に向かって翠は目を細めて優しく微笑んだ。

「私の役目を果たすだけだよ。この地を守る。それが私に課せられた使命」

「翠?」

 翠から発せられる光は、川を覆い、徐々に広がりを見せ、太一の体をも覆い村全体を包むほどに拡大化していった。

「……太一、よく聞いて。雨が降るのは、大地を潤す他にも、この地に溜まった穢れを洗い流す意味もある。強すぎる時ほど、浄化が必要な時なんだよ」

「けがれ?」

 太一は翠が何故今こんなことを言うのかわからないまま聞いていた。

「私は沢山の人が被害に合うのは見たくない。けれど、自然の摂理が働かないと地球の痛みも癒えることはない。だから……」

「どんな災害に合ったとしても自然を嫌いにならないでおくれ……自然はいつもお前たちを守るから……」

 翠は言葉を発することも限界に達していた。最後に深い息をひとつ吐く。

「太一、幸せに」

 太一を見据えて翠は最後の言葉を振り絞った。刹那、翠の体から無数の光線が方々に散る。光は弧を描き、村の隅々まで旋回し続けた。眩しくて目を開けていられないほどの光線で、太一も思わず目をつぶってしまっていた。風圧ともいえるような圧が太一を襲う。

 翠は光の中で、ただ祈り続けていた。人々の未来、この村の存続、そして命を張って自分を迎えにきてくれた太一の命を。

 祈りは光として雨が止むまでの間村を包み続けていた。その光の中には翠の意識が溶けている。優しく穏やかで暖かな光線は、翠の想いそのものだった。光が消えていくと同時に翠も光の中へと消えていった。

 

カンカンカンと木槌を打ち付ける音が響く。ここはかつて翠のお社があった場所。一人の青年が額に汗を浮かべながら木材を組み合わせてお社を建て直そうと奮闘していた。調子良く打ち鳴らしていたが、しばらくしてゴン!と鈍い音がした。

「いってえ‼」

大声を上げてうずくまる青年。

「ちょっと、大丈夫?」

 恵光が慌てて声をかける。

「いつかやるとは思っていたよ」

 ほら見たことかと言わんばかりに当たり前のように言い放つのは慈光。

「一人でお社建てようって無謀だーとか思わない?」

「慈光ちゃん、悶えてる!今はそれどころじゃないわっ」

「ボクたちじゃお手伝いできないしさ。この頑固者にアドバイスをしてあげようかなって思っただけだよ」

「それはそうだけど私たちにも出来ることあるわ。がんばってーとか。しっかりーとか」

「声援だけでお社再建できないでしょ」

 慈光の言い分は現実的かつ的を射ている。ぎゃあぎゃあと二羽のオオルリは痛みで悶えている青年を置き去りにして口喧嘩を始めている。

「いいから。いいから。お前たちちょっと静かにしてな」

 煩いのと痛いのとでうずくまった青年は若干脱力しながら二羽の仲裁に入った。目には痛みからかうっすらと涙が滲んでしまっている。

「太一、少しやすも?」

 恵光は太一の肩にとまって休憩を促す。

「そうする。根詰めてもだめだし、時間かけてゆっくり作ることにする」

 太一は近くの木のたもとに腰を下ろした。

 慈光と恵光と会話している青年は成長した太一だ。翠が毎日いたお社の元に来ては一人黙々と造り直している。幼かった太一は、すらりと背が伸び、髪は無造作に短髪に切り揃えている。明るさを宿す瞳や、嬉々とした表情は昔のままの太一そのままだった。今現在は悶絶中により、若干苦い顔をいてはいるが。

「誰かの助けを借りてもいいと思うけど」

 分かりずらいが、慈光の言葉にはしっかりとした優しさがある。

「ううん。ここは俺だけで作り直すって決めてる。時間はいくらかかってもいいと思ってるんだ」

「……」

 慈光は太一を黙って見ている。言いたいことは百もあるような顔をしているが、太一はそれには気づかない。少し思案した後、太一を試すような言葉をかける。

「翠様は二度と現れないかもしれないよ。それでも、作り続けるの?」

「作る!翠は戻ってくるよ。絶対戻ってくるって信じてる」

 太一の言葉に迷いは一切無かった。

「それに、あの日から慈光とも恵光とも会話出来るようになったし。二羽とずっと一緒にいるとさ、翠がひょっこりその辺から出てくるかもって思ってるんだよね。翠に仕えていた鳥なんだから、翠だけ消滅しちゃうなんて変だよ。翠はきっと帰ってくる。絶対ここに帰ってくる」

 太一の熱弁を聞いて恵光ははらはらと涙を流していた。

「私もお手伝いするからね!何でも言ってね」

「そう言っていっつも巣作り用の小枝集めてくるだけじゃないか。太一すっごい困ってたよ。もう少し賢さを見せたらいいと思うよ」

「慈光ちゃんのばかー。私だって精一杯お手伝いしているつもりなんだからね。木槌で一回打って貰ったら少しは優しい口調になるんじゃないの」

「ボクの体はとってもデリケートなんだ。木槌で叩かれるなんてごめんだね。そして嘴は最たるもの。ボクの魅力が失われてしまうじゃないか」

「ちょっと減ったくらいが丁度いいと私は思うの」

「あーうるさいうるさい」

 太一が本音を漏らしても、慈光と恵光には全く聞こえてはいない。太一の悶絶によって一度は鎮静化した二羽の口喧嘩は再開のゴングを鳴らした。賑やかな二羽の言い合いにはとっくに慣れている太一は、そのままにさせておきながらお茶を飲んだ。

「随分昔、翠が知らない方がいいことがあるよって言ってたっけ。あの時もこんな風な感じだったのかな」

二羽の口喧嘩を聞きながら、ふと遠い昔の記憶が蘇ってきた。あの頃は二羽の話している内容は分からなかったから囀っているだけにしか聞こえていなかったけれど、聞こえるようになってからは人と同じように話し、人よりも物を知っている二羽に驚いたものだ。もっとも、翠と一緒に長い時間を過ごしてきたのなら、不思議なことではないのかもしれない。二羽がいるからこそ、翠を待つことを諦めきれない。この賑やかさがあるから、寂しさにさいなまれることもない。いいことばかりのように思えるが、いつもこの調子では煩いと思うこともある。

「確かに、知らない方がいいこともあるね、翠」

 太一は二羽に気づかれないようにこっそりと笑いを滲ませた。お茶をすすりながら、目の前に広がる景色を見つめる。収穫間近の稲穂の上を風を走り抜け、頭を垂れる稲穂が次々と波打つ。川では子供たちが数人集まり、何かを捕まえようと奮闘していて、賑やかな声が聞こえてくる。村はとてものどかで平和そのものだった。

 猛威を振るった台風が過ぎ去り、翠が姿を消してから早十年が経とうとしていた。翠の力によって川の氾濫は食い止められ、村は水没の危機を免れた。支流から溢れた水は一時は田畑を冠水させはしたものの、水が引いていくのにさほど時間はかからなかった。村では幸いなことに命を落とす者は無く、深い悲しみが尾を引くことはなかった。瓦礫や流木の撤去、橋の再建など、復興に時間はかかったが、人々は皆持ち前の強さと明るさを発揮し乗り越えた。

 太一は建設中のお社の両脇に二本の木を植えていた。まだ太一の背丈ほどしかないが、いずれ大木となる木だ。その幹に触れて太一は一人ごちる。

「翠が守ってくれた未来なのに、翠だけがここにいない。そんなのっておかしいよ。早く、戻ってきてよ翠。翠が懸命に守った村を翠に見て欲しいよ」

 新しく作られていくお社を沈みゆく朱色の夕陽が染めていく。太一の胸の中に宿る暖かな希望の光は、翠の源となる祈りの光と同等の純度を持っていた。

 

それから、一年、また一年と月日は静かに巡っていく。やがて春風が吹き始め、花々が我先にと色とりどりに咲き誇っては地上を彩り、土がふわりと暖かな温度を保つ季節が訪れた。

 夢うつつの中で声がする。名前を呼ぶ声がする。頬を撫でる風の香り、木々の葉擦れの音、鳥の囀り、大好きな桜の香り、何もかもが懐かしい。

 ここは…

「翠」

 隣にいる誰かに呼ばれる。けれど顔が見えない。桜の花びらが風に舞い、彼の人の顔をおぼろげにする。

「翠」

その声はどこか懐かしさを含んでいる。聞き覚えのあるような遠い記憶の淵にひっかかっているような感覚がもどかしい。手を伸ばしてもどうしても触れることが出来ないのは幻影なのか。霞みがかっている空間の中に絶えずあるのは、桜の花びらとこだまのような声。

 ……一体ここは……

「翠」

 何度も何度もその声は翠を呼ぶ。声の主を知りたくてその顔に触れたくて、翠は手を伸ばす。その手をかすめるのは、柔らかな風とさらりとした花びら。幾つも幾つも、、手の上に触れては舞い落ちる。翠は記憶に残る感触に似ていることを思い出し、まさかと思いながらゆっくりと瞼と開けた。

 視界の先にあったのは、霞がかった光景の中で見たものと等しく、満開の桜が舞う景色であり、翠は桜の木の上にいた。近くの木では野鳥が機嫌良く囀っている。おぼろげな意識の中で感じていたものは全て、翠の周りに存在していた。陽の光が翠の豊かな髪を艶やかに照らし、春風が翠の衣をはためかせる。

「ここは……?」

 ぼんやりとした頭は事態の処理に到底間に合わない。けれど、翠の瞳に映る景色は何もかもかつて翠が愛した村そのものだった。記憶に残る景色に加えて、更に家々が立ち並び、整備された場所もある。けれど、確かにここは長年翠が守り続けてきた土地の風景だった。

「……これは夢?」

 翠は周りを見渡してみた。桜の木のたもとには以前あったお社とは別のそれより一回りも二回りも大きくなったお社が建てられていた。真新しいそのお社には季節のものが供えられており、誰かがここに参拝に来て守り続けていることは見て明らかだった。翠がいる桜の木と向かい合うような形でお社を挟むような形でもう一本桜の木が植えられている。二本の木はお社に寄り添うように、守るようにそこで満開の桜の花を咲かせていた。

 新しいお社があり、村は活気付いて、美しさを取り戻している。どれだけの時間が経過してのかはわからないけれど、確実に時は流れている。翠はゆっくりと理解した。

「これは私が望んで見ているだけの都合のいい夢なのだな」

 村の未来をいつまでも見守りたいと思っていた。消滅してもなお私の願いは消えなかった。

「自分がこんなに未練がましいとは知らなかったな……」

 翠は自傷気味な笑みを浮かべる。こんなに美しい景観を見られて私の願いは果たされた。お社もある。ここにいる新しい神を慕うものもいる。私の役目はとうに終わっているではないか。

「これで、私の憂いも晴れたというものだ」

 もう少しだけここにいて見ていることは許されるだろうか。そう思いながら、翠は桜の木の上にゆったりと腰かけ花びらが舞って地上でたわむれている様を目を細めながら静かに見ていた。

 暖かな日差しを浴びて睡魔がこみ上げてきて眠りに吸い込まれそうになってきた時、

「翠!翠!」

 突然、下から大声で叫ばれて翠ははっと意識を引き戻した。

「翠だよね?翠……だよね?」

 聞き覚えの無い声だった。戸惑いが入り混じる声は僅かに震えている。あちらからはこちらが見えているらしいので、翠は声の主を探した。突如、

「翠だ!翠が戻ってきたーーーーー」

 鼓膜を震わすほどの音量で叫ぶので、翠は驚きのあまりバランスを崩し、木から落ちそうになる寸でのところで幹にしがみつき、何事かと木の上から恐る恐る絶叫がした下方を覗き込んだ。

「翠がいる。本物だ……。翠がいる……」

 何度も翠の名前を連呼するのは、はつらつとした表情のすらりとした青年だ。目からは今にも涙が溢れだしそうになっている。翠は一目で分かった。身長も伸びて、体格も大人そのものだったが表情には幼い太一の面影がそのまま残っている。加えて、翠のことを名指しできるのは太一以外に思い当たるはずもない。

「……太一……」

「そうだよ!お帰り翠!やっと翠が戻ってきたー!」

 太一の絶叫は収まらない。その声が聞こえたのか遠くから急ピッチで飛んでくる鳥がいる。

「翠様!本当に翠様だわ!」

「翠様!」

 翠の元にせわしなく飛んできたのは慈光と恵光。羽繕いの最中だったのか、羽が数枚乱れている。太一の雄たけびのような絶叫を聞いて慌てて飛んできたのだろう。

「夢じゃないよな?なあ、慈光、恵光、これって夢じゃないよな?」

 太一の声を聞いた慈光は太一の頬を羽でぱしりと叩く。これでもかこれでもかと何度もたたく。

「ボクの羽も痛い。夢じゃないってことだよね」

 恵光は翠の懐に真っ先に飛び込み、すでに泣いている。

「私も、夢だとばかり思っていた。でもこれは、夢じゃない……?」

「うん!翠!」

 太一は瞳を輝かせながら翠に向かって手を伸ばしている。翠その手にそっと触れてみると、確かにじんわりと温度があった。太一は翠をグイとひっぱると思いっきり抱きしめる。翠の体よりも大きい太一は翠をがっしりと固定する。きつく抱きしめられるほどに、太一の熱が翠に伝わり、翠もまた夢ではないことを実感した。

「本当に翠だあああああ」

 太一は堪えられなくなったのか、ついに号泣し始めた。翠は太一に思いきり抱きしめられながら、自身が存在していることをようやく実感した。太一の腕の中で初めてほっと安堵の息を吐く。そうして疑問に思っていたことをぽつりと呟く。

「私は消滅したはず……。なんで今またここにいられるのだろう」

 太一の成長した姿から、かなりの時間が経過しているのが見て取れる。消滅ではなく、眠りについていただけだというのだろうか。

「太一の執念が翠様を呼び戻したって言えば、だいたい正解かもしれないよ」

 慈光がさらりと言う。

「しゅ、執念?」

「そこのお社も、桜の木も、太一がずっとこつこつと造りあげてきたものだよ。翠様は絶対戻って来るって、それだけを信じて太一は諦めなかったんだ」

「太一……なんでそこまでして」

 太一は泣き濡れた顔をグイっと袖で拭って翠ににかっと笑顔を見せた。

「慈光と恵光から聞いた。翠は人の願いと祈りから生まれたって。だったら俺が翠に戻って来て欲しいって願い続けていたら、その願いに応えてくれる日がいつか来るって思ってた。ずっとね。十年以上も経つとは正直思っていなかったけどさ」

 そう言って太一は再び涙を浮かべながら笑っている。その笑顔は、純粋で強い意思を秘めた昔見たままの笑顔と全く変わっていなかった。

「太一は強いね。本当に強い」

 翠も太一につられるように笑ってはみたが、自然と涙が頬を伝っていくのを止められなかった。

「長い時間があった分、その間に出来たこともいっぱいあるよ。お社も建てられたし、桜の木も大きく育てることが出来た。これは全部俺から翠への贈り物。気に入ってくれたら嬉しいんだけど、どうかな」

 翠は太一の言葉に胸が締め付けられるように熱くなるのを感じた。幸せすぎて苦しいとはこんな気持ちなのかと初めての感情に戸惑う。翠の表情を不安そうに覗き込んでいる太一に気づき、改めてお社とそれを支えるように植えられた桜の木を愛おしそうに眺めた。

「これだけのことをして貰って喜ばないわけないだろう?嬉しいよ。凄く嬉しいよ。ありがとう太一」

 翠の言葉を聞いて太一は満足そうに満面の笑みを浮かべている。

 翠は手のひらを空へ伸ばす。そこに桜の花びらがひらりと舞い降りてきた。

「人の想いが、こんなにも強いものだとは知らなかった。太一にとても大切なことを教えて貰ったよ」

「翠様、執念だよ執念」

 慈光はどうしても茶々を入れたいようだ。慈光なりに喜んでいるのだろう。

「太一がいたから翠様にまた会えたわ」

 恵光は泣き止むことを知らないようだ。

「執念か。私は力を使い果たしあの時確かに消滅したはずだった。それ以外の方法を思いつかなかったから。別れを覚悟していたのに、こうして再会出来たのは、太一だけの想いではなく、私の想いもここに残っていたからなんだろうね」

「そうなら嬉しいよ。また会いたいと思っているのが俺だけだったら寂しいよ」

 太一は優しく微笑む。

「今も昔も俺の想いは変わってないよ。翠なら分かるよね?」

 翠の中には脈々と流れ続ける清流のような気があった。穢れなく、美しく透明な愛おしい想い。これは太一が抱き続けている感情なのだろう。

「うん。分かるよ。とても清々しく心地良い」

 翠はそっと胸に手を当てる。人と情を交わすことは今までも何度かあった。子供の頃だけ翠の姿を認識できる者や、大人になっても気配を感じ取る者など数人見送ってきたが、現実社会に身を置かない翠のような存在は、思い出として忘れ去られてしまうことの方が多い。自分が姿を消した後もまだなお、忘れずに信じ続けていてくれる太一のような人と出会ったことは無かった。

「お前は本当に不思議な子だね」

「ん?」

 翠は昔を思い出し太一の頭を撫でる。今では太一の方が背が高いので太一は少し屈んでみせた。

「私が二度と現れないとは考えなかったのかい」

「勿論、考える日もあったよ。でも、ここに来られない理由があったとしても神様なら何処か遠い場所からでもここは見ること出来るんじゃないのかなって思って。すぐに見つけられるように目印として桜の木を植えてみた。一緒に見ることが出来なかったとしても、翠が何処かで見てくれていたなら、それだけで俺は満足なんだよ」

「っ……」

「でも、今こうして並んで桜を見ている。毎年見てきたけど今日の桜が一番綺麗に見えるのは翠がいるからかな」

 太一は真っ直ぐに翠に素直な気持ちを向けてくる。幼い頃と変わらない。翠は嬉しさで胸がいっぱいになり、太一の優しさが切なくて涙がまた一つ零れ落ちた。

「……やっぱり、私は人を好きにならずにいられないよ」

 溢れ出る涙をそのままに、翠は太一に柔らかい微笑みを返した。春風が翠の薄紫色の着物をはためかせ、桜の花びらを舞わせる。着物にある金糸の刺繍が太陽の光を浴びてより一層輝く。翠の生命力は、太一の祈りによって吹き返した。太一と翠の間を春風がさらりと擦り抜ける。

 ふと、思い出したように太一は語り出した。

「それにさ、翠は俺にとってここに来て一番最初に出来た大切な友達で、その友達を信じて待ってただけなんだよ。翠はまた俺と友達でいてくれるよね?」

 太一は翠の顔を覗き込みながら少しはにかんだ笑顔で聞いてくる。その表情は、幼い頃の太一を思い出させた。翠は可愛すぎて少しばかりくらりと眩暈がした。

「も、勿論だよ。大切すぎて、もう、どうしたらいいのか、それがわからないほどだよ」

 翠の機微を見逃さなかった慈光はぽつりと呟く。

「翠様、ろりこんは卒業しなくちゃいけないからね」

「そうよね。一時はどうなることかと思っていたけれど、もう大丈夫よね」

「え?なにそれ」

「な、何でもないんだよ!この子たちの勝手な妄想だから」

 慌てる翠と、にやにやする二羽のオオルリ。

疑問符で頭がいっぱいの太一だったが、意を決して翠に向き直り長年温めてきた想いを告げる。

「俺ここをずっと守っていくから。そして伝え続けていくから。約束する」

 太一の決意は固く、それは翠の存在を保持する証ともいえる。翠に流れ続ける太一の熱意は途切れることはない。翠も太一を真っ直ぐに見つめ、大輪の花のような笑顔で答える。

「ありがとう。信じているよ」

「ボク達もいること忘れないでよね」

「私も私も」

人の子と神と二羽のオオルリは満開の桜の木の下で、永遠の誓いを交わした。


 それから後も、翠はこの地を守り、太一はお社と桜を守り、伝承していくよう村人へと働きかけ続けた。その努力が実り、お社は大社として名を馳せるまでになり、多くの参拝者が訪れる賑やかな場所へとなっていった。

 人々の営みをずっと近くで見続けていきたいという神は、人々に慈しまれ永久にこの地を潤し続けていった。

「さあ、今日も素晴らしい一日になるよ」

 翠のお気に入りの言葉は毎日繰り替えされる。それを聞いている慈光も恵光も調子よく囀る。そして、その傍らにはいつも太一の姿があった。







                                         

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桜ひとひら あかさ @majes

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