ネメシス
あかさ
第1話 ネメシス
この呪われた星に祝福を。
全身を貫く幾千、幾万の剣を取り払い、崩れ行く大地の哀しみを癒し、とめどなく流れ続ける嘆きの涙を御拭い下さい。
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骨の髄まで震撼させるような地響きが鳴り終わると、大地は低く唸るような咆哮を発した。大岩が大破する音が連輪したかと思うと、数秒後には蛇が這いずり回ったかのような亀裂が入り、底なしの溝が生まれ暗闇に支配された地中深くで分断された。
家屋は崩壊し、下敷きになる者、奈落の底へと落ちて行く者、成す術もなく震える者、悲鳴を上げては泣き続ける者、と瞬く間に大地は混乱に陥った。誰の目にも明らかに、死は一瞬先へと迫って来ていた。
地底に飲み込まれず、陸地に留まったものにすら、安堵の時を与えてはくれなかった。
地響きが静まったかと思った刹那、山頂からは噴煙が風爆し始めた。その合図を皮切りに、山々が長い眠りから目を覚まし、呼応するように怒号を上げ続けた。地底から突き上げてくる歌声は、大地の輪唱とも言える。其処に生命があることを人々に知らしめる調べは、やがて静かに風の中に身を隠したが、大地の怒りはこれで終わることは無かった。
山頂からは、大地の歌声に呼ばれ、紅蓮の大蛇が這い出でる。睨みを効かせつつ、人々の営みがあった場所を見定めてやろうかとでも言う様なそぶりで、這い回るようにその身を捩りながらゆっくりと進行していく。途中、風切りに会ったのか尾を切られたかのように、二股、三股、と枝別れし、地表に紅き印を刻んでいった。印は、道すがら気の向くままに炎を撒き散らす。そこに何があろうと、誰がいようと、お構いなしだった。地表は数多の紅蓮の大蛇によって浸食されていき、炎に包まれた。
地表を数多の大蛇が我が物顔で遊び尽くしているさなか、海底も動き始めた。
声なき声に呼ばれるように、海は肩を張り上げ陸地をなし崩しにするべく強靭な刃へと姿を変えた。幾度と無く大陸に乗り上げ、大波は次々と巻き込み、あらゆるものをいとも簡単に飲み込んだ。海水によって炎は消されゆくも、大蛇は怒り狂い、とぐろを巻いては地表を焼き尽くす。炎と水との臨戦は、この星に生きとし生けるものたちの存在を既に忘れ去るほどに巨大で、誰にも止めることは出来ないのだという自然の驚異を知らしめた。
やがて、陸地が海底に飲み込まれながら沈み始めたことから、大蛇の猛攻は衰退していった。炎は消え去り、陸地は海の中に沈み、海はゆっくりとゆっくりと時間をかけて、入念に地表のほぼ全域を飲み込んでいく。
僅かに生き残っていた者と聖職者は、この世で一番高い頂きに建造されていた神殿に避難していたが、波の脅威から逃れられるのは僅かな時間しかないという事を既に知っていた。他の大陸は既に地中深くに沈んでいるということも。
神殿の柱にも罅が走り、外周から天井が崩れ始めている。崩壊寸前の神殿の中心部に寄り集まり、人々は震え戦き、泣き叫び、間近に迫る死への恐怖に怯えていた。
この星の定めを予知していた聖職者たちは、神に、天に、星々に、この星の生命に加護を賜るべく祈り続けた。祈りと想いを歌に乗せて命尽き果てる瞬間まで歌い続けた。
美しい旋律は神殿の外へ響き渡り、祈りの文言を記したスコアに姿を変えて、遥か遠くの星々にまで届いたという。他の星々もまた、返歌の意を記す歌を贈った。しかし、そこにあったのは、滅びゆく星への加護ではなく、己の業を悔い改めよという諭しの文言だった。
聖職者たちは、各々思惟し涙し、ただ静かに瞳を閉じた。
何もかも遅すぎたのだ。いつの世も、いつの世代でも。一番大切な者を顧みなかった業に回帰の時が来たのだ。
回避できない終焉の時を迎え、残された者たちは、手と手を取り合い、笑顔を交わした。嘆きの祈りを胸に仕舞い、頬を伝う涙は恩赦となった。
いつしか歌はこの星への懺悔と感謝となり、友との再会を願う歌へと変調していった。静かに、穏やかに、歌は光と成りて、海底に沈んだ人々の心へも響き留まった。
崩落し始めた神殿の中の水位は上昇していった。一人、また一人と波の中へと沈んでいく。手と手を固く繋いでいても、力尽きた者から順に、海の中へと回帰していった。
重なり合う歌声も、次第に薄くなっていき、神殿の中から響く歌声も波にさらわれているようだった。
最後の一人となった聖職者は、手を天にかざし、波に身を攫われる瞬間まで歌い続けた。最後の旋律は波間から途切れ途切れに零れた。音の残滓が泡となって消えゆくのと、大波が大陸を覆い隠すのは、ほぼ同時だった。
人も、動植物も全ての生命が潰えた後、この星はある者の手によって粉砕された。
遠くの星々からは、消し飛んだ星の欠片が新しい銀河を構築したのが見て取れた。そして、多くの者が塵となった星の欠片に残る祈りの歌を聞いた。
この星に最後に在った言葉、それは……。
『親愛なる大地よ。愛しき豊潤な大地よ。心から懺悔を。そして、愛を今此処に―――――』
窓から差し込んでくる朝日に照らされ、心地の良い眠りから目を覚ます。
何か懐かしい夢を見ていたような気がするが、はっきりと思い出せるものではなく。ただ、誰かと親しげに話していたような気がする。内容は覚えていないけれど、とても大切な誰かと。
今にも薄れゆく朧気な記憶を手繰り寄せて、思い返せるのは頬をくすぐる風と真白の光。
眩く、そして柔らかな光の温情。陽気な鳥の囀りが遠い日の光景を繋ぎ止めた。
ふっと脳裏に一人の存在が鮮明に過り、思わず口元から自然に笑みが零れる。
「あいつか……」
窓の外に視線を向けながら、もう長いこと会っていない旧友の面影を硝子越しに描き出す。ひとつ息を吐くと、ストラーは大きく伸びをして、まだ温もりが残るベッドから抜け出した。
肩に付く程度のシルバーの髪を手串で整えた程度にして、白いシャツをラフに着てダークグレーのスラックスを履く。至ってシンプルな恰好だ。装うということに関しては無頓着とも言える。
ストラーは重厚なマホガニー色の机の引き出しを開け、片手に乗るほどの大きさの箱を取り出す。蓋を開けると、中には厚みのある濃紺のベルベットの布が敷かれており、その上には一つの輝石が置かれていた。
一体、いつぶりの再会だろうか。記憶に残る形そのままに静かに眠る輝石。ストラーは丁寧に輝石を取り出す。箱の中では無色透明だが、光にかざすと光を取り込み角度を変えては様々な色を見せてくれる。不思議な輝きを放つ輝石だ。
「久しぶりだな。傷はもうほとんど無さそうだ。歪みも無く凹凸も無い。滑らかな手触りだ。だいぶ回復したようだな」
返事が無いことを知っていながらも、ストラーは輝石を丁寧に箱から取り出すと陽光にかざした。
「お前、俺を呼んだか?」
何度も角度を変えて状態を確認する様は、まるで表情を伺うかのように輝きから具合を図っているようだ。暫くの間、輝石の様子を確認した後、元あった箱の中に静かに戻して、出窓になっている窓辺に置いた。昇り始めたばかりの柔らかな陽光は、箱の中の輝石に光を落とし、そっと指先で触れながら温めているかのようだ。
「今日はいい天気だ。ずっと箱の中に居るのも飽きただろう。窓辺に置いておいてやるよ」
ストラーは輝石に向かって話かけながら、窓を少しだけ開けて外の風を室内に取り込んだ。春風が流れ込み、薄手のカーテンが軽やかに翻る。
「今は季節で言ったら春だ。外には花が咲いて風に揺れている。鳥たちはいつも無邪気すぎる位に囀っている。今は子育てに忙しいみたいで、親鳥は餌をねだられるのに困り果てながら飛んでいるよ。あいつらの胃袋、底なしかもしれないぞ。他には、そうだな、俺は相変わらずお前に見せる絵を描き続けている。随分溜ったよ。後でじっくりと見せてやるからな」
出窓に浅く腰かけると、心地よい風がそよぎ髪を撫でる。
「今日はいい風が吹いている。開けておくから、少し風に当たるといい」
朝日の良く入るストラーの寝室兼、書斎はマホガニーの家具で統一されており、落ち着いた雰囲気がある。壁一面には本棚が括り付けてあり、上から下までぎっしりと本が並べられている。近隣の星にある特殊な内容の本だ。星により文化も趣向も異なるので、時折探索ついでに集めていたらいつの間にか膨大な量になっていた。が、しかし数ある本よりも書斎の中で一番面積を占めているのが絵画に関するものである。
部屋の中も、使い古された愛用の画材道具が所狭しと並んでおり、足の踏み場も無いほどにスケッチブックの山がいくつも築かれている。いつ倒れてもおかしくない微妙なバランスだ。本棚が無い壁にはストラーが描いた絵が鋲で無造作に飾られている。
風景、人物、植物、動物、昆虫、建造物、乗り物、天体、ありとあらゆるものが描かれている。過去、とある天体に存在していた風景や、脈々と受け継がれてきた命の灯がその部屋に集約されていた。
床に視線を落とすと、開きっぱなしになっているスケッチブックがあった。乱雑な部屋にしたのは自分であり、普段なら居心地の良さすら感じているはずが、他の誰かの気配を意識すると何故か溜息が出てしまうものだ。拾い上げて本棚に突っ込む。
丁度その時、トントンと扉をノックする音がした。扉を開けたのは同居中の少女エリス。大きなエメラルド色の瞳がストラーに笑顔を向けている。緩やかな金色の巻き毛が少女の動きに合わせて肩の上で揺れる。
「ストラー、おはよう。朝ごはんの支度できたの。食べよ?」
「おはよう。ありがとうエリス」
ストラーの乱雑な部屋の床に視線を落とすもエリスは何も言わずに、爽やかな朝の挨拶をストラーによこす。
エリスの頭を撫でながら自室を後にする間際、窓辺にある輝石に視線を一度だけ向けて、物言わず静かに眠る様子を留め置きながら扉を閉めた。
朝日が差し込む暖かな部屋に入ると、テーブルには出来たてのパンケーキが有り、ほかほかと湯気を上げていた。黄金色で焼き目も申し分ない理想系。昨日ストラーが作り方を教えたばかりだ。
「初日からこの出来栄えとは!さすがだな!うん。味も申し分ない。すっごく美味しいよ」
ストラーは満面の笑みを浮かべながら次々と口元へと運んでいく。
「良かった。どうしても火加減が上手くいかなくて材料沢山使っちゃった」
ごめんなさい、と小さく謝るエリスの視線は流しに向けられている。見ると、焦げたパンケーキが山となっていた。
「あ、ああ、あれくらいどうってことないさ。最後に上手くできたんならそれでいいよ」
「うん。もうね、出来ないって分かったから、私の得意な方法を使ったの」
「え?」
「こうするのよ」
エリスは目を伏せて、右手の人差し指をくるりと回しながら短い歌を奏で始めた。音が空気中を電波すると、答えるように光が指先に集約した。瞬間、エリスが指を弾くと同時にストラーのお皿の上に出来立てのパンケーキが積み重なった。
「……」
ストラーは呆気に取られて、口に放り込んでいた欠片をテーブルに落とした。
「ね、こうすると無駄も無いし、綺麗にできるし、美味しいわ」
それはその通りだ。その通り、だが。
ストラーは大きく溜息を付くと、エリスに少しばかりきつい視線を投げかけた。
「それはしないって約束だったろう。昨日作り方を教えた意味も無いし、その力はそうやって使うものじゃないって説明しただろう」
「そうだけど。こんなに簡単に出来るのに、時間がかかるし、火は怖い。とてもステキな方法があるのに、何故使っちゃいけないのかが私には分からないわ」
「今は、その力を使う時ではないからだよ」
「便利よ?それに私にはこれしかできないわ。火を扱うのもナイフを持つのも怖いの。歌と光さえあれば何でもすぐ出せるのに、ダメなの?」
「まあ、確かにそうなんだが……」
困り顔のエリスを見ていると、昨日教え込んだ料理の数々がパフォーマンスに思えてきた。段取りを教えたつもりが、エリスには手品か何かに見えていたのかもしれない。人間に教えるのとは違うのだ、ということをストラーは痛感し項垂れた。
「料理は、いいことにしよう。俺が気が向いたら作る。エリスは簡単な手伝いしてくれたらいいから」
「そう?分かった」
そもそも必要のないものだし……ということは伏せた。
エリスはつい先日作り上げた生命体だ。空間に存在する光を集めることが出来る。光の集め方も歌も細胞内に書き込んである。本能的にどれを使うのかが分かるらしいが、緻密な情報をインプットされていない、いわば試作品であり、何処で使うのか、何に使うのかまでは判別できないようだ。作り上げたストラー自身すら未知数の段階であることを、本人にはまだ伝えられずにいる。
「エリスはいつも通り、遊びながら歌ってみるといいよ」
明るい声音で伝えると、エリスはにっこりと笑顔を返してくれた。
太陽が昇っていくに伴い、部屋に差し込んでくる光量も増してくる。
ストラーは少し眩し気に目を細め、窓から差し込む太陽の日差しを見つめながら食事を再開した。
ふいに、エリスは思い出したようにストラーを見やる。
「さっき誰かとお話してた?」
「ん?」
「呼びに行く前に、ストラーが誰かとお話しているような声が聞こえてきたけれど、気のせいだったかしら」
「ん?あ?ああ!そうだった」
つい先ほどのことでありながら、すっかり頭から抜けていた事を思い出す。
「友達と話してたんだ。と言っても、石だから返事も返ってこなくて俺が一方的に話かけていただだったな」
「石?」
苦笑しながらも、ストラーの口元からは笑みが零れる。小首を傾げながらエリスは意味不明という表情を張り付けている。
「紹介するよ。俺の親友を」
ストラーは静かに立ち上がり、エリスに手を差し伸べて手を取り、自室へと歩みを進める。
「石なのよね?」
ストラーの後に続きながらもエリスの頭は疑問符で溢れているようだ。
「そうだよ。宇宙一綺麗な輝石だよ」
「ストラーって変なの」
「ああ、それ。昔良く言われてた」
くつくつと笑いながら、ストラーは自室の扉を開けて輝石を置いておいた窓辺へと視線を向けた。直後、ストラーは目を見開き息を詰める。
「っ……」
出窓に在るはずの物が無く、居るはずのない者が其処に居た。
驚きの余り、ストラーの足はその場で硬直して動き出せなくなった。
そよぐ春風が揺らすのは、薄布のカーテンだけではなく、出窓に腰かけて眠っている者の流れるように長い白銀の髪。舟を漕ぐ度にサラサラと肩から流れ落ち、陽の光を受けて風にたなびく様は銀糸のように美しい。陽光が降り注ぐと更に輝き透明度を増して行く。白い長衣を纏い肩にかけられた薄青の布が風に揺れる。首や耳元、額にはゴールドの装飾を身に付けており、透明な静けさの中に華やかさを添えている。
「ストラー?」
入口で足を止めたままのストラーを訝しがり、後ろに居たエリスがストラーの服を引く。
「あ、ああ」
一瞬エリスを見やるも、早まっていく鼓動を抑えられない。
ついさっき出窓に置いたのは、たった一つの輝石だった。今は、ストラーと同じ人型を取った姿の者が其処に居て眠っている。
出窓へと近づき、其処で眠る者の様子を伺った。絹のように軽く白い長衣はストラーの記憶にある姿のままで。袖から伸びる細腕は白磁器のように滑らかさがあり、触れると壊してしまいそうな脆さがある。
ストラーはその指先に手を添えて熱を感じ、両手で包み込んだ。手の平から腕へと視線を動かし、傷が無いかを確かめる。
白銀の髪に隠されてしまっている顔を、髪を避けて露わにする。色白で少し面長な頬には、ほんのりと赤みが指していた。頬に触れるとしっとりとしていてきめ細やかさも元通りになっていた。
「ん……」
ストラーが頬に触れていると、その感触に気づいたのか、閉じられていた双眸が静かに開かれた。長い睫毛の奥の瞳は穏やかな春の空を思い出させる淡い青。
思考が働かないようでぼんやりと目の前に立つストラーを見ている。
「アルマ、分かるか?」
僅かに震える声音を隠し静かに問う。
「………………ストラー……?」
「ああ、そうだよ」
窓辺に居たアルマは、目を細めると、口元に笑みを浮かべながらストラーに両手を差し出す。目覚めたばかりで動力が鈍い四肢はバランスを崩し、慌ててストラーが抱き止めた。
アルマはそのままストラーの首に両腕を絡め、安堵の声を漏らした。
「……会えた。また、会えたね」
そう言うのが精一杯という様子で、全身を使って呼吸を繰り返している。傷は無くとも、まだ全快している訳ではないことを、抱きしめている細い体の脈打つ鼓動から感じ取る。
ストラーは胸の奥底から溢れる想いが込み上げてきて、アルマを更にきつく抱きしめた。
「俺も……。もう、会えないと思っていたよ」
鼓動も、呼吸も、その声も体も、遠い遠いはるか昔に置いてきたものだった。
破壊という結末の中で、引き裂かれた別れだった。
「痛いよ、ストラー」
言われてストラーは、慌てて細い体を腕の中から解放する。
「悪い。つい嬉しくて、信じられなくて、思いっきりいった。折れてないよな?」
アルマはストラーの頬に手を軽く添え微笑んだ。しなやかな動きは絹擦れの音を響かせ、窓から吹き込む風が衣を優雅になびかせた。纏う空気さえも喜び祝福を受けているように光輝く。
アルマの放つ命の眩しさに、ストラーは一瞬、目を細めてしまう。
「大丈夫だよ。そんなに脆くない。夢じゃないことがはっきり分かったよ。ずっと長い夢を見ていたから。いつ覚めるのだろうってそれだけ思ってた。でも、漸く覚めて、またストラーに会えた」
アルマはそっと視線を窓の外へと向けた。
「夢の中で風が吹く方に向かって歩いていたら、此処に居たよ。風に呼ばれたと思ってた」
「俺の夢の中ではお前が俺を呼んでいたよ。お前が俺を、俺がお前を、同時に呼んでいたみたいだな」
「そうか。そういうことか」
アルマは得心がいった風に深く頷きながら、居を正し、一つ息を吐くと視線を奥へとやった。一瞬目を瞠ると、淡い青の瞳は細められ、静謐な声音が地から響く。
「……なるほど。ストラーは寂しさのあまり、女性を囲っている、と」
「は?」
アルマの口から出た妙に現実的な言葉に、感動の再会の空気が突如霧散した。アルマの視線の先を伺うと、其処に居たのはエリス。なるほど、とストラーは苦笑した。
「アルマ、寝起きでまだ冴えてないかもしれないけれど、じっくり観察してみるといいよ。すぐに分かるから」
アルマはストラーの言う通りに眠っていた細胞を起動し始めた。訝しがるように細められたアルマの瞳が、徐々に大きく見開かれ光が宿り始める。暫くして。
「この子は……光の粒子の結晶体じゃないか。人型を取っているから惑わされた。人間の臓器はひとつもないのに、人間そのものに見えるのは表面的な「写し」を施しているのか。全てが光だけで構築されている。とても暖かそうだ。触れてみたいな」
アルマはエリスに向かって手を差し伸べた。ストラーはアルマの手を補佐するように手を添えると、一言付け加える。
「正確には光と歌、だな」
「歌?」
「そう、そういう新種だ。エリス、アルマに挨拶を」
「ええ」
エリスはアルマに近づき、軽く腰を下ろして丁寧に挨拶をした。
「初めまして。私はエリスです。どうぞ宜しくお願い致しますね。詳しい事は分かりませんが、お二人の再会と私たちの出会いに歌をうたいましょうか?」
「エリス、今はいいよ」
ストラー苦笑した。いつでもすぐに歌いたがるエリスのデータの書き換えは早急にしなければ、と頭に書き止める。
アルマが差し伸べた手をエリスが取る。アルマが触れた箇所が発光し、光の粒が空気中に浮遊し、部屋の中の光量が少しずつ増して行く。
「エリス、解放してもいいぞ」
ストラーの一言で、エリスはホールドを解除する。体の周りに小さな光が無数に表れ始め、エリスを囲むようにふわりふわりと浮かんでいる。エリスが吐息を吹きかけると、光は意思を持つように、くるりと周り出し、エリスとアルマを囲むように周回し始めた。
「すごいな。光を放出しても、この子の光は全く減少しないようだ。寧ろ、使えば使うほどに光量が増加していく。枯渇することのない光。まるで太陽のようだ」
「いいね。冴えてる。太陽がある限り、エリスの光は無限だ。太陽光を拝借して作り上げたからね。放出することで、新しい光を取り込める。循環型の新型だよ」
発光し続けるエリスの体は透過されていき、アルマが腕をなでると、そこに無数のコードが浮かびあがりスコアが描かれているのが見えた。その数は有に千は超えている。コードの数だけエリスの中には歌が記憶されている。人間でいう血管よりも細いコードが全身を埋め尽くしていた。
「なるほど、歌というのが此れだね」
「面白いだろう。俺も良く考えたなとは思ったんだ。まだ書き換えは必要だけどな」
「確かに面白い。それに、温かい」
アルマはエリスを抱きしめると、頬を緩めてその温もりに身を委ねている。
「エリス、そろそろ終わりにしよう。ホールド」
「ええ」
発光を収めてもなお、エリスの体からは光の残滓が漂っている。アルマは残念そうな顔をしたものの、エリスの温かさが気に入ったのか、腕を緩めない。エリスも嫌がってはおらず、笑いながらされるがままになっている。
ご機嫌なアルマをストラーは心配気な表情で伺っていた。
かつて、アルマは全身が壊されるほどの苦痛を負った。正気を保てなくなるほどに。
眠りに着く前の状態は酷いものだった。
ひとつひとつの傷が、親友がその身に直に受けている痛みだと分かっていたから。
外傷は癒えているのは確認できたが、心の傷は如何程だろうかだと不安が募る。
笑顔を見せるアルマを見ていても、時折眠りにつく前の痛々しい状態の輝石の姿が脳裏を過る。ストラーは過去を振り払うべく、恐る恐る聞いてみる。
「体の傷はどうだ?外傷は見当たらないが、中身の方にまだ損傷が残ってはいないか?体はどのくらい動かせる?」
自然と語尾が消え入りそうになってしまった。ストラーの心配とはうらはらに聞こえてきたのは含み笑い。
「ふっ」
「ふ?」
エリスの首元に埋めていた顔をあげたアルマは、肩を上下させながらくつくと笑い出した。
「相変わらず、というか全く変わらなくてなんか妙に安心してしまったよ。今はまだ動きが鈍いけれど、意識良好、そしてとても機嫌が良い。目覚めたら見慣れた顔と、可愛い子が居て、存分幸せな方かと思うよ。ストラーが心配するのも無理はないと思うけど、もう大丈夫。回復したからこそ、今此処にいるんじゃないか」
「……」
一遍の陰りのない、花が綻ぶような笑顔を見せるアルマだったが、ストラーは冴えない表情を浮かべたままだった。
お前の心は今どこにある。過去に、捕らわれ続けてはいないだろうか、と聞こうとするも、言えずに口をつぐむ。癒す術は時間しかないと思っていた。星を浄化しきれなかったが為にお前を襲った恐慌、悲痛、嘆きが今もお前を脅かしてはいないかと危惧してしまう。
口を閉ざしたままのストラーにアルマは静かに問う。
「……私はどれだけ眠っていた?」
ストラーは、一瞬アルマと視線を交わすも、すぐさま上方へと受け流し遠い彼方を見つめながら呟いた。
「……百億年位かな」
「そんなに経っていたのか。そうか。なるほど。その間、ストラーは深く深く思い悩み、思い詰め、自責の念に駆られ、何度となく自暴自棄になっていた、としても可笑しくはないね」
「そ、そんなことは……」
無かったとは言えず、隠していたはずの心内を見透かされ、居心地悪く俯いたまま拳を強く握る。視線を落とした床には、以前うっかり落としてしまった顔彩を拭いた時についてしまった染みがまだらに残っていた。拭いきれなかった汚れと焦点が合ってしまい、ストラーは苦々しい思いで眉間に皺を寄せた。
刹那、外の光が、ストラーの顔を照らし、優しい調べに似た声音が響いた。
「側に居てあげられなくてごめんね」
ストラーは、はっとして顔を上げると、アルマは微笑みを絶やさずに真っ直ぐにストラーを見つめていた。真摯な眼差しはストラーの奥深くにまで入り込んでくる。
「最後の時、私たちは痛みを別ち合った。どちらか一方だけが負った痛みなんて無い。常に平等だった。違う?」
違わないなど、簡単に言えるわけもなく、押し黙ってしまう他無かった。アルマに真っ直ぐに見据えられるとどうしていいのか分からなくなり、曖昧な表情を悟られたくなくて再び俯いた。
暖かな春風が滑らかに流れ込み、アルマの白銀の長い髪を舞い上げる。アルマはエリスに支えて貰いながら窓辺から降りた。小さな子供に語り掛けるように、静かに言葉を紡いでいく。
「私だけが眠りにつき、護られた。私はいつもストラーを護れないでいる。一刻も早くストラーの元へ行きたかったけれど、意識を取り戻すのに思いの他時間が掛かりすぎてしまった。ストラーの苦しみは、いつもいつも感じていたんだ。動けなくて、声を掛けられなくて、手を伸ばそうにも動いてくれなくて。やっと伸ばした手の先にはストラーはいなくて、とてももどかしかったよ。私が此処にいる間中、ストラーは一人なのかと思うと心が痛んだ。早く、側に行きたかった」
アルマの手がストラーの頬に触れる。アルマの涼やかな声が春風に溶け、温もりを帯びた光を放つ。
「側にいてあげられなくてごめん。もう離れないから」
思いがけない言葉にストラーは顔を上げ、目を見張った。
深く暖かな眼差しのアルマは、春の木漏れ日のような温かさでストラーの心の闇を癒し始めていた。その微笑みだけで、胸の奥に光が差し込み、固く閉ざされていた扉が静かに開いていくようだった。強張っていたストラーの頬に、一筋の雫が伝い落ちた。
「っ……」
アルマが超えてきた苦痛を思い返すと、この言葉を受けるほどの価値など自分には無いように思える。
平等だったと言うアルマに、同意し頷き返すことなど出来るはずもないのに、救われたような錯覚を起こしそうだ。
俺より遥かに強くて優しい。昔からそうだったけれど、今はより強く感じる。
窓の外から吹き込む風が、草原で楽し気に揺れている花々の歌声を運んできた。
ストラーは外に視線を向けると、もう一人の待ち人が様子を伺っていることに気づいて苦笑した。
「アルマ、外に行こうか。楡の木もお前をずっと待っていたんだ」
楡の木、という言葉を聞いたアルマは、一瞬目を見開くと、外に視線を流し相合を崩し大きく頷いた。
エリスと共にアルマを両脇から支えながら、家の外に出る。
草原の中に佇む楡の木と久しぶりに対面し、アルマは瞳に涙を浮かべながら幹に抱き着いた。俺と、アルマと、楡の木は、創造の瞬間から共にあった。楡の木はアルマの宿り木であり精神体が繋がっていた。楡の木は星の中心部に位置しており、地中にある楡の木の根は星の隅々にまで行き渡るほどに長く、根はアルマの本体である輝石を守護するガーディアンとしての役割を担っていた。
楡の木は星全体のエネルギー供給の支柱となり、楡の木の中でアルマは黄金色の光を放ち、エネルギー循環を促し、周りに点在する惑星との相互バランスを取っていた。
根を通して地脈から流れ込むものは、全てアルマへ流れ込む。あらゆる情報、感情、星の情勢の動きから、何もかも余すことなくアルマの元に届けられた。それを拾い、星を創造、改変していくのがストラーの仕事だった。
ある日から、中心部にあったアルマが取り除かれ、楡の木はガーディアンとしての使命を果たせぬまま、ストラーと同じ月日を過ごしてきた。
アルマの横に並び、ストラーも楡の木に手を触れた。
「漸く、アルマが目覚めたよ」
百億年ぶりの半身との再会。
仰ぎ見ると、生い茂る葉から木漏れ日が指し込み、ストラーの顔に葉の陰影を描き出した。風に揺らされた葉から金色の光が降り注いでくる。楡の木最上の喜びの色だ。
広い草原には、ストラーとエリスが住んでいた住居の他に、建物らしきものはひとつもない。あるのは、この楡の木と手つかずの自然が何処までも広がる広陵な大地だけだった。
「この木には膨大な記憶が残っているのね」
幹に触れていたエリスが驚いたように息を詰めている。見開いた瞳には数字の羅列が駆け巡り、細い腕は発光しながら無数の色彩のコードが帯状に流れ続けていた。
「記憶を読み取っているのか?」
「ええ。けれど、とても多すぎて重すぎるわ」
「エリス、今のお前の体で統べてを読み取るには負荷が掛かり過ぎるから程々にしておいたほうがいい。この楡の木には星一個分の情報が記憶されている。それを一気に取り込んだら倒れてしまうぞ。その辺りでやめておいた方がいい」
エリスは頷くと楡の木から手を離し、脱力したかのように足元から崩れるように座り込んだ。若干息が上がっているようだから、僅かの間でもかなり深く記憶の中に潜ったのだろう。エリスは息を整えながら小首を傾げて不思議そうな顔をした。
「視えたのは、ここの記憶ではないわよね。見た事のない景色だったの。それに、こことのエネルギーが全く違うわ」
ストラーはエリスの能力に感嘆しつつ、微笑みながらエリスの頭を撫でた。
「大正解だよ。エリスが視たのは、此処ではない星での記憶だよ。その星の中心部にこの楡の木が在って、星の隅々にまで根を張っていたから、星全体の記憶を保有している。俺もアルマもいつもそこに居たんだ。俺たちは共同して星を創造していた」
「その場面も視えたわ。いつもストラーが作り出すものにアルマが顔をしかめていたの、面白かった」
「そうだろう。そうだろう。この姫はなかなかGOサインをくれないんだ」
うんうんと頷くストラーに、アルマがすかさず割って入る。
「姫とはなんだ姫とは。エリス、大事な部分をしっかり誤解の無いよう教えてあげるよ。ストラーが創りたがるものは、最初はとにかく突飛すぎて理解に苦しむものが常だったんだよ。何回も描き直させて、なるべく理解の範疇に収めてから具現化していかないと、混乱が生じるんだ。星の為に私も苦労したというものだよ」
「アルマも結構楽しんでいたように思えるけどな」
しれっと言い放ちながらストラーは横目でアルマを見据える。
「発展していく過程は大変興味深いよ。誕生する生命たちが試行錯誤しながら進化していく様は、神秘的で尊くて。手を加えなくとも、生きる為に生態系が変化していくんだ。ストラーがそうなるように設定しておいたのだから、それは、まあ、見ていて楽しいに直結していなかった、と言ったらウソになってしまう……か」
アルマは目を伏せながら、渋々といった風にストラーに同意した。エリスはストラーとアルマを交互に見比べながら笑い出した。
「記憶の中で二人は仲良しだったの。それは、今も変わっていないのね」
ストラーとアルマは顔を見合わせた。二人は苦笑しながらも頷き合う。
「俺たちは、二人で一つと言ってもいい。昔も、今も、これから先の未来でも」
「そうだね。そう在りたいと願っているよ」
ストラーがアルマを見ると、艶やかで優美な花が綻ぶような笑顔を浮かべていた。アルマの笑顔に陰りはひとかけらも見えなかった。
「エリス、星は美しかっただろう?百億年前の俺たちの最高傑作だったんだ」
「ええ、とても美しかったわ。もっと見ていたかったもの」
「ストラー、エリスに見せてあげたい。私たちの星を。ストラーなら見せてあげられるだろう?」
「ああ、見せてあげられる。アルマは辛くはないか?思い出したくないとは思わないか?ついさっき目覚めたばかりだから、休んでいてもいいんだぞ」
「思わないよ。私の中で、あの星はいつも美しいまま存在しているんだ。それに、今また眠ったら今度はいつ起きるかが心配だね」
アルマは苦笑いを浮かべていた。
「そうか、それならいい。見せてあげるよ。……俺も、百億年ぶりに見ることになるな」
そう言うと、ストラーは手の上に大量の紙の束を出現させた。それらは、ストラーの自室においてあった無造作に積まれた紙の山でもある。
紙を一枚ずつ空中に向けてスライドさせながら飛ばす。何も無かった空間に巨大なスクリーンが出現し、紙に描かれていた光景がそのまま映し出された。ストラーが手をかざすと静止画であるはずの絵は動き出し、音を発する。極彩色の情景がいくつものスクリーンに映像として流れ始めた。
巨大なスクリーンの横にも小さいスクリーンを次々と出現させる。手元にあった大量の紙がほとんど無くなった頃、三人の目の前には無数のスクリーンが所狭しと並び、三人を取り囲んでいた。それぞれが異なる時間の地域、風景、生物を映し出していた。
一息ついたストラーは、ゆったりと腰を下ろしエリスに説明を始める。
「ごく一部ではあるけれど、これが俺たちが創りあげたものたちだよ。さっき楡の木から読み取ったものが、この中にあるか?」
「ええ、あるわ。あのとがったお山」
エリスがスクリーンにピタリと身を寄せながら指さすのは、かつて砂漠の地にあったものだ。
「あれは、ピラミッドと言うんだよ。とても重要な役割を担っていたんだ」
「そうなの。大きすぎて他がとっても小さく見えるわね。でもお空からは良く見える。どこからでもすぐに分かるわね」
「いい感してるね。あれは周りの惑星とのやり取りに使っていたんだ。他の星からの目印になり、情報交換をするためのアンテナとして使用していた。それに膨大なエネルギーを蓄積するのにも優れている」
「ふうん。外から見ただけでは、三角の箱にしか見えないけれど、重要な役割があるのね。あ、あそこの。あの、ゆらゆらは?」
エリスが指さした先に視線を向けると、ストラーとアルマは同時に相好を崩した。
「あれは、オーロラ」
オーロラが映し出されているスクリーンが前面に来るように、ストラーは手を翻した。スクリーンを巨大化し、より広域を映し鮮明に見えるようにする。
「とってもキレイ!見て!色が変わるわ!」
興奮したエリスは、オーロラが緑から黄色へと変化していく光のイリュージョンに前のめりになりながら釘付けになっている。
「赤く染まることもあるんだ。稀にしか見られないから、見られた人には幸運が訪れると言い伝えられたりしてたな」
「オーロラは私も大好きだよ。こんなステキなものを思いついたストラーを、この時ばかりは尊敬したことを良く覚えている」
「聞き捨てならないことをサラリと言ってくれる」
ストラーは眉目をひそめながら、ふんと鼻を鳴らした。
「ストラー、ピラミッドも、オーロラも、他のものたちも、どうやって生み出すの?」
「命を吹き込むんだよ」
「命を?」
「エリス、お前も同じ方法で生み出された。良く見ててご覧」
ストラーは、手元に黄色い花の描かれている絵を用意した。今草原には咲いていないものだ。それにそっと息を吹きかけると、黄色い花は、身じろぐように動き出し、紙の中から実体を持ち立ち上がった。更に息を吹きかけると、黄色い花はエリスの隣に飛ばされて、地面に根を下ろして腰を落ち着けた。先程まで存在していなかったのが嘘のように、自然に風にそよいでいる。
「わあ。ストラーがしてることって魔法みたいね」
「息を吹き込むことで命を与えるんだ。こうして皆、生まれた」
ストラーが描いたものは、息を吹きかけるとたちまち具現化される。星にあった全てのものはストラーが描いて作り出したものだった。史上最高の芸術家というのは決して嘘ではない。山積みにされているスケッチブックに描かれていたものは全て、ストラーによって生み出された生命そのものだ。
膨大な時をかけて、親友であるアルマと語り合いながら、最高傑作を作り上げようと時間を費やしてきた。とても素晴らしく美しかった星は、どの天体からも一目置かれる唯一無二の星となった。
ストラーの想像力は絶えることが無く、星一個分を舞台として芸術作品を次々と生み出していった。
「星に来た時には、何も無かったんだ。あるのは空気位なもので、何も無かった。そこに何を創ろうかと、アルマと相談して。描いたものを生み出せた時の感動は今でも忘れられない。可能な限りの自然と資源を作って、土台作りに数億年かかった。星の気候も考慮すると、同じものばかりを植え付けられない。それに面白味が無くなる。だから、その地に合った生物をその地に生み出すのは、頭を使うんだ」
「数億年……想像できないわ」
エリスが目を白黒させながら言うので、アルマは思わず小さく噴き出した。
「私達にとっては、そんなに長い年月ではないんだ。瞬きのような速さで時間は過ぎ去る。この星をどうやって、美しい星にするかが私たちの永遠のテーマだったから、時間がいくらあっても足りなかったよ。土台を作ってからもやる事が多くてね。今そこにある黄色い花は、一部の地域でしか咲けない希少種なんだよ。温暖な場所で穏やかな陽の光じゃないとすぐにしおれてしまう。小さな生き物にも個性を付随してあるんだ。星の気候は一定ではないから、場所によって異なる生物を配置しないと適応できない。成長過程において適応していったものも多いけれどね」
アルマはエリスに諭すような口調で自然の摂理を説き始めた。が、話ながらある疑問が沸き上がり、ストラーを見据えて眉間に皺を寄せながら苦い口調で言った。
「そもそも、星の気候を一定にすれば、あらゆる問題を回避できたのでは?」
「ご名答!実はその通りだ!」
今頃気づいたのか、と言わんばかりに、両腕を腰に当てて仁王立ちする姿にアルマは若干の眩暈を覚えた。
「ストラー、だったら何故そうしなかった」
「つまらないじゃないか。星一個分どこを取っても同じで。何処に行っても同じ風景。そんなの面白いか?」
「君の判断基準はいつも、面白いか否かなんだな」
「当たり前だ。違う景色、異なる気候。其処に行かなければ体験できないものがあるからこそ、動き出すんだろう。何処に行っても同じなら、何処にも行かずに生を終えるだけだ。つまらん。全くつまらん。飽き飽きして俺なら一年あればおやすみなさいってところだな」
深く頷きながらもストラーは、何故今更になってこんな基本的なことを話しているのかと疑問を抱いた。
最も、優先事項は創造で、創造物の意味や付加価値というものを、アルマと談義することはほとんどなかったのかもしれないことを思い出した。
自分の思考の全てがアルマに直結している訳が無いことを、ストラーは失念していたらしい。肝心なことを今になって気づくとは。
ストラーの筋の通った説明に納得した感があるが、アルマは何処か脱力しているように見受けられた。
アルマは溜息を吐くと、気を取り直し、エリスに向かって微笑む。
「エリス、そんな訳で、この星は個性豊かな星となったんだ。どこをとって見ても魅力満載なはずだよ。宇宙で一番の星と詠われた星なんだからね」
お勧めの文言としては、上等だとストラーは深く頷き感心した。
ストラーは瞳を輝かせているエリスの視線の先をスクリーンへと促す。大小様々に重なり合っている無数のスクリーンは極彩色の景観で溢れている。
「スクリーンの中で気になるものがあったら教えてくれ。拡大して見させてあげるよ」
「ええ」
風が葉を揺らす度に心地よい葉擦れの音がする。この草原にあるものは密やかに息づく命ばかりで特別なものなど何も無い。豪華絢爛な宮殿も、資産を投じた娯楽施設も何も。
ストラー自身が好んだ場所は、当たり前にある自然の中だった。
草原の中心に位置する大木の幹に腰を下ろし、音量を控え目に調整したスクリーンを稼働したまま、三人は星の歴史を見続けている。エリスが食いつけば拡大して音量を上げ、アルマが真剣になっている時にはスクリーンはそのままに。ストラーは二人に大規模上映会を開催していた。
「あれ、なあに?」
エリスが指さすスクリーンを見てみると、小さな柵の中で白い生物が草を食んでいる。うさぎだ。動物園だろうか数匹のうさぎが一塊になっていて大きな毛玉に見えなくもない。
「あれはね、うさぎだよ。触ってみたいかい?」
「さわれるの?」
「特別だからね」
ストラーはうさぎが映し出されているスクリーンの前に行き、表面に手を指し入れる。片手ずつ入れていく毎にスクリーンには波紋が広がっていくように円が描かれていく。ストラーの意志で時空に介入している。
うさぎはストラーに気づくと静止した。その瞬間、ストラーが一気にうさぎを捕える。飼育されているからか、人に触れられることに慣れているので、ストラーの手の中に居ても暴れることがない。スクリーンの中から静かにうさぎを持つ手を引き抜くと、表面に揺らぎと僅かな残響を置いて、ストラー達が佇む草原にうさぎを持ち込むことに成功した。
エリスにそっと近づける。
「人に飼われていたようだから、エリスが抱いても警戒心をむき出しにすることは無いと思うよ。まずは優しく触れてごらん」
エリスは物珍しそうにうさぎに近づき、耳や体に触れてみた。
「やわらかいね」
「そうだよ。ふわふわの毛皮だしこの子は毛並みがとてもいい。抱いてみるといいよ」
「わっ。わっ。」
いきなり腕の中にうさぎを押し込まれ、よろけるような体勢となりエリスは慌てている。落ち着かないのか手足をバタつかせているうさぎを、両手でしっかりと抱きしめると、うさぎは安心した様子でエリスの手の中でじっとしている。
「とても温かいわ」
エリスはふわふわの感触に喜び、顔を擦りつけている。
「小さくて柔らかな毛並みで、暖かな動物は好まれる傾向がある。だから多様のものを生み出したんだよ。うさぎの他にも小さくて可愛い子は沢山いたんだ」
「ふわっふわだね」
「……」
うさぎが可愛いのか、うさぎを愛でているエリスが可愛いのか。
どちらも白くてふわふわで丸い。どちらも同じだ。甲乙つけ難し。
一人で頷きながら考えを巡らせていると、アルマがエリスの頬に触れてムニムニとし始めた。
「あの、アルマ。それはエリスですよ」
「素直な笑顔が可愛いから」
「そうなんだけど。それじゃあまるで……」
俺と同じことを考えていたってことになるじゃないか。
気恥ずかしさと脱力感が押し寄せてストラーは赤面しながら顔を背けた。
「ふわふわってどうしてこんなに和むんだろうね。触れているだけで癒され
てくる」
「何?気に入ったなら、なんならお前にも一匹やろうか?」
「私はいいよ。その柔らかさも温もりも、記憶の中にまだしっかりとあるからね」
「そっか。それなら、可愛らしいエリスを愛でてくれ」
「そうだね。そうするよ」
ストラーとアルマは、うさぎをしきりに可愛がっているエリスを穏やかな瞳で持って見つめた。
このうさぎは過去のものでしか無いが、これらは全て二人が共同制作したものと言ってもいい。それを無条件で可愛がってくれるというのは、何者にも変え難く嬉しいものだ。
喜び溢れる星にしたい、その想いで創り上げてきた。小さな喜びが、ひとつふたつと積み重なって光を生み出す様を見るのが、二人にとって何よりも至福の時だった。
勿論、成功もあれば、失敗もある。幾度も描き直し、試行錯誤を繰り返したが、それでも滅んで行った生命は少なくはない。絶滅する瞬間には、胸を痛めたものだが、その後はまた創作の始まりとなる。
星を彩り、創造していくことは二人にとって呼吸することと大差ないのだ。
ストラーは、いくつかのスクリーンを手前に引き寄せ、同じ大きさに揃えると一列に並べた。うさぎとじゃれ合っているエリスを振り向く。
「エリス、見てご覧。これらが一番最初に描き出したものだよ。右から、空、陸、海、山、森林、川。最初は土台から創らないといけないからね」
「わぁ。どこも、とても綺麗。この草原の景色ととても良く似ているわ。ストラーは、この景色が好きだったのね」
「ああ、荘厳で壮大で、優しくて、好きにならない訳が無いじゃないか」
「私には星の大きさが分からないけれど、同じものでずっと埋め尽くされている訳では無いのでしょう?ストラーは一体どれだけの絵を描いたの?」
「さあ。分からないな。気が遠くなるほどには描いたと思うよ。時々は同じものを配置した気もする。そこはまあ後々、世紀の大発見!とか言われて騒がれたりもしたな」
「全く。手を抜こうとするから、そんなことになるんだ。同じ文明が遠くの地で発見されたら驚くに決まっている」
「自分だけ逃げに走るなよ。アルマだって、たまにはいいんじゃないかって賛同してくれたじゃないか。俺の記憶にはしっかりと残っているぞ」
記憶力となると、とたんに強気に出るストラーに、アルマは勝てる気がしなかったのか早々と降参した。
「あんなに、神秘を追い求めるなんて思ってもみなかったからだよ。あと、文明の発展が目まぐるしかったことも、一因だね。例えば、星の反対側にあるものが見つかって情報が行き交うなんて、想像もしなかった頃の話じゃないか」
「まあ、そういうことだな。あの時は在るものを突然消し去ることも出来なくて、そのままにするしか無かったから、ミステリーだなんだと議論の的になったんだ」
「人間の進化には感服したよね」
「ああ、驚かされっぱなしだ」
うさぎを撫でながら、二人の想い出話に聞き入っていたエリスは、星の創造の一途に興味が沸いたらしく、勢い良く食いついてきた。
「もっと教えて!私、見たもの以外のことももっと知りたいわ!」
さっき、大樹から読み取った情報のことを指しているのだろう。短時間しか触れていないなら、この星の膨大な歴史を知り尽くすことはできない。最初の扉を開けてしまったなら、その先にある未知なる世界へと探求心が疼き出すのも無理はないだろう。
ストラーは何から教えようかと、思案しながらも、口元には笑みが浮かんだ。
「そうだな。ざっくりと言えば、自然界の土台を構築してからは、そこに住む生物を生み出した。エリス、お前が生きてこの地で生活しているように、星に自由に生きる生物が居て欲しいと願ったんだ。だから、鳥、動物、昆虫、微生物なんかを、生み出していったんだ。うさぎのような小さいものから、巨大生物まで、陸地から海底まで、どこもかしこも生物で満たした」
遠い彼方の記憶を引き戻すかのように、アルマがそっと口添えをする。
「それには、他の星の人たちも協力してくれたよね。自分たちの星の生物を試してみないか?と言っては、点々と陸地や海の中に置いていくんだ。だから、多種多様な、ある意味突飛なまとまりのない時期もあったよ。あれには参ったね」
「ああ、確かにそうだった。有り難いんだけど、星によって体力差も、生存能力も知能も違うから、生き残りをかけたサバイバル期が来たんだ。俺の星が~!ってあの時は叫んでいたね」
「暫くは様子を見ていたけれど、余りの惨さから、ストラーが星々に数頭だけにして星に引き返して欲しいと要望を出したんだったね。絶滅するかしないかギリギリの数だけ残して、星に帰って行ってくれた時には、ストラーは歓喜の涙を流してたのを覚えているよ」
面白がって笑っているアルマを、ストラーはじとりと見据えて低い声を出した。
「それは言わなくていい。そんな記憶はさっさと忘れてしまえ。巨大生物だけが闊歩する世界になったら、せっかく植えた植物が全て食い尽くされてしまう。俺の芸術が全部腹の中に納まってしまうんだぞ。泣かずにいられるか。帰還してくれたことで、自然界が存続できるようになったんだ。試験的に、とはいえ、最初から数を決めておくべきだったし、放つ土地が重ならない様に検討した上で許可すれば良かった」
「まあ、今思えばそうだね。最初は誰しも失敗するものだよ」
「お前……軽々と口にしてくれるな」
「私は見届ける方だからね。巨大生物の生き様も、ストラーの慌て方もどちらも見ていて楽しかったから、私は飽きることが無かったよ」
「なっ……」
ストラーの苦悩とはうらはらに、アルマはにっこりと笑いながら首を可愛らしく傾げて見せている。
こいつ、心底面白がっていたな……。
星が踏み荒らされ、大地が血で染まる事態が続けば続く程に、アルマが悲しむと思っていた。大地と直結しているのだから。
でも、当の本人はけろりとしているし、何より、当時、苦し気な表情を見せていなかったことを思い出したら、あの程度ではアルマが疲弊することは無いのだと気づかされた。
今頃になって。余りにも、遅すぎる。
「もういい。なんか疲れた。アルマ、続きをどうぞ」
「ん。分かったよ。それでね、エリス。生き残った種別が、後に星に定住した、ということだよ。ストラーが生み出したものと、他の星から来たものとが、微妙なラインで共存して、表と裏に別れ、不思議なラインを漂っていたんだよ。種別を超えて、共存する、というのは、滅多に見られないことだったけど、他の星から来たものたちには知性があった。感情もあった。そこで、お互いに上手く地に定住する術を見出していったようだよ。恐ろしい姿をしていても、優しい心を持つものもいて、とても興味深かった」
「本当にそうだよな。明らかに破壊神のような所業をするものもいるが、同じ種別でも全く異なる感情を持ち合わせていたり。あと、見た事も無い異形のものも居て、俺の想像力をあっさりと超えていくんだ。なんだあの羽の生えた固い鱗で覆われたドラゴンていうやつ。あいつの恰好良さには恐れ入った。あいつを生み出した者にいつかは会わねばと思っている」
「そんなところに闘志を燃やしていたとは知らなかったよ」
「え?」
「いや、何でもないよ」
うさぎを抱いているエリスの頭を撫でながら、ストラーは星の初期の歴史を締めくくった。
「その後は、時間の経過と共に、星に馴染んで行って、自然界は無駄なく有効利用されるサイクルが構築され、在るがままで美しい形態になっていったんだ。俺が生み出し、アルマが内部から調整する。自然界は完璧なまでの調和の姿を見せた」
「ステキね。とってもステキ。どの場所もとても綺麗なのは二人の力によるものなのね」
「まあな。どの星よりも美しく輝く、誰が見ても感嘆の溜息を洩らす、そんな星が誕生したと、宇宙全域へ知れ渡ったものさ」
「ストラーは天才的な創造神と言われていたんだよ」
「あら。私にはそんな風に見えていなかったわ」
「エリス……。まあいい。星々からは、毎日のように祝福の歌が届いていた。人気の旅行先としても知れ渡っていたから、他の星からも遊びに来る者たちが大勢いたんだよ」
皆、こんなにも生命に満たされた星は見た事がない、と口々に評していった。とても美しい。素晴らしい、と称賛の声しか聞こえてこなかった。
俺たちは、大成功した、と確かに確信していた。
「幸せな時間というのはあっという間に過ぎ去っていく。俺もアルマも、この豊かな自然界に新たな風を吹き込みたいと思い始めたんだ。もっと、幸せな星になるように。もっと、豊かになるように、それだけを願っていた」
雄弁に語っていたストラーは、一拍間を開けて真剣身を帯びた口調に変えた。
「エリス、ここからが、本番だよ」
「え?」
ストラーはそう言うと、新たに数枚のスクリーンを全面に表示させた。
「一見、肥沃な土地に見えるだろうが、ここには水もあり、土があり、太陽の光がある。ただそれだけで生命は育つ。俺たちは、そこに自分たちと同じ姿をした『人間』を誕生させた」
自然界が成立した後、『人間』を創ることに決断した。完成した自然界を上手く活用し、生命を維持してくれる存在が欲しかったからだ。二人で創造した星を人間に託して見たくなった。これは新しい試みだった。
「最初は、ひとり、そこから、またひとりと創っていったんだ」
スクリーンには、この星に初めて誕生した人間が映し出されていた。右も左も分からない様で、何故ここにいるのか、という風に辺りを見回している。
「この人間に教え、導く者が必要だった。その役割は、俺が担ったんだよ。そこだけは誰にも出来ないことだったからね」
「ストラーが星に立つことは、この時が初めて?」
「いや、土地や、風、水、自然界の感触を確認する為に降り立ったことはある。でも動物たちとは対話せずに様子を見ていたから、この時、初めて人間との対話を試みたことになる。緊張したよ。俺もアルマも。何と言ったらいいのか。この時は初めてだったから、自分の分身と対話するというのには、不思議な感覚が付きまとった。けれど、向こうは、言葉すら知らない。俺は全てを知っている。自分から剥がれ落ちたカケラが、たったひとりで見知らぬ場所で途方に暮れている状態を見ることになるんだ」
ストラーは目を切なげに目を細めると、その人間が映るスクリーンを拡大した。
「俺はこの人間の前に現れて、まず最初に、命令を下した」
「命令⁉」
エリスは驚き、目を瞬かせた。生まれたばかりに突如命令とは、冷徹だとでも思っているのだろう。
「お願い、指示、勅命、う~ん。どれも結局は同じだな。良く言えば、使命を授けた、だな」
「その方がいいよ。ソフトにいこう」
いつの間にかエリスからうさぎを拝借して撫でているアルマが、声音を和らげて微笑んでいた。
「俺は、自分が生み出したこの星の全てのものに、名前を付けるように命じた。この人間が一生をかけてやり遂げるほどの、途方もない使命だ」
「一生……?」
「今なら、花には花と名称があり、花の中にもひとつひとつに名前があるね?それが、最初は全く無かったんだよ。全てに名前を付けるというのは、この星全土に及ぶ生命全てに関わり、責務があるということだよ。ストラーが生み出したものの数、それは一体どれだけの量になるか、そんなこと、ストラーにも検討が付かないほどだ。それを一人の人間に預けることにしたんだよ」
「全ての命に……。私にはとても出来ないわ。パンクしちゃう」
「ああ、普通ならそう思うだろう。けれど、この人間は、遂行した。後から聞いたら、無謀なことだとも、不可能だとも思わなかったらしい。さすがは俺の分身だ」
自信満々に言い切るストラーの態度に、エリスは呆気に取られたようで、口をぽかんと開けたまま、、ストラーを見上げている。空いた口が塞がらないというやつだ。
「私からすると、無責任このうえない、といった感じだけれどね」
口元を真横に引きながらも、目元から笑みが消滅しているアルマは、なおもストラーを追い詰める言葉を続けた。
「一人では責が重すぎる、私たちですら二人でいるのだから、二人にしてあげるべきだ、と言って、この地にもう一人の人間を誕生させたんだ。ストラーは創造力には長けているけれど、先見の明が無いのが欠点でね。もう少し、熟考してから行動に移すべきだよ」
「ぐっ。そう思うなら、お前もどんどん意見を出せば良かっただろう?」
「私は出している。けれど、ストラーが、そんなに心配することか?と一掃するじゃないか。失敗したら何度でもやり直せばいいと、それが口癖だ」
「た、確かに。そうは言ったかもしれない。余り悪いことばかりに目を向けていても宜しくないぞ、という意味でだな……」
和やかな雰囲気を醸し出すアルマは、見かけによらず、沸点に達すると、ストラーを言い負かす勢いで口が走る。アルマに牽引される形で言い争いに発展しそうになっているところを、二人はエリスに袖を掴まれ静止した。
「ストラー、アルマ、ケンカはだめよ。二人が仲良くないのは悲しいわ。それに、私、もっとこの星のこと知りたいの。教えて、その続きを」
涙目のエリスに懇願されて、ストラーとアルマは、体の力を抜いてスクリーンへと視線を移した。ストラーは指さして言う。
「一人から、二人となり、互いに協力して、それはそれは仲良く過ごしていたよ。この地の楽園と呼ばれる場所で、何不自由なく、幸せそうだった」
「楽園に蛇が現れるまでは、何も問題は無かった」
「何かあったの?」
「ああ、そうだよ。蛇にそそのかされて、二人は、人間としての陳腐な感情を持つことになる。そのままで居られれば、地上で最も尊い存在になれたものを。あと一歩のところで自ら堕落した」
ストラーが指を弾くと、スクリーンには、蛇と人間の駆け引きの瞬間が映し出された。
蛇の言葉を信じ、ストラーと交わした約束を破ろうとするところだった。甘美な誘惑はそれまで刺激というものを知らなかった二人を骨の髄まで痺れさせた。
すぐ手の届くところに、禁断の果実がある。口にすることで今までよりも、もっとずっと幸せな世界が訪れると知ると、二人はそれに手を出さずにいられなかった。
二人は、果実を木から取ると、ゆっくりと噛り付いた。滴る果汁はとても甘く、今まで口にしたことの無い甘美な甘さだった。喉元を降りてゆく甘さは、二人の体をとろけさせた上に、脳天にまで達し、至上の味を堪能しつくした後、瞳を閉じて余韻に浸っていた。
再び、瞳を開けた時、二人の世界が一変する。
何故、裸でいるのか。何故、同じ体をしていないのか。
二人は激しく混乱した。この時、人間としての羞恥が産声を上げた。
それまで裸でいてもお互い気にすることも無かったのだが、その瞬間から、己の身を隠すようになった。果実に手を出したのは、誰の目から見ても明らかだった。
敢えて楽園に禁忌を敷いたのは、ストラーの人間に対する賭けであり、信頼でもあった。それまで創造してきたものたちには、ストラーと同等の知性を持たせてはいなかった。人間に対して初めて、自由意思と高い知能を備えさせた。人間がどう判断して発展していくのかを見てみたかった。この星の中で、それぞれの人生をどう彩っていくのかに興味があったのだ。
しかし、この時ストラーは人間の取った行動に失望した。
自分たちと同じように生きられる権利を剥奪した。
静かにスクリーンを見つめているストラーは、当時に浸っているかのように口を閉ざしたので、変わりにアルマはエリスへ説明を始める。
「本来は、人間は私たちのように、悠久の時を生きることも出来たんだ。二人の人間は子供を生み、育て、子孫を増やし、この地を人間で満たしていくことを始めたけれど、蛇との悪意あるやり取りによって、未来には苦しみと、悲しみ、絶望、そして死が植え付けられた。ストラーの理想は幸福な星だった。けれど、そこに悪意が住み着いてしまった」
「ああ、今思い出しても悔しい」
ストラーは歯噛みしながら険しい眼差しをスクリーンに向けていた。エリスは不審がる。
「何があったの?」
「ストラーは蛇を描いてはいない。他の星から持ち込まれたものだろうね。何度も排除を試みたけれど、悪意を抱いた蛇を排除したところで終わることは無かった。蛇だけにとどまらず、他の物に転移し、人間の中にも入り込み始めた。どこの星からコントロールされているのか特定できないままに、一気に増殖してしまった」
「浮かれていたんだ俺は。祝福されているものだとばかり思っていた。けれど、妬みや嫉妬を抱く者がいたとしても可笑しくはないと、その時になって初めて教えられた」
「そんな……星々からの祝福は嘘だったの?」
「嘘ではないよ。ただ、たった一つの欠片のようなものだろうね。祝福しながらも、無意識のうちに悔しさが湧き出してくる、とか。最初はそんなささやかなものだったと思う」
アルマには星に流れる感情がダイレクトに流れ込んでくる。小さな黒点が紛れ込んでいたと知っていたとしても、それが一気に膨張して星を脅かすことになるなど、思いもしなかった。
想像もしていなかった事態が動き始めた。
アルマから情報を得て排除するも、次から次へと、流れ込んでくるらしい。そして、波及力が高いことが、何より問題だった。消しきることが不可能になっていった。
思い出したのか、アルマの表情には、最初に完全に消去できていたならば何とかなったかもしれない、という後悔の念が浮かび上がっていた。
「アルマ、きついなら、この話はやめてもいいぞ?」
「大丈夫だよ。続けていい。この星の大元になる話だからね」
顔色を変えながらも、内なる決意のようなものをストラーは感じ取った。
「人間は、感情で出来ているから、良くも悪くもコントロールしやすい。言葉を使い出したら尚更だ。知性と言葉を持つ人間が、どのように生きていくのか、俺たちは見届けることにしたんだ。それが生み出した者の責任だからな。自由であれ、と設定したのは俺だった。どの道を選び、誰と生き、どう生きるか、それらは全て任せることにした」
ストラーはアルマを横目で気に掛ける。
「俺たちの願いは、どこよりも美しい、素晴らしく幸福に満ちた星になること、それだけだったんだよ」
ストラーは空にすっと手を伸ばし、前面に美しい景観を映し出したスクリーンを並べた。そこには、沢山の人間が笑顔で踊り、歌っている場面が流れていた。子を抱き、あやす親の姿もあった。動物を可愛がり、心を通わす者もいた。田畑を手入れし、自然からの実りを大切に頂く姿もあった。
それは、ストラーが長い間ずっと描いていた理想郷そのものにみえた。
「ストラーの目指していたことも、叶っているのね。自然と、動物と、人間が共存して、ストラーの創った自然界を人間が活用してくれている。こうして欲しかったのよね?」
エリスはほっとしたように、強張っていた肩から力を抜いて微笑んだ。
「ああ、そうだよ。これが、俺の夢だったんだ」
「存外、ストラーの夢は、大層なものではないよね」
アルマは腕の中のうさぎを撫でながらながらくすりと笑う。うさぎは心地よさそうに目を細めて身を委ねている。今にも眠ってしまいそうだ。
「その通りだよ」
星ひとつを創ると言っても、到達点は過激なものではなかった。安らぎに満ちた、穏やかな草原のような世界が、時間が、いつまでも続けばいいと思っていた。
人間に何が出来るか、何処まで行けるか、試してみたかった。 この星を大切にしてくれることを切望していた。
俺たちの意図は伝わるだろうと、信じていた。
ストラー達の前に並ぶスクリーンには、人間が増えて各大陸へ移動していく様子が流れ続けていた。大陸毎に、人々が集まる。国が建設される。言葉が生まれる。文化が築かれる。始まりと終わりを繰り返しながら、それでも人間が途絶えることは無かった。幾度と無く危機に晒されても、それでも賢く生きる術を模索する人間たちは、何よりも強かった。創ったことに間違いは無かったのだと、ストラーは確信していた。
時に心を痛めながらも、人間の強さを見守り続けた。
「ねえ、ひとつ教えて欲しいことがあるの」
エリスがいつになく真剣な声音で問いかけてきたのでストラーはエリスに向き直った。
「なんだい?なんでも聞いていいよ」
「私にとってストラーは「親」というものだと教えられたわ。ストラーは何でも教えてくれるし、私を生み出してくれたから、それはその通りだと思うの」
「まあ、そうだね」
「でも、さっき視た星の記憶を辿ると、ストラーは大きなお仕事をしているの。ううん、違うわ。ストラーとアルマと、この楡の木と。一緒にとてもとても信じられないようなお仕事をしているの。星を創っただけじゃないわ。創ったあともずっと、皆の願いと祈りをしっかりと聞いて、叶えてあげようと奔走しているの」
エリスは一拍間を置くと、大きな瞳を更に大きく見開いて身を乗り出した。
「それを皆は神と呼んでいたわ。神とは何なの?」
ストラーとアルマは、視線を僅かに下に降ろしながら苦笑した。
遥か昔に、「神」というのは単なる偶像に過ぎないのだと、何度説いても伝えられなかったことを思い出した。生き方を説いた宗教が「神」を作り上げ、誰もが幻想を慕い、敬い、同時に畏怖の念を抱いていた。「神」の姿を記した著書も無いというのに、絶対神の存在を信じ続け、縋った人間という生き物。下等と呼ぶには知性が豊富で、けれどあまりにも儚く弱い生き物だった。人間だけが「神」という存在を求め続けて、やがては息絶えていった。縋らなくとも生きられるということを、人間だけが知らなかった。
「神」になったつもりなど無いけれど、星の誕生に立ち会っている以上、「神」と呼ばれるに相応しいのかもしれないな、とストラーは苦笑するしかなかった。
おそらくアルマも同じような心情で、喜びよりも苦味が勝っているのではないだろうか。
「俺たちは「神」ではないよ。ただの芸術家なんだ」
「そうだよエリス。人間が呼ぶ「神」とは、全知全能であり、生命を統括し、命運を握り、可能な限りの奇跡を生み出す、そんな存在のことを指しているのだと私は思うよ」
「俺たちはそんな力を持ってはいない。創ることと見守ることが役目なんだ。誕生から最終的に星が光を失う時まで見届ける為にいた。生きやすくなればいいと、ヒントを指し示す時もあったけれど、それは俺が直接手を下した訳じゃない。俺たちは星の創造をしていただけなんだ。アルマを通して人々の願いは全て聞こえてきた。だから全体が良い方向へとシフトしていけるように、願いを叶える存在を作りあげることもあった。直接的に俺たちが何かした訳ではないんだよ」
「そうなの……?」
「幸せになるように、誰もが自由であって欲しいと、いつも心から願っていたよ」
ストラーは苦々しい思いで、ある時代を思い出していた。
決して支配から逃れられない、哀しき時代を。
人と人とが在るだけで、どちらかが優位となる。そんな風に設定した覚えはなかったが、人間たちは優劣を競いたがった。そして支配は力あるものにまかり通る技となった。
支配する者、される者、両者から負力が湧き出した。
悲しみ、憎しみ、怒り、苦しみ、全ての感情がアルマに到達し始めたのが、人間の感情が育ち始めてからだった。この時から、アルマは苦しむ表情を見せるようになった。
浄化に必要な分だけの長い時間、眠りにつくこともあった。
支配を無くさなければ、と奔走したストラーだったが、人間の感情の波を制御しようとすることも、また、支配となりうる。それに気づいたストラーは、手を出すことが出来なくなった。そして、ある時考えた。
「俺が地上に人として生まれていたらどうなっていただろうな。アルマと二人、地上に降り立っていたら、この星の未来を変えることが出来ただろうか。何度も何度も過ったよ。でも、それだけは不可能だったんだ」
自分の使命を捨てる事など、出来るはずもなかった。万が一、人間として生まれ落ち、ストラーとアルマのどちらかが欠けてしまったなら、星はバランスを保てなくなる。互いのエネルギーが融合して星を生み出していたからだ。それだけは、選択の余地が無かった。
あらゆる対策を提案しつつ、けれど人間に対して制御を掛けない。
難しい距離感と舵取りは、試行錯誤を繰り返しつつ、かつてない程ストラーとアルマを疲弊させることとなった。
人間たちを信頼したい、という想いが強ければ強い程に、暗黒の時代を見過ぎて、失望することも多くなっていったのだった。
ひとり過去に思考を飛ばしているストラーだったが、スクリーンは稼働し続けたままで。エリスとアルマは、無言で噛み締めるように星の記録を見続けていた。
長い、長い、何千、何万という時の流れを、その目に焼き付けていた。
「……ふぅ」
不意に、小さな溜息が聞こえてきたので、横を伺うとエリスが疲れた顔を見せていた。膨大な情報量に許容が追い付かなくなってきているようだ。
「エリス、もう満足したかい?」
エリスは優し気な笑顔を見せると、大きく頷いた。
「ええ。ストラー。私この星が大好きよ。何も無いところから、作り上げたストラーとアルマを尊敬するわ」
「ありがとう。そう言って貰えるのが一番嬉しいよ。エリス、さっきのうさぎはどうする?このままここで飼ってもいいが?」
アルマは、腕の中に抱えていたうさぎをエリスに渡した。
「ううん。返してあげて欲しいの。このこには、あの中にお友達が沢山いるもの。元の場所に居るのがこのこの幸せだと思うわ」
「オーケイ。エリスは優しいな。このこは、元の世界に返してあげような」
そう言うと、ストラーはエリスからうさぎを受け取り、一つのスクリーンを拡大した。中では、柵の中で草を食むうさぎが数匹居る。再び、ゆっくりと時空に介入していくと、指を入れたところに波紋ができ、五本分が重なり合った。もう片方の手に乗せていたうさぎを柵の中にそっと返すと、うさぎは着地した途端に草の上を駆け出した。
リンッという軽やかな鈴の音と共に、ストラーはスクリーンから手を引き抜くと、波紋が静かに波打った、暫くすると波は止み、元の状態の平面に戻った。
「うさぎさん、大丈夫?」
「問題ない。人間を空間移動したわけじゃないから、うさぎなら、すぐに忘れて遊び出すさ」
「これだけ見ていたら、ストラーは魔法使いか手品師に見えて来るね」
感嘆の声で言うアルマに、ストラーは気分良くして豪快に笑った。
「いいね、それ。俺はなんにでもなってやるぞ。ご希望の職種を承ります」
「何いってるんだ、調子がいいったらないよ」
「はは。じゃあ、もうスクリーン閉まってもいいよな?アルマもエリスも疲れただろう。星の歴史を一気に見るのは容易いことじゃない。この位が丁度良い。俺も、懐かしいものを沢山見させて貰ったよ」
「ストラー、とても楽しかったわ。ありがとう」
「私も、暫くぶりに懐かしい者たちを見られて幸せだったよ。私たちの星をエリスに見させてあげられて良かった。ありがとう」
「良かった良かった。万事完結!だな」
機嫌を良くしたストラーは、鼻歌を歌いなが空中に留まったままにしていたスクリーンに手をかざし始めた。空に飛ばした時とは逆に空から拾い集めるように大、中、小様々な大きさのスクリーンの上を滑るようになぞる。一枚一枚縮小化され、ストラーの手の中にはスクリーンから画用紙に戻った紙が綺麗に収まっていく。無数にあったスクリーンが空から消えていき、残り僅かとなった時、後方にいたはずのアルマがストラーの腕を掴んだ。
「なんだ?」
不意のことで不思議に思い、アルマを振り返ると目を見開いて何かを凝視している。
「あれは……なに?」
喉元から絞り出した声に力は無いが、ストラーの腕を掴む手に熱が籠る。突然のアルマの異変に何事かと視線の先を追う。そこに在ったものを視界で捕えた瞬間、ストラーの動きが一瞬止まった。
まずい……‼
じわりと変な汗が出てきたストラーは、手の動きをぎこちなくも早め、スクリーンを無意味に重ね始めた。一番奥にあったスクリーンを隠すように。
「紅の海ってあっただろ?あれだあれ」
紙の束を一気に飛ばしてしまい、あれまで並べてしまったことに今の今まで気づかなかった。重なり合っていて影になっていたのだろう。
「違う。あれは海なんてものじゃなかった。炎を巻き上げていた。なんなんだ?紅い大蛇?」
「気のせいじゃないか?さあ、もうお開きお開き」
しらばっくれてやり過ごすのが得策だとばかりに、ストラーは誤魔化し続けようとしたが、アルマに一喝される。
「ストラー‼」
声を荒げることが無かったアルマが怒りの形相でストラーを睨み付ける。初めて見たアルマの激高に触れ、ストラーの背に電流が走る。
「あれは私の知らない星の姿だ。私には知る権利があるはずだ。私が知らない光景があるわけがないんだ」
「アルマどうしたの?こわい顔。どうしたの?」
アルマの側に居たエリスも異変を感じ取り怖れ始めている。エリスの様子を気にしながらもアルマの意識を他へと向けようとする。
止めていた手を再びスクリーンにかざす。空にあったスクリーンは全て物言わぬ画用紙へと姿を戻しストラーの手の中へと収まった。
アルマの気持ちを理解するのは容易いが、それでも言いたくないこともある。
「考えすぎだろ。忘れただけなんじゃないか?」
「私は全てを記憶している。何もかもだ‼それなのにあの一枚だけ分からないなんてある訳がないんだ。教えてくれストラー。はぐらかさないで。全てを……」
「嫌だと言ったら?」
「……」
ストラーの腕にアルマの指が食い込む。
「知らない方がいいこともある」
「それでも、知りたい。私自身のことだ」
「どうしても?」
「どうしても。どんな事でも」
鋭い眼差しで、一向に引き下がる気配を見せないアルマを交わすことは無理そうだと腹を括ったストラーは、エリスを一瞥し、アルマの熱の籠った瞳に体の中の細胞の隅々にまで浸透していく。この世の均衡を言い伝えるものが、意図せずところで明暗と変わり果てる。いつか訪れる不幸に怯え、訪れることの無かったはずの未来をも自らが生み出す。
『必ず世界の終末は訪れる、そしてその後に輝ける未来は訪れよう』
日々の戒めを詠った書物ですら、誤った終末論として語り継がれる。
殺戮しなければ、世界は滅びてしまうと誰かが呟く。最初は小さな疑惑に過ぎなかったものが、いつしか正論だとはやし立てられ勢力が拡大していく。
誰の心中にもある不安が、この世の道筋を湾曲させてしまうことを権力者は知っている。幾ら手を尽くしても破壊の衝動は収まらないことも勿論知っている。
いつまでも続く物語。終わりの無い物語。
それこそが世界の終末論の真実だった。
「全てを……記憶している、なんて私はあまりにも愚かだ。箱の中に居た時点で気づかなくてはならなかった。知らなくてはならなかった。何故私はそこまで考えられなかったのだろうか。あまりにも愚かだ」
いまだ血の気を失った顔をしたアルマが自問自答するように呟く。
ストラーは視線を落としアルマの表情を伺う。
生気は戻っていないようだが、心此処に在らず状態からは抜け出せているようだ。
「お前には癒しの時間が必要だった。だから、知らなくて良かったんだよ」
「そんな……。私に出来ることは何も無かったのだろうか」
「無いよ。もう限界だった。お前は優しすぎて、地表の生命を守りたくて、いつもいつも体内に溜め込んでしまうから」
「そう……だろうか……」
「そうやって自責の念に捕らわれる」
「あ、当たり前じゃないか!」
「だから言いたくなかったんだ!」
ストラーの悲痛な声を聞き、虚空を見続けていたアルマはストラーを漸く見た。瞳が交錯した瞬間、アルマには分かってしまった。
ストラーの中にある痛み、悲しみ、後悔。胸の内に広がっている感情が透けて見えてしまいそうな程、嘆きで揺らいでいることに。
「散々傷ついたお前をこれ以上苦しめることなんて、俺にはもう出来ない。したくない」
ストラーの優しさが胸に染み入っているかのようにアルマは目を閉じた。溢れるほどに溜まっていた涙が、次から次へと頬を伝う。静かに、ただ静かに涙を流し続けた。
声を発することなくいきさつを伺うしかなかったエリスは、アルマの頬に顔を寄せた。赤い幻の恐怖から、エリスがしがみついているように見えていたが、寧ろ、アルマがエリスにしがみついているように思える。エリスの支えがなければ、足場が崩れてしまいそうなアルマの悲嘆にくれる様子を見てストラーは言い切った。
「全ての罪は俺にある」
言葉には創造主としての重責が圧し掛かっていた。
アルマは頬を伝う涙の筋を拭うこともせず、そのままストラーを見やると、寂し気で悲し気な表情を浮かべていた。
三人の周りをうねり続ける幻影は顔を紅く染め上げる。
暁の太陽のように、大地を美しく彩ってくれたらいいのに。
ここにある業火の炎は悲しみを助長させる為だけに存在していた。
「だから、ごめんな。お前の許可を得ることも無く、俺はこの絵を描いた。この絵を描いた時にはもうほとんど地表は崩れていて機能していないのと同じで、どこを見ても火の海で、さして手を加える必要なんて無いようにも思えた。言うなれば、「風景を閉じ込めた」だけかもしれないな」
「許可なんて……」
アルマはそれ以上言葉を発することも出来ず、首を振るだけだった。ストラーの悲しみを誰よりも知っているからこそ、彼を否定することなど到底出来るはずも無い。
「なんでだろうな。あの時は消滅が誰にとってもいい事のように思えたんだ。何も残らないなら、誰の笑顔ももう何処にも無いのなら、在ることの意味など何処にあるんだろうと思えて仕方がなかった。今思えば、そうしか思えなかった俺自身が星の終わりをすでに望んでいたのかもしれないな」
赤い大蛇はストラーの意志で地球上を這いずり回った。焼き尽くし、飲み尽くし原型を留めて居るものが無くなるまで。
ストラーはその光景を一人で静かに見つめ続けていた。命が消えゆく事に痛みが増し、悲しみは深まり後悔は尽きなかった。
地表が焼き尽くされた後、アルマの絶叫は止むことを知らず、地表は揺れ続け、海が隆起し陸地を飲み込み始めた。静かに大陸を浸食していく様は、ふつふつと沸き起こる静かな怒りのようだった。
しかしストラーには、自我を失ったアルマの意識が其処に存在し、星を覆い尽くす負力を懸命に洗い流しているようにも見えていた。
自分を壊してまでも星を護ろうとするな、とストラーは声を張り上げて喚いた。アルマの絶叫に重なるように、ストラーの絶叫も星の内部に響き渡っていた。
誰も聞く者がいない孤独の中で声が枯れてもなお叫んでいた。
この時既に、ストラーの耳に微かな歌声が聞こえてきた。もう、誰も居ないと思っていたが、よく見てみると最後の一人であろう生存者が星に向かって歌を歌い続けていた。
哀しみの色、後悔の色、懺悔の色、そして愛の色、歌声に乗せて届く感情は複雑かつ繊細だった。人間にすらここまでの想いを抱かせてしまった事に対して、ストラーは自身を責めた。
最後の一人の歌声が消え去った。
その瞬間、ストラーは決意した。
「もう、いいよな。十分だよな」
そう言うとストラーは両手を強く打ち、地上を這いまわる炎の幻覚を消し去った。
一枚の真っ白な画用紙を取り出すと、青の絵の具で大きな円を描き塗りつぶした。ざっと描きだした絵だったが、これは星を意味するものだ。
「そして、これが本当の終わり」
画用紙を左手に持ち、アルマへと見せる。
「人も生物も消え去り、大地が全て海に飲まれるのを見届けて、俺は決行したんだ」
一呼吸置いてから、ストラーはその絵を両手で握り潰した。躊躇することなく、一瞬で画用紙は歪な固まりと化す。
アルマが息を飲む気配が伝わってくる。
「これで、終わりだ」
ストラーは手を広げて見せた。
手の平には青色がところどころから覗くだけのぐしゃぐしゃになった画用紙が乗っている。
ストラーが握りつぶした瞬間に星は砕けたのだとアルマは理解した。
ストラーには創造の力がある。そして消滅の力も等しくある。
星の運命を握っているのはストラー以外他にいなかった。核であるアルマにはその決定権は無かった。
「俺が最後に出来た事は砕け散った星から核を取り出すだけだった。お前が守りたかった生命を何一つ残せなくて悪かった」
ストラーはアルマに向かって低頭した。
初めて見る光景にアルマは驚愕する。
いつまでも低頭したままのストラーを見ていられなくなり、アルマは立ち上がってストラーへと駆け寄る。先ほどまで力なく涙していた為か、足に動力が上手く行き届かず、ふらつくようにしてストラーの元へ辿り着き、両腕を掴んだ。
「ダメだよ。ストラー頭をあげて」
アルマはストラーの顔を手で無理やり押し上げた。
ストラーは苦し気な表情を浮かべていた。アルマが今まで見たことの無いストラーの姿にアルマは目を瞠った。
「私は自分のことしか見えていなかった。私だけが守りたかった生命じゃない。ストラーだって同じだろう?寧ろ自分が創った世界を自分で壊さなくてはならないなんてどれほど苦しいのか。大事な時に側に居てあげることも出来ずに意識を手放していただけだなんて。ストラーの悲しみを肩代わりすることが出来なかったなんて、私は自分が信じられない。すまない……ストラー」
一気に捲し立てるアルマの勢いに押され、ストラーは腰が引けた。ストラーにもたれかかるようにして負けず劣らず低頭するアルマの脳天に向かって脱力混じりの溜息を吐く。
「俺の心配なんていいんだよ。バカか」
「バカとはなんだ。私は真剣に話しているんだ」
「分かってるよ。ちゃんと分かってる」
「なら真面目に話を聞いてストラー」
「聞いてるよ。お前が謝るのは間違っていると思ってるだけだ」
「痛みを分かち合ったなんて思い上がりだった。ストラーだけに重責を負わせてしまっていた」
「二度も言わせるなよ。全部俺の罪だ」
「そんなっ……」
押し黙ったアルマを見てストラーは溜息を吐きながら言った。
「アルマは、今だけを見ていればいいんだよ。お前は充分に役目を果たしてくれた。お前に罪の意識なんて持たれたら、俺はこの先お前に謝り倒されながら一緒に居ることになるのか?ごめんだね。それならまた輝石に戻って貰った方がいい」
「……」
「過去に振り回される必要なんて無いって言ってるんだ。もう、あの時間は戻ってはこないんだからな。いつまでも縛られていてもどうにもならないこと位お前だって分かってるはずだ」
「そう……だけど……」
いつまでも憔悴しきっているアルマは、ストラーを直視出来ないほどに動揺している。
「俺とお前は二人で一つだ。お前がいつまでもそんなだといい物が生み出せない。次こそは最高傑作を創りあげたいという俺の意気込みに火が付かない」
「どうしろと……」
「そうだな。お前にも絵を描いてもらうかな。何百枚も描いてくれ。俺の為に何かしたいと思っているんだろう?それなら、絵が打って付けだ。何しろ、俺の想像力だけじゃ限界があると思い知ったからな。お前の方がいいアイディア持っているかもしれない。俺よりも冷静で優しいお前ならな」
ストラーは口を横に引き結び、アルマの額を指先で弾いた。
小さく痛みを主張したアルマは、虚を突かれたようにストラーを見返す。ストラーは頬に残った涙の筋をそっと手で拭うと、返事を求めた。
「手ほどきを頼むよ」
「勿論!お前の方が才能あったら俺泣くかもな」
「ストラーに適うわけがないだろう」
全てを冗談で絡めとったところで、アルマに小さな笑顔が戻った。
「エリス、お前も一緒に描くか?」
ストラーとアルマの間で小さな身を更に小さくしていたエリスは、落ち着いた二人の状況を感じ取り安堵した様子で頷いた。
「ええ、私も一緒に描いてみたいわ。映像の中で見た空も、緑も、海も何もかも綺麗だっから。私にもあんなに澄んだ景色が描けるかしら」
「最初は真似から初めればいい。慣れてくれば新しいものが生まれる」
「そうね。思い出しながら描いてみるわ」
「私も、そうしてみるよ。好きだった景色が沢山あるんだ」
スクリーンが仕舞われた草原には、楡の木が静粛にそびえ立ち、小さな花々が揺れている。先程まであった極彩色の世界は、記憶の中に残るだけとなった。
おそらく、もう二度と見ることは無いだろうと、ストラーは静かな決意を固めていた。
ストラーの腕にエリスの小さな手が添えられた。
「私たちの記憶の中にずっと在り続けるわ」
横を見ると、小さなエリスが穏やかな瞳でストラーを慰めるように呟く。密かな決意を、読み取られたしまったのだろうか。エリスはそれ以上何も言うことは無かった。
「ずっと、覚えていてくれるか?」
ストラーの問いを、エリスは肯定の意を込めて頷き、アルマが受け止める。
「当たり前だよ。宝物のような世界を忘れられるわけがない」
「それならいい」
口元を横に引いたストラーは真っ直ぐに空を見上げた。
瞳にはどこまでも澄んだ青を映していた。
この地に吹く風は昔と同じで、アルマと共にいると何も変わらない時間が訪れたような気分になってくる。幸せで豊かで輝いていた日々。
もう、戻ることのない時間を超えて来てしまった。此処にあったのは幸福の時間だけではなくなってしまったけれど必要不可欠な痛みも在った。
全てを吐露して体が軽くなったことに気づいたが、同時に疲労感も感じ始めた。張りつめていた神経に血が巡り始めて、時間が動き出したことを知らせているようだった。
何もかも話して教えた。もう、アルマに対して隠すことなど何一つ無かった。俺と同じものをアルマに与えてしまっていいのかという意識を拭い去ることは出来ないが、正直安堵していた。
ストラーは大きく伸びをすると、二人に晴れやかな笑顔を向けた。
「部屋に戻って美味しい紅茶でも飲むか」
「うん。そうだね。皆で休もうか」
ストラーは少し疲労を滲ませた瞳をゆっくりと伏せ、胸に手を当て、静かにはるか昔に消滅した星へ最後の別れの挨拶をした。
そして星の歴史に尽力してくれた遠くの星々への奉謝も、そっと空へと投げかけた。
暫くして、ソファに寄り掛かった状態で眠りについていたストラーは、眠りから目覚めた。窮屈な姿勢で寝ていたので、固くなった節々を回してほぐし欠伸をしながら呟く。
「良く寝たー……」
「やっと起きた」
独り言のつもりだったのに、突如帰ってきた返事に驚き、当たりを見回す。
気配を感じた方に視線を向けると、出窓に腰かけ足を組みながら悠然とした佇まいのアルマがそこにいた。
草原から帰り、一息ついた後、眠くなり近くのソファに突っ伏したところまでは覚えていたが、その後の記憶が無い。寝てしまったのだろう。
エリスは居ない。自室に居るのだろうか。ストラーは乱れた頭を撫でつけることもせず、上体を起こした。
アルマはにっこりと微笑み、おはようと告げた。
「悪い。寝てしまったようだな。エリスは?」
「ストラーが寝たあとすぐに、部屋へ連れていって寝かせておいたよ」
「ああ、そうか。悪いな」
「いいよ。気にしないで」
アルマは外から流れ込んでくる風に髪を揺らしながら、紅茶に口を付けた。窓辺が気に入ったのかは分からないが、寛いでいるのは確かだ。朝方は輝石だった気がするが、すっかり馴染んで昔からそこが居場所であるかのように見えるのは何故だろうか。
「それにしても、ここは狭いね……。足の踏み場も無いから、出窓に座っていることしか出来なかったよ。エリスの為にもう少し環境を整えてあげないと」
部屋を見回した後、目を細めながらアルマは淡々と痛いところを突いてくる。
「ぐっ。余計なお世話だ。」
加えて、出窓しか場所が見つからなかったという割に、すっかり自分の定位置のようにクッションを背もたれにして寄り掛かっているように見えるのは気のせいだろうか。
あれはお気に入りのクッションだったのだが。まあ気に入っているのならプレゼントということにしてもいい。
「スケッチブックの山は相変わらずだね。そのうち床が抜けるか、雪崩が起きて二人とも生き埋めにされてしまうと思うな」
「いいんだよ。ほっとけ。捨てられないものもあるんだ」
強気に返してはいるは、ストラーは床に散乱している画用紙をいそいそと片付けている。アルマの言葉は以外にもストラーの胸に刺さったらしい。
「身軽になりなよ」
「お前ほど身軽にはなれないって」
「私は今身ひとつだからね。もしかしてストラー羨ましかったりするんじゃないか?」
「バカ言え。俺には壮大な夢がまだまだあるんだ。その準備に必要不可欠なものばかりがここに集約されている。なに一つ荷物だなんて思ったこともないね」
「それもそうか。それでこそのストラーだものね」
「そうだ」
「ところで」
一拍間を開けると、先ほどまでの軽口を叩いていた空気を封じた。
いつの間にかアルマは核である輝石を手にしていた。輝石を一指し指と親指とで挟み、ストラーに掲げて見せる。輝石は透明度を増しストラーからはアースの表情がいつもよりも澄んで見えていた。
「これから、私をどうする?」
突然突き付けられた疑問だが、アルマと対面した時には必ず話し合わなければならない事案だった。アルマの未来はストラーに任せられている。ストラーの言葉はアルマの未来を決定してきた。
二人の間にあるのは信頼という言葉だけでは言い尽くせるものではなかった。
ストラーが寝ている間中、思案していたことだったのだろう。
「俺の計画では、お前を核としてまた新しく天体を作りたいと思っている。勿論、お前の承諾を得られたらの話だし、問題が山積しているから、直ぐに、という事では無いんだ。お前は、どう思う?どうしたい?」
「……そうだね。あの時と同じ構造でないものが創れるなら、私はまた星の核として役割を果たしたい。再び、宇宙一と詠われる星になれるようにね」
「そうか。それなら、俺とお前の目標は一致したな」
そう言うと、ストラーは新しく描いた紙の束をアルマに手渡した。
アルマは一枚一枚絵を見ていく。あまりの素晴らしさに嘆息する時もあれば、顔を引きつらせている時もある。一通り目を通したところで、懇願するようにストラーに訴えかける。
「あまり奇妙なものは作らないでくれよ、頼むから」
「面白いじゃないか。サバイバルと冒険。摩訶不思議な建造物、誰も到達できない未知の領域。数多くの伝承、天候も自由自在」
ストラーは夢を熱く語る青年のような眼差しをしている。
「面白い世界は私も賛成だよ。かつての星にもそれはもう永遠に解けない謎なんていくらでも存在していたほどだしね」
「そうだろう!星全土に渡る地中要塞なんてのはどうだろうな。難攻不落、安易に立ち入ったものは永遠に迷宮の中」
「蟻の巣のようなものだね」
「蟻……」
「永遠に迷宮で彷徨って幸せとは思えないな。不幸の連鎖しか想像できない」
「た……確かに。見た目だけで決めてはいけないな。難しい問題だ」
眉間に皺を寄せながら腕を組み、低く唸るストラーに半眼を注いだアルマは、やれやれと言った風に紙の束を机の上に置いた。
「まだまだ時間はかかりそうだね。で、もう一つ質問があるんだけど」
「ん?」
思考を停止させ、視線をアルマに戻すと、クッションに背を預け寛いではおらず、居を正し、真摯な眼差しを真っ直ぐに向けていた。
思わず、ストラーも背筋を伸ばし身構えた。
「……また人間を創ろうと思っている?」
「人間を創る」これだけが唯一永遠に解決の糸口を見いだせていない難問だった。人間が生まれると星の中が感情で溢れかえる。全ての感情を受け止めるアルマの運命を揺るがす問題でもある。
いつものような軽口ではいけない。
一つ咳払いをし、声の調子を整えて偽りのない気持ちを伝える。
「正直決めかねてる。エリスのような子はお前にとって無害だろうが、それでも増えていけばいくほどに、また摩擦が生じてお前を苦しめ始める可能性もある。だから、今はまだ決められない。お前を護りつつ、全人類の幸福を護るにはどうしたら良かったのか、ずっと考えていたよ。けれど、また答えが見つからない。争いを無くし、誰もが平等であるように、そうなる為には何を付随させればいいのか。何を排除すればいいのか。そもそも、人間なんてものは居ない方がいいのか、結論に辿り着けないまま、あっという間に百億年だ」
ストラーは深い溜め息と共に、苦笑いを溢した。
百億年経っても消えなかったのは後悔。そしてアルマと、生み出した全生命に対する懺悔。時間が巻き戻らないからこそ、変えていける未来を模索し続けていた。
「でも、人が居たから何度もやり直しが出来たのも事実だ。人の手を借りないと数多の作品を生み出すことは出来なかった。人は素晴らしいんだ。とてつもない可能性を秘めた賢者と言ってもいい。ただ、脆さと危うさを支えるのは一本の糸のようなもので、切れて修復不可能となってしまった時、賢者は覇者となる。武力行使でしか治められない覇者が次から次へと生まれる。そうすると憎悪が憎悪を招く連鎖を止められなくなってしまう。俺はもうあの恐ろしい光景を見たくはないんだ。だから時間を幾らでもかけられるだけかけて考えなくてはならないんだ」
「……そうだね」
「お前にとっては人間は居ない方が楽だろうな」
アルマは首を横に振る。
「私はストラーが描き出すものが凄く好きだったよ。それに嘘は無いから。それには人間も含まれているんだ。かぎりない豊穣の世界は、どこを見ても美しくて輝いていて涙が出てしまうほどだった。いつまでも見ていたかったあの世界はもう二度と戻っては来ないけれど、新しく創る世界は、今度は破滅には向かわないようにしたいね」
「そうだな。だから、時間がいくらあっても足りない。百億年だけじゃ全然足りなかったよ」
いっそのこと、自然界だけのただの絵画の世界にしてしまった方がいいのだろうかとも思った。でも、それでいいのかという想いが根底から消え去ってはくれず、描けば描くほどに遠い昔に見ていた人々の賑わう姿が浮かんでは消えてを繰り返していた。全てが過ちだった訳ではないのだと、分かっているからこそ切り離すことが出来ずにいる。
ストラーもアルマも星を愛し、人を愛していた。
いつの時代も狂ってしまうのは思考と感情。既存のものとは違う何かしらの抑止力が用意出来たなら同じ過ちを犯すことは無くなるのかもしれない。
やっぱり捨てきれない。人への情は。
「俺、また人も創りたいよ。お前を苦しめることのないように新しいシステムを創る」
「私も協力する。私の星だからね。あと百億年ほど経ったら完璧なものが出来上がるかもしれないよ」
アルマは暖かな眼差しでストラーを見つめていた。
ストラーは思わず破顔する。
大きな試練を超えてきた二人の想いは、決別することは無く、同じ方向へ向かうことを望んでいた。
「お前は実態を持つと無茶ばかりするから。今はまだ長期休暇な。有り難がれ」
「何その言い方。全然有り難くないよ」
ストラーとアルマは笑い合いながら軽口を交わす。ストラーはアルマの胸を指で軽く突く。
「お前にもまだ残っているだろう。ここに俺と同じものが」
アルマは一瞬目を見開いた。ゆっくりと目を細めながら静かに苦笑するのみで、言葉を発することを避けた。それは肯定の意。
「自分を大事に出来るようになったら、また俺が作ってやる」
「百億年後に?」
「そう、百億年後に」
「ストラーといると飽きないよ。昔も今もこれから先も」
「当たり前だ。俺を誰だと思っている」
「全知全能じゃない最高の芸術家だと思ってるよ」
「ぐっ。非常に的確な答えで反論できないな。くそっ」
「あはは」
「何があははだ。俺たちは宇宙一の星を創るんだからな。誰もが称賛し、憧れる、そんな星を創る。全生命体が充足した日々を送れるような星にする。俺たちの新しい使命だ」
ストラーはアルマに手を差し伸べた。アルマは綻ぶような笑顔を湛えて、ストラーの手の上に手を重ねる。
「いつまでも共に。新しい誓いの元歩き出そう」
昔とは違う空気が二人の間にふわりと流れた。過去に失ったもの、決して戻らないものも確かにある。けれど新しく作っていける道もある。
大事であればあるほどに、愛おしくそして守りたい世界は再び廻って出会えるだろう。
奇跡なんてものは無いと言うものに奇跡は訪れない様に、未来を願わないものには未来は訪れないのだから。
アルマと、エリスと、三人で此処から始めていく。
誰かと共にある未来を、眩い光で照らし出すことが出来るように。
再び誰かの手によって大地を芽吹かせて貰えるように。
自然界を美しいと思ってもらえるように。
新しい星を慈しんで貰えるように。
そして何ものにも絶望することのないように。
孤独に胸を痛めることのないように。
支配によって人生を奪われることのないように。
創造主として完遂出来なかった事を果たすべく筆を取る。ストラーの意思は決して揺らぐことは無かった。ストラーには新しい星が光輝いている光景が浮かんできていた。光と愛に溢れ、艶やかな色彩と数多の神秘で溢れかえっている。
きっと、叶えられる。創り上げられる。
もう二度と後悔はしない。させない。それが俺の使命だ。
時巡りの砂がさらさらと落ちていく。色を変え、時空を飛び、音を運び、時の中で巡る想いを拾っていく。全ては真実だった世界。神話でもないお伽話でもない、今が紡いだ物語の先にある世界が、今未来へ向かって動き始めた。
了
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