暇堂見聞録 ~暇さんと都子さんの事件簿~
緒方あきら
第1話 日の出日の入り
誰が呼んだか暇堂。
『悩みは万(よろず)引受けます』
そんな貼り紙と口コミだけで、案外と人はここを訪れる。
都会のはしっこの吹きだまり。雑居ビルの一室で、今日も静かに時間を過ごす。
……さて、今日はどんな人がやって来るのかな?
【第一話】日の出日の入り
一年間勤めた会社が、あっさりと倒産した。
その報せをわたしは、会社を遅刻しそうになった日のオフィスの朝礼で聞いた。
誰かが押した電車の非常停止ブレーキボタンのせいで、始業時間ギリギリの出社をすると、滅多に社長室以外で姿を見る事もない社長から知らされた。
改札口で受け取った遅延証明書を持って、ああ今日もお局様に「出勤が遅い」とか「一年目で良い御身分ね」とか嫌味の言われて一日が始まるのだ――。
そう思っていた矢先の出来事であった。
とうさん、トウサン、父さんではなく、倒産。
頭の中で何度反復してみても、あまりにも突然で実感がまるでわかない。
目の前では、およそ百人の従業員全員を立たせて、社長の訓示が続いている。
「まことに断腸の思いでの決断ではありましたが、結果として当社は開業四十年を持ちまして、社の歴史に幕を下ろすことになりました」
いつもふんぞり返るばかりの社長が、頭を低くして声を絞り出す。
むかしはツルツルだった社長の頭に毛が乗っかりはじめたのは、いつ頃だっただろう。
「先月より社長のわたしを筆頭に、管理職の皆さんが金策に走ってまいりましたが、あちら側から返って来た答えはすべて、融資打ち切りでして……」
あらら、それは世知辛い。
他人事ならば同情するけど、わたくし事だとどうしよう。
世の中は不景気だ、日本は貧しくなっている。円高が加速して止まらない。
そこらじゅうから聞こえて来ていた世間の不況の話なぞ、わたしにすれば何も関係ないことだと思っていた。こんなしがない会社の、冴えない一社員にそんな一大イベントが起きるなんて思わない。
心のどこかで、そんな風に考えていたのかもしれない。
話が終わると、社長は経営陣に囲まれて逃げるように出て行った。
残りのお給料は日割りで払われますとか、今後のことを総務の先輩が話している。
うちの会社には労働組合なんてないし、話を一方的に聴くだけである。
先輩は「厚生年金はー」とか「健康保険はー」とか、まるで新入社員に優しく言い聞かせるような猫なで声で説明している。
(退職金なんて、出るワケないよね? うーん、ほとんど貯金なんてないんだけど)
他の社員同様、いくつかの書類を渡された。今後の手続きに関することだ。
つまり、わたしが知らないだけで我が社の閉店準備はちゃっかり進んでいたらしい。
ちらりと書面に目を落としてみても、もちろん景気の良い話などひとつもない。
およそ一年前、ここからわたしの社会人生活が始まるのだと見渡したオフィスは、すっかり知らない顔になっている。
書類を受け取った社員の中には、説明の途中で出て行ってしまう人もいた。
わたしはわたしで、家賃と光熱費と生活費とスマートフォンの支払いと――。
なんて、貯金額と今後の支出の計算で頭がいっぱいだった。
会社と家の往復だけの生活、とまではいかないけれどあまり無駄遣いはして来なかったから、ほんの少しの間は生活が出来る。
その間に次の会社を見つければいいよ、気軽なわたしが言う。
世の中厳しいのにそんなに上手く行くワケない、と意地悪なわたしが言い返す。
「うーん……」
「ねぇ都子(みやこ)、アンタこれからどうするの?」
同期の和田沙也加(わだ さやか)がなかば呆れた顔で聞いてくる。
「どうするって言われても、いきなり過ぎて頭がパニック」
「言えてる。うちってこんなにアッサリ沈んじゃう船だったのねー。あーあ、この一年なんだったんだろ?」
数名の社員に囲まれている先輩を見ながら、沙也加が息を吐いた。
先輩は耐えかねたように「我々は残務整理がありますので、皆様は帰宅してください」と告げている。先輩としたって、お手上げなのだろう。
「帰宅してください、だってさ」
鼻で笑って沙也加が言った。
先輩としては、このまま部下や後輩たちに不平不満を言われ続けるよりも、少しでも早く帰って欲しいのだろう。
私をいつもいびっていたお局様は、給湯室でお湯を出したまま固まっていた。
「とりあえず、机の私物まとめて会社出よっか?」
お局様を見ながら言ったわたしに、沙也加が笑顔で手を挙げた。
「さーんせーい! ここにいても辛気臭いだけだもんね!」
沙也加はずいぶん余裕そうだな、と思いながら机を片づける。思ったよりも私物が多くて、一年という歳月も決して短いものではないのだなぁ、などと感心してみたり。
ちょっとだけセンチメンタルに引っ張られそうな気持ちを、社長のズラ頭と抜け殻になっていたお局様を思い出してリセットする。
通勤カバンだけでは収まらず、有名お菓子店の大きな紙袋を拝借した。
書類関係はカバンに、袋にはペンやマグカップやカーディガンを詰める。
エアコンが効きだす六月ごろから活躍するはずだった上着は、四月にしてすっかりその出番を失ってしまった。
「都子ー、準備出来たー?」
先に荷物をまとめ終えた沙也加が、わたしの席にやってきて言う。
「うん、あと少し。それと、一応部長には挨拶して行こうかなーって」
「律儀だよねぇ都子は。もう関係ないただのオッサンじゃん?」
「でも、いろいろ仕事も教えて貰ったし」
「そのお仕事がなくなっちゃったんだけどね、アハハ!」
おかしそうに笑う沙也加とともに、直属の上司であった近藤部長のデスクを訪ねた。
部長は去年、ローンを組んで自宅を買ったばかりのハズだ。傍目から見ても、その顔色は冴えない。
「部長、一年間お世話になりました」
「あ、ああ三島都子くんか。君も大変だね。このあとのアテとかあるのかい?」
「いいえ、なにも。これから考えて行こうと思います」
「そうだね。そうするしか、ないよねぇ……」
部長の弱々しい笑みに心が痛む。
この人の人生の設計図に、会社の倒産なんていうものは描かれていなかったのだろう。
もちろんわたしだってそうだけど、住宅ローンを組んだばかりの妻子持ちの管理職と、実家から出てきて新入社員一年目のわたしではその重みが違いすぎた。
「あの、うまく言えないんですけど、頑張ってくださいね」
部長が真顔で数度頷いた。今にも泣き出してしまいそうな顔だ。
わたしは沙也加にそでを引っ張られるようにして、会社を出た。
「ねぇねぇ、都子はこのあと何か予定ある?」
「そんなのないよ、突然こんなことになっちゃったんだもん」
私物の詰まった紙袋を掲げて言うと、沙也加は「じゃあさ!」と明るい声音で言った。
「今から飲み行きましょ! 明るいうちから飲める店、知ってるんだ!」
「ええ、今から!?」
都子の突然の提案に、わたしは困惑してしまう。
「いいじゃない、平日の朝からお酒を飲むなんて滅多にない機会なんだから!」
「まぁ、言われてみればそれはそうだけど、理由が理由じゃない?」
「だからこそ、憂さを晴らさなきゃでしょ! 決まりっ!」
沙也加が半ば強引に決定して、結局わたしと都子は連れ立って駅前に出た。
「ここよ、ここ!」
都子に案内されたのは駅から少し歩いた開けた場所にあるビルの一階だ。確かにそこには『二十四時間、元気に営業中!』と書かれた赤と白の看板がある。
(二十四時間営業してたら、いつお店を掃除するんだろ?)
などとどうでも良いことを考えながら、都子の後ろに続いて暖簾をくぐる。
「いらっしゃいませー!」
そう年齢の変わらなそうな金髪の男性に、元気に迎え入れ席に案内された。
「お飲み物は?」
「ビール中ジョッキふたつ、よろしくー!」
「ちょっと、わたしビールよりサワーが……」
「いいのよ都子。女はこういう時はジョッキぶつけて乾杯するのよ!」
よくわからない理由で注文を通され、あまり好きでもないビールを待つ。
まだ朝の九時くらいなのに、店内には数人のお客さんがいる。ほとんどがお一人様で、カウンターで静かに飲んでいた。小さな呟きが、微かに聞こえてきたりもする。
「はい、生中ジョッキふたつ、お待たせしましたー!」
「わたし今日朝抜いてきたからお腹空いてるのよね、おつまみどうする?」
「わたしは朝ごはん食べてきたから、沙也加が好きなのたのんじゃって」
「はーい。じゃあ枝豆と、焼き鳥盛り合わせと、ポテトとー……」
思いのほか注文が続く。沙也加はどうもしっかり飲む気満々のようだ。
店員さんが去っていったあと、ジョッキを向かい合わせるように掲げて沙也加が言った。
「それじゃ、愛しき我が社の倒産を祝って、カンパーイ!」
「わたしたちのこれからに良い事がありますように……かんぱい」
沙也加は急ピッチでビールを平らげていく。
あまり乗り気はしなかったけど、確かに平日のこんな時間に飲むのも悪くない。
ちょっとしたイベント感がある。まぁそのイベントが最悪で大き過ぎるのだけれども。
「でね、経理の由香はさ。営業の並木先輩とデキちゃっててさぁ」
「えっ、並木先輩ってたしか結婚してたよね?」
「そうよ、不倫よ不倫! 入社一年目で目をつけられちゃって、遊ばれてたってワケ」
沙也加はビールのおかわりをしながら、会社の驚きの事情を次々と話していく。
今までは表に出せなかったことを大きな声で言えるのが、気持ちよいのだろう。
それにしても、あのふたりが不倫かぁ。「会社の縁は切れても、そっちの縁は続くのだろうね」沙也加が笑って、ちょっと皮肉なことを言ってみたり。
わたしの空になったジョッキを見て、沙也加がおかわりを促した。
「ほらほら、都子ももっと飲みましょうよ!」
「沙也加が酔っぱらったら誰が連れて帰るのよ。わたしまで酔うワケにはいかないでしょ」
そういって店員さんにアイスコーヒーを頼む。
出されたアイスコーヒーに、添えられたミルクとスティックシュガーを順番に流していく。
クリームはゆっくり、微かな円を描いて濃厚な琥珀色に混ざっていった。
スティックシュガーは砂漠に水を撒いたように、パァっと散って消えて行った。
新雪が透明なビニール傘に当たってふわりと溶けていくようで、その様子を見ているのが実は好きだったり。
コーヒーにじっと目を注いでいたわたしのことを、沙也加が心配した。
「なぁに都子、どうしたの? 都子もやっぱ落ち込んでるワケ?」
「ううん、コーヒーにミルクとお砂糖が混じるのを見てただけ、って言ってもそりゃあ誰だって多少は落ち込むでしょ。働いていた会社が、なくなっちゃったんだよ?」
「まぁ、それはそうなんだけどねー」
二杯目を飲み干した沙也加が、再びおかわりを注文する。
大してお酒が強いワケでもない沙也加の頬は、すでにファンデーション越しでもわかるくらいに赤味を帯びていた。
「実は、わたしさぁ。結婚しよっかなーって考えてて」
三杯目のビールジョッキを傾けながら、沙也加がつぶやくように言った。
「結婚? 大学のころからの彼氏さんと?」
「そうそう。もう付き合って五年目だし、わたしたちこれからどうしよっか? って話し合っていた時期なんだよね。それがこんなことになってさぁ。これってもう、神様のお告げかなーなんて」
なるほど、沙也加が倒産を知らされても落ち着いて――ううん、むしろはしゃいでいた理由がわかった。
彼女の中にあった迷いが、思わぬ形で吹っ切れたのだ。
それもおそらく、沙也加が選びたかったであろう方向に。
「沙也加が元気な理由、それだったのね」
「元気ってワケじゃないよ、そりゃあ今日はすごいビックリしたよ。したんだけど、そのあとにああ、これで決まりかなぁって思えて来ちゃってさ。そしたらストンと腑に落ちたというか、長い間の迷いが晴れたというか」
焼き鳥の串を箸の先で突きながら、沙也加が言った。
わたしはすっかり冷めたポテトを口に運んで、沙也加の言葉を待つ。
「都子はさ、そういうこと考えている相手いないの?」
「いないよ。わたしは今のところ彼氏募集中、ううん、募集もしてないけど」
「都子は顔はとっても良いのに、男っ気がぜんぜんないよねぇ。もったいないわよ、いつまでも若くないんだから」
「あっ、その言い方、抜け殻になってたお局様そっくり」
ふたりで笑い合うと、沙也加は「でもまぁ都子とこうして知り合えて、仲良くなれたし、会社にちょっとは感謝かな」と照れたように言った。
そういえば、毎日のように沙也加と顔を合わせることも、なくなるのだ。
お昼はいつもふたりでどこかに出かけていた、入社以来の友人である。
しみじみとそう言われてしまうと、嬉しさと寂しさがない交ぜになった気持ちに包まれる。
「会社は無くなっちゃったけど、またランチとか行こうね都子」
「うん、もちろんだよ沙也加。結婚のこと、うまく行くといいね」
わたしの言葉に、沙也加は眼に涙を浮かべながら四杯目のビールのおかわりをした。
「だーかーらーねー! 最新のえのき占いでもぉ! 今月は決断の時だってあってぇ」
「わかった、わかったから沙也加。あなたの家はここの二〇一号で合ってるのね」
「ピンポーン! 大正解ー! 都子ちゃんてばすごーい!」
結局わたしたちは、昼過ぎまで居酒屋に居座った。そして今、六杯目のジョッキを空けてうーんうーんと言い出した沙也加を担いで彼女の家まで来ている。
電車の中でも帰り道でも、沙也加は「これでいい、これでいいの」と自分に言い聞かせている様子だった。彼女には彼女なりの悩みがあるのだろう。
ずっとずっと煮詰まっていたものが、突然の会社の倒産で思わぬ形で弾けちゃった。
きっと、そんな感じ。
泊まって行けと言う沙也加をベッドに寝かせ、枕元に水のペットボトルと頭痛止めを置いて部屋を出た。カギをかけ、それをドアポストに投函しておく。
「沙也加は結婚か。寿退社ならぬ、寿倒産ね」
見知らぬ道を通りながら空を見上げて、そんなことをつぶやいてみたり。
駅に続く大通りを避けて、ちょっと古びた路地を歩く。知らない町をあてどもなく散歩するなんてこと、もうずっとしていなかったな。
でも、今はちょっとくらい良いだろう。
何と言っても、わたしには働く会社も頼れる恋人もいないのだ。
知らない道をのんびり気の向くままに歩くくらいのことしたって、きっとバチは当たらないだろう。
「本当は、今すぐ職安に行く支度するなり求人誌買うなりした方が良いのだけど」
一日くらい、良いだろう。沙也加が作ってくれた休日だと割り切るのも良い。
わたしは紙袋とカバンを持った両手を大きく伸ばして、思い切り伸びをした。
空が真っ青に晴れ渡っていて、お日様がやわらかに降り注ぐ午後。
「これが休日の一日だったら、どんなに良かっただろう」
ふと、伸ばした右手が何かに触れた。
目を向けると、電柱の横に貼られていた紙が風に吹かれて触れて来たようだ。
『悩みは万(よろず)、引き受けます。 暇堂』
紙には、それだけのシンプルなフレーズが書かれている。
「悩みを、引き受ける? 占いか何かかな」
一度は無視して通り過ぎたけれど、わたしはもう一度戻って紙を見直した。
「これ、手書きだ。それも、とっても優しい字」
繊細な筆運び、丁寧な字体。墨汁にムラはなく、落ち着いて書かれている。
書家などの、達筆過ぎて逆に読めないとかそういう拘りもない。
ただただ、見る人が読みやすいように造られた一枚。
書き手の思いがこもっている、生きているような文字の羅列。
「書道でも習っていたのかな。なんだか、気になっちゃうけど」
この字を書いたのは、いったいどんな人だろう。わたしは引き寄せられるように、その紙が記す場所へと足を運んだ。
三階建ての小さな雑居ビル。一階は何か飲食のお店のようで、今は閉まっている。
郵便受けを見ると、二階のふたつの部屋に『暇堂(いとまどう)』と書かれたポストが並んでいた。
「なんで同じ場所でふたつもポストを使っているんだろう?」
奇妙な場所だ。くたびれたビルだけど、掃除はきちんと行き届いている。
どこか怪しい感じがするのに、そのくせ心をワクワクさせる何かがある。
――きっと、あの字がわたしを呼んでいるんだ。
沙也加の言葉を思い出す。
今月は決断の時。わたしと沙也加の星座は同じである。
「よし、行ってみよう」
大きく息を吐いて、わたしは階段を昇り始めた。
コンクリートの階段が、コツコツと音を奏でる。なぜか、そんなことすら楽しい。
非日常的な空間が、突然のトラブルで揺れている気持ちにちょうど良いのかもしれない。
二階にあがると、階段を中央に左右に部屋がひとつずつあった。
右側の部屋に踏み出す。ビルにはめずらしく入り口が木造の引き戸になっている。
『ただいま、閉店中。 暇堂』
戸に吊るされた文字に、わたしはため息をついた。
「冒険も、おしまいかな」
念のため、わたしは左側の部屋も覗いてみることにする。
するとそちら側は、綺麗な装飾の洋風の扉が姿を現した。雑居ビルにはあまりにも不似合いなそれは、おそらくビルが出来た後に特注でもしたものであろう。
そこには『開店中。 暇堂』とある。
これでは郵便受けと一緒だ。なぜ同じ店がふたつも並んでいるのか。
「こっちの暇堂は、開店中なんだ……」
向こうの暇堂は閉まってて、こっちの暇堂は開店中。
意味は、わかる。意味はわかるが、ワケがわからない。
とにかく、こっちは開店中なのだ。迷っていてもラチがあかない。
わたしは胸の高鳴りを感じながら、綺麗な扉を少しでも傷めないように静かにノックをした。
固い金属に触れる指先から、緊張が伝わってくる。
短い静寂。
もう一度ノックをしようと腕を上げかけたとき、扉の向こうから耳によく馴染む透き通った声が聞こえた。
「開いているよ」
高くも低くもない、中音域の若い女性の声。
誘われるようにして、わたしは扉に手をかけてそっと引いた。
しっかりとした重みを感じながらドアを開ける。
そこには、都会の端っこの雑居ビルには似つかわしくない優雅な光景があった。
天井で煌々と輝くシャンデリア。
照らし出される景色は木目調の美しい棚とモダンなクリムゾンレッドのカーペット。
部屋の中央にある四角いテーブルには彫刻が施されている。
ベージュのカーテンは陽射しを受けてキラキラと光を放っていた。
そのカーテンの煌めきに包まれるように、デスクの前に一人の女性が立っている。
黒い細身のズボンに、白いカッターシャツ。わずかにまくった袖の折り返しはグレーでモノトーンになっている。
首元には黒い紐に銀のモチーフをあしらったループタイを巻いていた。
「ようこそ、暇堂へ」
眼。
特徴的な、切れ長の美しい眼に微かに蒼みがかった涼しげな瞳。
好奇心旺盛そうな明るさを宿し、包み込むような安心感を与える眼差し。
腰の近くまである長い髪から見え隠れするその眼に、わたしは吸い寄せられそうになってしまう。
「さぁ、どうぞ。そこにかけて」
テーブルを指さし、薄い唇が笑みを浮かべる。
細く長い指が、すっとテーブルとイスを交互に泳いだ。
わたしは操られるように「失礼します」と告げて靴を脱いで暇堂の中に入り、腰掛ける。
「さてさて、今日はどういったご用件かな?」
透き通りそうな白い肌にゆるりとした笑みを湛えたまま、女性が問う。
まるで人形のように整った顔と服装に、わたしはつい言葉を失ってしまった。
歳のころは、私より少し上くらいだろうか。
まるで年齢さえ超越してしまったような美しさに、わたしは魅入られてしまう。
「おっと、失礼。お客様に何もお出ししないで本題とは、あまりに無粋だったね。コーヒーで良いかな? それとも紅茶がお好みかい?」
淀みなく流れ出す言葉は、まるでオルゴールのように耳に心地よい。
声は高すぎず、低すぎず。耳にすっと馴染むようだ。
わたしは突然の選択に迫られて「あの、コーヒーを」と答えるのが精一杯だった。
「では、少々お待ちを」
イタズラな表情をちらりと見せて、女性が棚からカップを取って奥へと去っていく。
あの人が、暇堂さん?
『悩みは万 引き受けます』
筆で書かれた文言を思い出す。
あの字を書いたのは、彼女なのだろうか。
さらりと優雅にサインを書いていそうな容姿が、あの古風でしっかりした字とひどくアンバランスだ。
棚には食器棚と本棚があり、どちらも几帳面に整っている。
生活感を感じさせない部屋に、ふわりとコーヒーのかおりが漂い始めた。
やがて、カップと受け皿を両手に持った女性が静かに戻ってくる。
「お待たせいたしました」
「この香り、マンデリンですね」
苦みとコクが特徴的なコーヒー豆。
時間もかかっているから、濃い目に作ってあるのだろう。
「ご名答。僕はコーヒーはマンデリンが好きでね。お口に合うと良いけれど」
「父がコーヒーを淹れるのが好きで、なんだか懐かしい香りです」
一人称が僕でもまるで違和感がない。性別なんて置いてきたような人形のような顔。
嗅ぎなれた香りのおかげで、少しずつわたしもリラックスしてきた。
目の前に置かれたコーヒーには、角砂糖がふたつ添えてある。細かな配慮だ。
ゆっくりと、角砂糖を蒸気をあげる珈琲の海に沈めていく。
端っこが琥珀色に染まる角砂糖が、するりとカップの中へ舞う。ひとつ、ふたつ。
添えられたスプーンで一回しだけして、苦みとコクと甘さのハーモニーを味わう。
ほうっ、と無意識に息が漏れた。
束の間の静けさと、奇妙なコーヒーブレイク。
カップから顔をあげると、向かい側に座った女性がコクリと頷いた。
「貼り紙を見て、来たのですが」
わたしの言葉に、女性は嬉しそうに笑う。
「それはなにより、精魂込めて書いた甲斐があったよ。いやぁ、嬉しいね」
「あの、やっぱりあの張り紙はえっと、お姉さんが書いたものなのですか?」
ハッと気付いたように、女性が可笑しそうに手を小さく叩いた。
「いけないいけない、そういえば、まだ名乗っていなかったね。看板があるのだから伝わるだろうなんて楽をしちゃあいけないね。僕は風月暇(かざつき いとま)、暇堂と呼ばれているよ」
「暇さん、ですね。はじめまして、三島都子と申します」
「三島都子、良い響きだね。よろしく、都子さん」
えええっ、いきなり下の名前で呼ばれちゃった!
もしかしてこの人、ちょっと距離感近い?
いや、わたしも暇さんて呼んでるけど、それは屋号というかなんというか。
屈託のない笑みに、心が妙に揺れてしまう。でもそれが心地よいような……。
だけど、何か違う。
あの特徴的な眼が見ているのは、わたしであってわたしではないような気がする。
「それで、都子さん。今日ここに来た理由を聞いても良いかな?」
「はい、あの……張り紙に『悩みは万 引き受けます』とあったもので」
「つまり、自分では抱えきれないお悩みをお持ちなのだね」
眼が僅かに細められた。まるで何かに期待しているような――。
そうか、この人はわたしを見ているんじゃない。
わたしの『悩み』を見ようとしているんだ。
見守るようでもあり、観察するようでもある。興味に溢れた活き活きとした眼。
その眼差しは今、わたしの悩みに焦点を当てている。
「はい、その、ちょっとした……いえぜんぜんちょっとしてないんですけど……」
その眼力の前で会社が倒産しましてとは言い出しにくく、わたしは口ごもってしまう。
それに、言葉にしてしまえば会社の倒産という事実が胸に深く突き刺さりそうだった。
「わざわざこんな辺鄙なところまで来てのお悩み、ぜひ聴きたいけれどね」
「ですけど、あのー、悩みを『引き受ける』とはどういうことでしょうか?」
わたしが首を傾げて見せると、彼女は軽く首を竦めた。
「うーん。どのようなものなのだろうね。都子さんは、どう思うんだい?」
「えっ? いえ、わたしに聞かれましても……」
ここでまさかの逆質問。
質問を質問で返されてしまうとは――。
「そうですね、えーっと、カウンセリングのようなものなのかな、と」
思いつく範囲で考えても、悩みを引き受けるとはそういうことだろう。
暇さんは感心したように頷いた。
「なるほど。そうかもしれないし、違うかもしれないね」
「えっと、その、御冗談をおっしゃってるんですか?」
「いやいや、僕はいたって大真面目さ」
ループタイを締めなおす仕草をして、暇さんが言う。
「それなら、ここがどういう場所なのか教えてください」
「ここかい? ここは暇堂。あらゆる悩みを引き受ける、世界で唯一無二な場所さ。それをどう見るか、どう感じるかは、都子さん次第かな」
長く美しい黒髪をされりと撫で、暇さんが言った。
髪は滑らかに流れ、艶があり見とれてしまう。
「……よくわかりません」
「うーん。わからないか、そうか」
暇さんが自分の前髪をもう一度触れたあと、壁際に指を向けた。
「じゃあね、あの壁に掛けられている絵があるだろう?」
「あ、はい。絵画がありますね」
「あの絵は、都子さんにはどう見えるかな?」
問われて、じっくりと絵に視線を向けた。
地平線に、太陽が沈んでいく様が水彩タッチで描かれている。
絵心のないわたしには上手いのか下手なのかも、よくわからない。
「ええっと、地平線に太陽が沈んでいく絵ですよね。夕焼け、でしょうか?」
「そう見えるかい?」
「はい、夕焼けかなと思うんですが……違うんですか?」
暇さんが嬉しそうに、白い歯を見せて笑みを浮かべ答える。
「僕にはね、あの絵が太陽が昇ってくる……つまり朝焼けの絵に見えるんだよ」
「はぁ……確かに、そう言われればそう見えないこともないですけど」
コーヒーをブラックのまま啜った暇さんが、楽し気に言う。
「つまり、物の見え方は人それぞれなのさ。正解なんて、有って無いようなものなんだ」
わたしは狐につままれたような気持ちになり、眉間にシワを寄せる。
「だからね、例えばあの絵の作者が『これは日の出の絵だ』と言ったところで、見た人間が日の入りに見えたら、その人にとってこの絵は日の入りの絵にしかならない」
「あの、暇さんはこの絵をお買いになったんですよね。タイトルはついてなかったのですか? 絵に名前がついていれば、日の出か日の入りかわかりますよね?」
わたしの言葉に、今度は暇さんが眉間にシワを寄せる。
「それは非常に面白くない提案だよ。うん、とても面白くない」
「ええっ、それはどうしてですか?」
仏頂面のまま、暇さんがテーブルに指をコンコンと当てた。
「だってね、君。都子さん。例えば或る絵描きが紫陽花の絵を描いたとするよ? けれども、その紫陽花の絵を見た人には、描いてあるものがどうしても紫陽花だと伝わらない。仕方が無く横に文字で、これは紫陽花の絵です。なんて書いたら滑稽も良い所だろう。情けなくって涙が出るね。何かを示すだけの意味もないタイトルなんて言うのは、それと同意義だよ」
口調はとぼけているが、顔はいたって真面目に暇さんが語る。
わかるような、わからないような節回しだ。
わたしはおかしな方向に進む話の、軌道修正を試みることにする。
「それはそうかもしれませんけれど……。あの、それとここがどんな場所か、なにか関係あるんですか?」
暇さんは、大げさなほどに頭を振って頷いた。
「関係あるんだよ。大有りさ。あの絵がどう見えるかも、この暇堂をどう感じるかも同じさ。僕は君の、都子さんの話を聞く。悩みを引き受ける。その結果、都子さんはカウンセリングを受けた気分になるかもしれない。ならないかもしれない。だからここがどういう場所かと聞かれれば、ここは暇堂です、としかいえないんだよ。暇堂をどう思うかは、君の自由だ。暇堂なんていう屋号は、そういう点ではなんの意味もないのさ。まぁ、僕はひどく気に入っている屋号なんだけどね」
風月暇さん――。
非常に言葉を大切にしているというか、相手の感覚を重視しているというか……。
とにもかくにも、彼女は大いに変わり者のようだ。
「ええっと、とにかく悩みは聞いてくださるんですよね?」
「もちろん。ここは悩みを万引き受ける、暇堂だからね」
「じゃあ、あの、きちんとお仕事でなされてるんですよね? 料金とかはどれくらいなのでしょうか?」
ふむ、と間を置いた暇さんが、髪をくしゃくしゃとかいた。
長い髪が揺れるたびに輝きを放つ。まるで宝石を宿しているようだ。
「都子さんの悩みは是非ともお聞かせ願いたいね。しかし、料金か。そうか、そうだなぁ……。いくらにしようか?」
「えっ、いえわたしに聴かれても困るのですが。時間で決めたりとか、なにかしら料金設定とか、そういうものはないのですか?」
「それが設定は無いんだよ。困ったね」
この部屋を見る限り、暇さんはお金に不自由していなさそうだ。
ということは、相談料はとってもお高かったりするのではないだろうか。
「お伺いしてこう言うのもアレなんですけど、あまり高額になりそうなら、今回はコーヒー代だけで済ませて頂きたいのですが」
もう非日常感は充分に味わったという気もするし、わたしは少し引いてみることにする。
すると暇さんは目を見開いて驚愕の表情を浮かべた。
「なるほどなるほど、そう来たか。ははぁ、うん、都子さん。君は非常に興味深い事を言うね。君は悩みを持って、自分では処理できない話を抱えてわざわざこんな所まで来たというのに、今度はお断りときたものだ。これは想定外、急転直下だよ」
「いえその、予算的なものもありまして。とにかく、高額なご料金を請求頂いても困ってしまいますので、目安だけでもご提示頂ければと」
「あっはっは。まぁまぁ、確かにそうかも知れないね、わからないものは怖いからね」
これって、もしかしてはぐらかされている?
いつもならそんなに気にならないかもしれないけど、今日はわたしも気持ちがささくれている。暇さんの飄々とした態度を上手に受け流せない。
こんな綺麗な人とコーヒーを飲んでお話をした。それだけで良い気がしてしまう。
「あの、それではわたしは、コーヒー代だけお支払いして失礼します」
「おや、都子さん、君は少々せっかちだね。ふむ、うちは悩みは万引き受ける、暇堂だ。なにも話されずに帰られちゃあ、屋号がすたるというものだ。今日のところは無料で話を聴こうじゃないか」
立ち上がりかけたわたしを制するように、暇さんがそう言った。
だけどわたしの疑いはどうにも晴れない。相手が美形過ぎるせいか、妙に警戒してしまっているところがあった。
「無料? 本当ですか?」
「ああ、誓って」
「誓うって、一体何に誓うのですか?」
「おや、都子さんはなかなか細かいね。なんでもいいよ、そんなものは」
それから暇さんは神様とか仏像とか昔のお坊さんの名前を羅列して、誰がいいかな? なんて聞いてくる始末。わたしは少しずつ、暇さんのペースに乗せられていく。
「ほらほら、そんなことより。こんな場所までわざわざ何かを話しにきたんだろう? そのわざわざここに話しに来た内容のほうに僕は興味があるんだ。さあ、話してごらんよ」
「わかりました」
一度コーヒーで唇を潤してから、気が重い話を口から出す。
「……実は、今日、勤めていた会社が、あの、いきなり倒産いたしまして……」
「うんうん。それで?」
それで、って……。それが悩みなんだけどなぁ。うーん、この人は……。
「入社して一年目でした、ちょうど丸一年になろうかという時です。そこそこに嫌なこともあって、それなりに良いこともあって、でも荷物を片づけていて気付いたんです。わたし、この会社のこと結構好きだったんだなって」
「いやぁ、世知辛いものだね。世の中というものは。親しんだ場所とか慣れた場所ってやつは、その大切さを無くしてから気付くものだよね。それでそれで?」
暇さんが興味深そうに身を乗り出す。
長い黒髪が揺れ、ふわりとやわらかな香りに包まれる。
顔が、近い……。困惑しつつも、わたしはわたしで倒産を言葉にしたことでより実感した喪失感の大きさに気持ちを削られる。
「もう、どうしていいのか。自分はなんのために会社の仕事を一生懸命勉強して……ううん、中学校も高校も大学も、ずっとマジメに勉強してきてここまで来たのに。お局様にいびられたって、負けるもんかってお仕事で成果を出したりして。そういう、今まで自分で選んで生きて来た、頑張って来た人生も、こんなに一瞬で消えちゃって、よくわからなくなって。そんな時に、あの貼り紙を見てここに……」
思いがあふれ出す。
お局様に意地悪されて、嫌な思い出ばっかりだった。
そのはずだったのに。そんな風にされてまで、わたしはあの会社に食い下がるくらいには――自分の会社のことを思っていたんだ。気に入っていたのだ。
「それでここに? うーん……」
暇さんのよく動く目が、中空を見たまま止まる。
「あの、わたし……言ってること、何かおかしいですか?」
「いや、いいんだ。取り乱した君も含めて話を聞いてこそ、悩みを引き受けるというものだ。それはそれでいいのだけれど」
手のひら一度開き、ポンと閉じて暇さんが続けた。
「つまり君は、都子さんは倒産のショックで何もかもわからなくなって、今までのこともなんだったんだろうとなってしまい、それでここに来たということかい?」
「大雑把にまとめれば、そうですね。そんな時、電柱にあった貼り紙の字がとても優しくて。ついつい足が向いたというか」
「そうか。でもね、僕も都子さんがどうしていいかなんて、まるでわからないよ」
暇さんが、至極真面目な顔で言う。
えっと、悩みを引き受けるっていうフレーズはもう飛んで行っちゃったのだろうか?
「わからない、と言われるとわたしもますますわからないですけど。じゃあ、暇さんはどう思いますか? だって、こんなの理不尽でしょう? わたしはわたしの場所で、わたしなりの精一杯をやって居場所を作って来て、色んなことを覚えて、学んで、光が見えて来たと思った矢先にこんな仕打ちって」
「落ち着くと良い。そうだね、ひとつ尋ねよう。都子さんには僕のことがわかるかい?」
不意に、暇さんが話題を変えた。
暇さんのことがわかるかと聞かれても、分かるはずがない。
顔が良くて変わり者で、おしゃべりなお姉さん――とでも言えばいいのだろうか。
「急に何をおっしゃるんですか? わかるワケないじゃないですか」
「そうか、わからないか。では、それはなんでだい? なぜ都子さんは僕をわからない?」
「それは、初対面ですし事前に何かで暇さんを知っていたワケでもないですから。まるっきり、わたしたちははじめましての赤の他人じゃないですか。わからないですよ」
我が意を得たり、というような表情で、暇さんが指を鳴らした。
「その通りだ、ご名答。きちんとわかっているじゃあないか。その言葉を、そっくりお返ししよう。なんでわからないのかと問われれば、僕は都子さんじゃないから、わからないのさ。残念ながら我々は、はじめましての赤の他人だ。だから、わからないよ」
「ですが、悩みを引き受けるのが、暇さんのお仕事なんじゃないんですか?」
「そうだよ。けれどね都子さん。ここで僕が、ああ、辛かったね! 社会は残酷だ! 君はあまりにもかわいそうだ! でも、次はきっとうまくよ。うまくいくから、大丈夫! 元気を出して、就職活動がんばって! ……なんて適当な言葉が欲しいのかい?」
確かに会社が倒産した人に対するテンプレートのような言葉だけど。
わたしが欲しいのは、そういう言葉じゃない。
ううん、そもそもわたしは何か言葉が欲しいのだろうか。
「それは、違います。でも、何と言いますか、わたしが、今までの一年がどうしてこんなに報われないのか、倒産なんていう無機質な結果以外の何かが欲しい気がします」
「なるほどねぇ。でもそこまでわかっているのなら、本当は自分の中で答えがすでに出ているんじゃないかなぁ?」
暇さんは、真面目なような遠くを見るような顔で話す。
あの澄んだ大きくて綺麗な瞳には、今何が映っているのだろう。思わず見とれて、じっと暇さんの顔を見つめてしまう。
「悩みを引き受けるとあったから、来てみたんです。わたし、悩んでいると思います。そんなにあっさり答えが出ていたら、ここにわざわざ来たりしませんよ」
「ふむ、都子さんはすべてが――というと大袈裟か。会社のこと、それに連なる今後の未来。そういうのがわからなくなり、人生を続けていくこともままならない。そういうことで、悩んでいるんだね」
概ね間違っていない。悩みとして言うなら、そういうことだろう。
そしてそこに、深い思い入れが出来始めた会社の突然の倒産という困惑も混じっている。
「だけど、都子さんはここ、暇堂にきている。もし本当にこれからの未来を続ける気が無ければ、今頃はどこかの高層マンションの屋上にいるかもしれないし、どこかでロープを買っているかもしれない。けれど、都子さんはそういった事をせずにここにいるんだ。それは、わかるよね?」
極端な例を出すものだなと思いながら、わたしは曖昧に頷いた。
「悲嘆にくれていたとしても、死ぬということは考えていない。ということですか?」
「そうだね。都子さんはここに来るまで沢山の葛藤があっただろうね。迷いもしただろう、こんな変なところに入っていくのもね。そして、迷いの中にはもしかしたら死という選択肢もあったかもしれない。けれど都子さんはここに足を運んだ。ここは悩みを引き受ける場所、暇堂だ。それがどういう意味かわかるかい?」
いきなり死と言われると、困惑してしまう。
ただ、突き詰めた極論を言えばそういう選択肢もあるのかもしれない。
でもこんなけむに巻くような言葉で、彼女は何が言いたいのだろう。
「どういうことか、いまひとつわかりません」
「では、教えよう。まず君は、都子さんは根本的な答えは、もう出ているんだ。生きる、ってね。ただ、会社が倒産して、これからどう生きるかを迷っている。もっと言えば、どう『自分の力で』生きていくのかを迷っているんだ」
「どうしてそんなことが、暇さんにわかるんですか?」
自分の力で生きていく――。
一度実家に帰ろうかという考えも脳裏をよぎったわたしには、新鮮な響きだ。
「まずね、さっきも言った通り死ぬつもりなら、こんなにわかりにくい、張り紙だけでロクに地図もない場所まで足を運ばず、違う所に向かっているさ。そして、生き方に迷っているのなら、きっと職業安定所なり求人誌なり教会なり御寺なりに駆け込んでいるよ」
「職安とハローワークはちょっと迷いましたけど……どうして教会や御寺なのですか?」
暇堂さんが、ニヤリと笑う。
涼しげな眼をして、まるでイタズラに成功した子供のような顔だ。
ころころと変わる暇さんの話題と表情に、わたしは翻弄されっぱなし。
「そこに『教え』と『救い』があるからさ。極端な話だけれども、人生の行き方に教えがあれば、とても楽なんだ。人生に悩めば教典を開き道を見つけ師に教えを危機、その道や教えにのっとり動けばいい。ああ、神はこうおっしゃっている、こうすればいいんだ、なんてね。けれど、都子さんは自分の意思でこのわかりにくい場所まで来て、ぶつぶつと、まあ弱音を言いにきたわけだ」
「なんだか、宗教を否定しているような言い方ですね」
わたしが言うと、暇さんは首を左右に振った。
キレイな黒髪が、ふわりと揺れる。
「まさかまさか。僕は宗教には敬意を払っているよ。わからないことや超越した存在、どうにも出来ないことや奇跡を起こす者を『神』とかそう言ったものに位置づけ、長い長い歴史の中で数えきれない人間を導いてきた功績は、間違いなく素晴らしいものだ。ただ、今ここで宗教談義をするつもりはないけれどね。でもね、想像を絶する年月を息づき、科学が発達した現代でもまったく色褪せぬ教えには、学ぶこともきっと多いはずさ」
「学ぶことは多いのに、わたしは宗教に頼ってはいけないのですか?」
まぁ、もともと頼るつもりはないのだけれど。
わたしは、暇さんがこんな回りくどい話をする真意が知りたかった。
「頼ったって、いけなくないよ。生き方にこれはいけない、これが良いなんてあまり無い。もちろん法律というルールやシステムがあり、ある程度の倫理観も欲しい。でもそこから外れなければ、どう生きようが自由だ。マナーとかエチケットとか、最低限のものは守って欲しいとは思うけどね。ただ、宗教は都子さんにはどうやら向いていないようだ」
「暇さんがそう思う理由を、教えてください」
暇さんが、じっとわたしの眼を見る。
吸い込まれそうな瞳に対して、なんとか眼をそらさないようにした。
「都子さんは、自分で歩くのが好きなのさ。散歩も好きかもだし、生き方そのものもね。だからこんなところまでやってきているんだ。考えてもごらん、悩みを引き受けてくれるからって、貼り紙だけでこんな雑居ビルの二階まで足を運ぶ人がどれだけいるか」
それは、そう。わたしもついつい、あの字に導かれただけ。
普通に考えれば、あのおかしな文言でここを訪れる人は少ないだろう。
「宗教は人生の道導べであったり、地図の役割を果たす部分も多々ある。そうして、経典を読み祈る事が大事な人間もいれば、祈りに使う時間より、その時間を自分の手を動かして何かしていたい人間もいるワケだ」
「はぁ。確かに、わたしは何かに祈ったりする習慣はありません。何に祈っても変わりはしないと思っています。あ、ときどきお参りとか、初詣は行きますし願掛けもしますけどね! でも、救ってくれる人も神様も、そういえば今までもいなかったかも」
暇さんは「そうだろう」と相槌を打ってなおも語る。
「ここで大事なのは、祈りを大切にする人を否定してはいけないことなにだけれどね。何が貴重か大切かは、人それぞれだからね。けどまぁ、都子さんはそうして自分で自分の人生を歩いていきたいワケだ」
「そうですね。今までずっと、わたしの力で生きる! ってほど強い決意ではないにしても、結果として、そうして生きてきましたから」
言われてみればそうだ。
わたしは自分で高校を選び、大学を選び、会社を選んできた。
もちろん両親が選ばせてくれた、という環境はあるけれど、自分の足で歩いて来たんだ。
「ふむ。そうして、都子さんはその歩みをここでやめるつもりもない」
「暇さんの言葉からすると、そういうことになるのかもしれませんね」
「あれ、ずいぶんと僕任せの言葉じゃあないか。それなら、これからは違うのかい?」
「まだ、わかりません。今日色々あったばっかりなので」
私が苦笑を浮かべると、暇さんも小さく笑った。
「いいや、都子さんはわかっているよ。人間はね、わからないものには、理由をつけるものさ。さっきの『神』とか、『奇跡』とか『超常現象』とかね。過去の事例を紐解けばきりがないほどだよ。しかし、世の中にはわからないことを抱えた時に、答えを外に求める人間と、内側……つまり自分で見つけようとする人間がいるんだ。これは、大ざっぱ、かつ非常に乱暴なまとめ方ではあるけれどね」
「わたしはつまり、内側……自分で答えを見つけようとする人間なのですか?」
「少なくとも僕はそう見たよ。君はきっとそうなのだろう」
極論だ。極論だけど、その通りだ。
もしもわたしが倒産を苦に死ぬつもりなら、ここには来ない。
教えに頼るという発想もない。
上司にすがりついて、見知らぬ会社を紹介してもらうという発想もなかった。
答えは、行く先は自分で見つけたい。
わからないものには、自分なりの理由をつけたい。
「都子さんは自分がツイていない、不幸だと理由をつけた。けどそんなツイてないことに、心の底では納得がいかないのさ。そして、突然やってきた不幸によって何かを諦めてしまうタイプの人間でもなかった。とすると、答えは明白だろう?」
「答えなんてそんな簡単に出ているのなら、ここには来ないと思うのですが?」
わたしの言葉を聞いて、暇さんはさわやかに笑った。
いったい、この人はいくつの笑顔を使い分けるのだろう。
その仕草や表情のひとつひとつが流麗で、わたしは何度も目と心を奪われてしまう。
「でも、都子さんはこれからも生きるのだろう?」
「それは……そうですね。でもどうやって生きていこうかも悩みで」
「それはあまりに小さいことさ。なぁに、どうにでもなるものだよ」
「他のお話は長かったのに、この話はずいぶんと短く素っ気ないんですね」
あっけらかんとした物言いに、わたしはかすかに息を噴き出した。
暇さんは「とんでもない」と言って手を開く。
「まったくもってそんなことはない。僕は誰にでも優しく誰にでも公平だ。だけど、都子さんは生きるか死ぬかの答えなんて、とっくに出していた。生きるか死ぬかを決めたなら、生き方だってさくっと決めていけるさ」
「でも、今の社会はそんな簡単には……」
言いかけて、言葉を止める。
簡単じゃなくたって、わたしは就活をするだろう。
わずかにあった終活をする気持ちなんて、今はどこかに消え去っている。
「いや、そう……ですね。うん。暇さんの仰る通り、そうなんでしょうね」
「そうそう。きっと、そうなんだろうねぇ」
「暇さん、ありがとうございます。なんにもスッキリしないような話だったのに、なんだか気持ちのつかえがとれた気もします。不思議な時間でした」
わたしの言葉に、暇さんはループタイを少し緩めて微笑む。
「スッキリしない話か。褒め言葉だね。ありがとう」
「いいえ、こちらこそありがとうございます」
「ひとつ、与太話に付き合ってくれるかな?」
突然出た暇さんからの提案に、わたしは浮かせかけていた腰をイスに戻す。
「はい、なんでしょうか?」
「いいかい? 人間って言うのはね。思考が早過ぎるのさ」
「思考が、早過ぎる?」
「そう。脳はものすごい速度でとんでもない情報量を処理しているんだ。味覚に嗅覚、触覚視覚に聴覚。それだけでも大忙しなのに、人間て生き物は文明を作り出してしまった。そして、そこに社会が生まれ、社会生活が出来上がる。すると人間関係のいざこざや仕事の悩み、家族との関係、友人とのやり取り、ニュースで流れる世界の最新情報……。上げだせばキリがないほどの情報を、脳はひとりで頑張って処理しているんだ」
暇さんが自分の側頭部をツンツンとして、言った。
「それでも脳は頑張り屋さんでね。それらをきちんと整理し、滞りなく処理していく。ところが、そんな脳でも思わぬことが起きると困ってしまう。ハプニングとか、トラブルとか、事件とかね。そうすると、時に思考が渋滞したり、また逆にループしたりしてしまう。可哀そうに脳は働き者だから、困った状況になればなるほど頑張ろうとしてしまう。でもね、ひとりの人間に抱え込めるものなんて、やっぱり限界があるのさ」
脳がトラブルに合う。まさに今のわたしのことだ。
沙也加が居酒屋に連れて行ってくれたおかげで少しの間忘れることが出来たけど、何も解決はしていない。それだけ、頭の中はどんどん詰まっていったとも言える。
「脳が渋滞したり、ループしたりするんですね」
「そう。渋滞はイメージ出来るだろうけど、ループもするんだ。問題Aを考えているのに、問題Bがやってくる。Aを片づけようにもBが存在を主張して脳の真ん中に居座る。仕方がないからBを優先してやると、Aがこっちはまだかと言い出して……なんてね。これが二個ならまだ可愛いけど、人が生きているとこのループが三つ四つ、それ以上になってしまうからね。混乱も悩みもするってものだよ」
「はあぁ、なるほど。それはなんとなくわかります。身に覚えありというか」
仕事が次から次へとやってきて、優先順位はすぐに迷子。そのうえお局様には気を配る。
そんな生活をしていると頭の中がグルグルしてくることがあった。
あれは、脳がループしてしまっていたのか。
「ループも渋滞も、多くの場合はゆっくり時間をかけて解消されていく。けれども、時にそれが解消されない事態に陥ってしまうことがある。特に、自分の力だけではどうしようもないときはそんな風になりがちだ。そこで、暇堂の出番なのさ。僕はちょいと思考を違う方向に向けて、くだらない長話をして、シンプルな案を提示してみせる」
「はぁ、そうすると、どうなるんですか?」
「脳の交通整備が出来るんだよ。渋滞は緩和されて、ループは抜け道を見つけていく。これしかないって思っていた思考が、こんな考えもあるんだって気付いたり、引っ張られたりする。とにかく、パンパンにつまった脳の中にまず隙間を作り、すこしだけ焦点をズラしてしまう。そんな風にちょっと掻きまわして、そのあとわかりやすい交通誘導の助けをしてあげる。そんなとこかな」
なるほど、詰まりきってしまった頭の交通整備。
無駄で長い、偏屈な話ばっかりと思っていたけど、あの話にそんな意味があったなんて。
「そこまでお考えだったのですね。これが、悩みを引き受けるってことなんですか?」
「人によるけどね。切羽つまって泣きながら来た人に今のやり取りはちょっと難しい。でも、落ち着いている人には割りと有効だったりもするんだ。どうだったかな?」
「はい、ちょっと冷静になれました。ありがとうございます。あの、お代は?」
わたしがカバンに手を伸ばそうとすると、それを制するように暇さんが言う。
「言っただろう、お代はいらないって。コーヒーも、今回はおごりにしておくよ」
「ええっ!? こんなにお話して頂いて、本当にそれで良いんですか?」
「二言はないよ。それに都子さんは最初から本当は答えをもっていた。僕に話そうが、壁に向かって話そうが、紙に書き出して考えようが、きっと行き着く先の答えは同じだったよ。ここまでやってきた手間と交通費が申し訳ない位さ」
カバンに伸ばしかけた手を止めて、わたしはまじまじと暇さんの顔を見た。
「本当に、暇さんは不思議な方ですね」
「あっはっは! 自覚はないんだけど、良く言われるよ。変人のほうが多いけれどね」
会社は倒産してしまった。でも、わたしは生きる。
そのために仕事を探す。出来ることを考える。
考えたら行動に移し、成功するまでそれを模索し続ける。
突然告げられた倒産というショッキングな事態に混乱していた頭は、いつの間にかすっかり冷静さを取り戻していた。
わたしは立ち上がり、暇さんに一礼した。
「今日は本当にありがとうございました。それでは、失礼します」
本当は、もう少し居たい気持ちもあった。
単純に、こんな綺麗でカッコ良くて話の面白い人と、色々話してみたいな、なんて思いもある。何より、暇さんには人を惹きつけてやまない魅力があった。
それに彼女の言葉はわたしを一回思い切り迷子にさせるくせに、最後は優しくゴールまで手を引いて連れていってくれるから。そんな暇さんに甘えてみたい誘惑がある。
だけど、ここからは自分の道。自分の生きる道を考えなくちゃ。
わたしは改めてカバンと紙袋に手を伸ばした。
「おや、もう帰っちゃうのかい? もう少しゆっくりしていてもいいんだよ」
「ありがとうございます。でも、これから自分の生きる道を考えてみようと思いますので」
「そうかい。それじゃあここで僕の屁理屈を聴いていても、仕方がないね」
「はい。ありがとうございました」
わたしが背を向けると、背後から暇さんのおどけた声が追って来た。
「また、来るかい? 僕はいつでも大歓迎だよ」
わたしは振り返り、微笑んで答える。
「わからないです。でもこのわからないは、このまま抱えていこうかと思います。そのほうが、心地よいような気がしますので」
「わからないまま抱えていくのか、都子さんは強いねぇ」
暇さんも立ち上がり、わたしを玄関前まで送ってくれた。
わたしは暇堂を出ると、そのまま雑居ビルを抜けて、相変わらずの青空を見上げた。
「私の生きる道、か」
名残惜しさを感じながらも、わたしはわたしの新しい第一歩のため、駅に向けて歩き出した。気持ちの中は、青空のように晴れ渡っていた。
・・・
悩みは万引き受けます。
そうは言っても、多くの人はすでに答えを自分の中に、実はきちんと持っている。
それでも悩む。考え込んでしまう。人間、全く不思議なものだね。
さて、これからどんな人がここに訪れるかな?
君も暇堂に来てみるかい?
夕暮れ時の町の片隅、誰も気がつかないような貼り紙を、そっと手にとってみたくなったら……。いつでもお待ちしているよ。
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