1章 弘子おばちゃんの憂鬱
第1話 「さかなし」の作り方
4月も下旬となり、すっかりと春の陽気である。風はまだ少し涼やかだが、暖かなお日さまが心地好い。
「さかなし」の定休日である水曜日のお昼前、
「春限定メニューに、筍入れんのどうやろ」
「コストも手間も掛かり過ぎカピ」
冷静な
春の味覚の代表格とも言える筍は、関西では京都産や和歌山産のイメージが強いかも知れないが、大阪でも立派なものが収穫できるのである。スーパーや八百屋さんなどでは新鮮な朝掘りが並ぶのだ。
中でも
「とりあえず、この筍は晩ごはんやな。さっそく茹でんと。で、お昼やな。竹ちゃん、お昼ごはん焼きそばやねんけど、ソースとお塩とお醤油の和風、どれがええ?」
「焼きそばひとつでも、選択肢が多いカピね。今日はそうカピね、塩焼きそばが良いカピ」
「りょーかーい。ちょっと待ってな。先に筍仕掛けなな」
渚沙と竹ちゃんは、「さかなし」の2階部分で暮らしている。かつてお祖母ちゃんも住んでいた住居エリアなのだ。
今の「さかなし」の土地には、もともとお祖母ちゃんとお祖父ちゃん、ひとり息子である渚沙のお父さんが住まう戸建てが建てられていた。
お祖父ちゃんが
お父さんは結婚する時、お祖母ちゃんとの同居も持ち掛けたそうだが、お祖母ちゃんがそれを突っぱねた。
「今さらねぇ、お嫁さんに来てくれたて言うても、よそのお嬢さんと暮らしてくんは気ぃ使うわ」
お祖母ちゃんはあっさりとそう言ったそうだが、その中にはきっとお嫁さんであるお母さんへの配慮があったのだろう。いくら
渚沙はお祖母ちゃんが嫁いびりをする様な人間だとは思わないが、それはあくまで「お祖母ちゃんに可愛がってもらっていた孫目線」である。お嫁さんとなるお母さんにはまた違った見方があるはずだ。
結果として、離れて暮らしていたお祖母ちゃんとお母さんは、良い関係を築けていたと思う。今は、お父さんたちに迷惑を掛けたく無いと自らの希望で高齢者住宅に入っているお祖母ちゃんだが、お母さんは時間を見つけてできる限り訪問している様だ。
さて「たこ焼き屋 さかなし」は、当時ひとり暮らしとなったお祖母ちゃんが、ある意味暇を持て余して始めた商売と言えた。
お祖父ちゃんは勤め先の定年を迎えてから亡くなったため、まるままの退職金と高額の保険金、そして貯金がお祖母ちゃんの手元に遺された。
お祖母ちゃんはこの世代の女性には珍しく、フルタイムのお仕事を持っていたので、老後の資金は潤沢だった。家の広さに困りつつも、無事に定年まで勤め上げた。
そして、家にいることが増えた時、お祖母ちゃんは気付いてしまったのだ。自分にはこれと言った趣味などが無いことを。
それまではお仕事をしながらお家の用事の一切を
それは逆を言えば、お家のこととお世話に忙殺されて、他のことに割く時間が無かったということである。それほどまでにお祖母ちゃんはひとりでたくさんのものを抱え込んでいたのだ。
そしていざ時間ができた時、何かしなければ、頭にも身体にも、そして精神にも良く無いのでは。真面目なお祖母ちゃんはそう考えたらしく、またパートでも探して働こうかと思ったそうだ。
だがその時、お祖母ちゃんはふと思った。なら、たこ焼き屋はどうだろうかと。
「たこ焼き屋やりがち」は、大阪あるあるとも言える。大阪で育った人間のほとんどが、たこ焼きを自分で焼くことができる。たこ焼き機が無いご家庭の方が少ないなんて言われ、たこ焼きパーティ、通称たこパは頻繁に開かれる。
スーパーなどに行けばたこ焼き粉などもあるが、こだわって小麦粉から作るご家庭も少なく無い。
そこで時間を持て余したり、起業を考える人がたこ焼き屋に行き着いたりするのだ。住宅街を歩いていると、こぢんまりとしたたこ焼き屋がぽこっと出現するのは、こういう理由が多いのである。
お祖母ちゃんも見事それに当てはまってしまったわけだ。
幸い土地はある。どのみちひとりでは維持が難しい広さの家だ。取り壊してたこ焼き屋を兼ねた住宅に建て直したら良い。どちらにしてもバリアフリーリフォームの必要性を感じていた。昔ながらの段差の多い家だったから。
費用もどうにかなりそうだった。息子、要は渚沙のお父さんは大学こそ私学だったが、バイトもしていたし、幸いそれほど学費を掛けずに済んだ。
いろいろなことがお祖母ちゃんを後押しした。
しかし、ここで立ちふさがるのが、渚沙のお父さんである。やはり先行き不透明な商売を、簡単に許すことができなかったのだ。万が一があればお父さんの家庭も巻き込まれる恐れがある。
そこでお祖母ちゃんは、もし巧く行かなかったら、傷が浅いうちに畳むことを条件に、半ば強引に切り開いたのである。
お祖母ちゃん、実はあまり家事が得意では無かった。特にお料理が好きでは無く、家族のために渋々作っていたのだと言う。
その中でも、休日などにお家で作ったたこ焼きが、お祖父ちゃんとお父さんに大好評だったのだ。
お祖母ちゃんにしてみたら、支度や片付けの手間が少なくて済むと言う理由だけで作っていたのだが、あまりにも家族が喜んでくれるものだから、卵を増やしたりすり下ろした山芋を入れてみたり、顆粒だしの量を増やしてみたり、牛乳を加えたりと工夫をする様になった。
すると自分でも美味しいと思えるたこ焼きを焼くことができる様になったのだ。手間は増えてしまったわけだが、やはり家族が喜んでくれるのは嬉しかった。
渚沙にたこ焼きの作り方、焼き方を仕込んでくれている時、お祖母ちゃんはそんな思い出を教えてくれた。
「もちろん人に売るんやから、お出汁かてちゃんと取らなあかん様になってねぇ。味も安定させなあかんから、小麦粉こんぐらいにお出汁こんだけとか、分量も出さなあかんかったからねぇ。まぁ最初は面倒なことも多かったんやけどね」
「でもそのお陰で、こうやって私が細かく教えてもらえてるんやし」
「そうやねぇ。悪いことばっかりや無いねぇ。あ、ほらほらなぎちゃん、そろそろ焼けるで」
「あ、ほんまや」
渚沙とお祖母ちゃんは並んでたこ焼きを返しながら、互いに微笑ましくなって「ふふ」と笑みを零す。
こうしてお祖母ちゃんと並んでたこ焼きを焼けるのもあとわずか。そう思うとそれはとても大事な時間だった。
「なんや、楽しそうや無いの。渚沙ちゃんもいっぱしに看板娘かいな。華やかやなぁ」
弘子おばちゃんは渚沙がこの「さかなし」を継ぐために頑張っていることを知ってくれていて、応援してくれている。
「弘子おばちゃん、いらっしゃい。頑張ってるから、また食べに来たってね」
「そりゃあ、渚沙ちゃん次第やわ」
「そんなぁ〜」
すげなく言われ、渚沙は
弘子おばちゃんはいつもの注文をし、店内に入って行く。お祖母ちゃんがポン酢マヨネーズたこ焼きの準備をし、渚沙は冷蔵庫からスーパードライを出したのだった。
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