第5章 櫻と紅玉

第44話 四華の儀





 衣装は赤。金糸の織り込まれた刺繍は艶やかで、裾子の白が清廉さを演出する。簪と耳環の珊瑚は薄紅。金細工の彫りは繊細な花を模しており、結い上げた髪の間で生花と見紛うほど瑞々しく咲き誇っていた。

 

 鏡にはそんな豪奢な衣装を身にまとった己が映っており、衣装の色と対をなすように――青褪めていた。


「あの碧鈴ビーリン様、これは一体」

「いいでしょう? 渾身の出来よ」

「本当にいいんでしょうか……」


 戸惑う曄琳イェリンの横で、ミンも同じように狼狽えていた。


「これ妃嬪が着ててもおかしくない仕立てよ!? 周りに怒られない!? あたし怖いんだけど!」

「私もここまで立派なものを着るのは初めてねぇ」


 いつも悠々としている燦雲ツァンユンもこれには顔を引き攣らせている。対照的に碧鈴は何を言われてもどこ吹く風だ。


「あら、衣装の格に上限なんてないでしょう?」

「そうでしょうけどねぇ」


 暗黙の了解というものはあるんじゃなかろうか。曄琳と茗は顔を見合わせて苦笑した。

 碧鈴の房室へやで早朝から大勢の宮女に囲まれて支度をしてきたが、まさかここまでの仕上がりになるとは思っていなかった。好意を無下にするつもりはない――よって、宮妓三人で想像を上回る豪華な衣装を着ることになった。





 茗や燦雲は宴席に上がるためその後すぐ碧鈴の房を出て行ったが、曄琳は裏方のためほとんど仕事がない。強いて言えば、碧鈴の楽器を用意し、会場に送り出す程度だ。

 「暇なら適当に散歩してて」と着替えのため碧鈴がどこかに行ってしまえば、完全に暇を持て余す。

 外に出たとしても、出歩けば人目につくので殿舎周辺の園林にわを彷徨くに留めるしかない。

 曄琳は燦々と降り注ぐ陽射しの中、園林のあずまやの――長榻ながいすに座ってぼうっと空を見上げる。

 

礼宮れいきゅうは、あっちの方か)


 いつにない喧騒が礼宮のあたりから聞こえている。 

 今日の四華の儀は集花堂しゅうかどうで執り行われるが、その後の宴席は礼宮で開かれる。アン妃亡き後、礼宮を開くのは一年ぶりだ。殿舎から庭に至るまで徹底的に掃除されているに違いなく、宮女らの忙しない足音が鳴り止まない。


(あのときは知らなかったけど、礼宮は当時の母様が住んでいた場所なんだな)


 暁明シャオメイと安妃の遺書探しをしたのが遠い昔のように感じる。あのとき楚蘭のことを知っていればもっと礼宮を調べていたのに、などと無意味な想像をしてみたりする。

 と、側の回廊をゆったりと歩いてくる官服の影があった。片目ではよく見えないが、足音からして雪宜シュエイーか。今日ばかりは宦官含め、掖庭宮関係者は軒並み正装に身を包んでいる。雪宜も例に漏れず、普段は省略している上衣を着込み、佩玉はいぎょくも下げていた。


 一言挨拶をしておこうと榻から腰を浮かせると、こちらに気づいたのか雪宜が歩みを止めた。


ツァイ掖庭令、こんにちは」

「……………………え、ああ、こんにちは」


 亭から出て橋を渡る。曄琳を見るなり目を見開いて固まっていた雪宜は、曄琳が目の前まで来るとようやく呪縛から解けたように何度か瞬き――そしてふにゃりと相好を崩した。


「あんまりにも綺麗なので驚いていました」

「お上手ですね」

「嘘じゃあありませんよ。本当に……妃かと思いました」


 本当にと繰り返す雪宜の目元には薄っすらと朱が差していた。どう見ても照れている。衣装の力とは恐ろしい。普段はろくに化粧をしない曄琳だが、今日は女官の力を借りて丹念に仕上げられていた。

 他人にこうも手放しで容姿を褒められるのは初めて――いや、二人目か。妙な居心地の悪さから、曄琳は髪を撫で付ける。


「そろそろ四華の儀が始まりますけど、掖庭令は参列されないんですか?」

「ちょうど向かうところでした。曄琳さんは、今日は裏方だとか」

「そうですね。碧鈴様のご厚意で綺麗にしてもらった手前、申し訳なさもありますけど」


 勿体ないですねと笑う雪宜と横並びになり、他愛もない会話をしながら人手の多い殿舎手前まで付き添う。


「では、私はここで失礼します」


 通り過ぎていく女官らがちらちらと意味ありげな視線を雪宜と曄琳に寄越しているので、あまり長居はしたくなかった。軽く礼をして踵を返す――が、腕を取られた。振り返ると、深い湖のような凪いだ瞳がこちらを見下ろしていた。


「どうかお気をつけて」

「え、あ……ありがとうございます」


 暁明と情報を共有しているのだろう。曄琳は口角を上げてみせると、雪宜の拘束から外れた。周りの心配に報いる――おかしな表現だが、これ以上心配をかけないためにも、今日は大人しくしていよう。


 そう思っていたのに、事態はうまく転がらない。




 ◇◇◇




「弓が、折れた?」


 今日のためにと特注で用意したであろう玫瑰バラの衣装に身を包んだ白雪の精は、悔しそうに頷く。


「そう。着替えて戻ってきて、少し練習をと思ったら調子が悪くて」


 碧鈴は今にも泣きそうな顔をして二胡を握りしめている。何が原因かと調べていると、弓にヒビが入っているのに気づいたらしい。


「弓を見せてください。……ああ、本当ですね。そう簡単には折れないものなんですけど」

「絶対にが何かしたのよ。今日は妙に大人しいからおかしいと思ってた……!」


 呼ばわりされているのは、彼女の侍女らだ。表面上はうまくやっているように見えたのだが、水面下では殴り合いが続いていたようだ。


「そろそろ解雇のときでは?」

「これが終わったらひなの尼寺に送ってやるわ。待ってなさいよ」


 碧鈴の目は怒りに燃えていた。


「替えの弓をお持ちします。そこまで時間はかかりませんが、一度教坊に戻るので四半刻ほどはお待ちいただくことになります」

「四半刻なら、出番まで時間があるから大丈夫。集花堂に直接持ってきてちょうだい」

「ち、直接……」


 曄琳は逡巡する。決して近寄るなと言われている集花堂だ。入口まで持っていって控えの女官に渡す――これなら問題はないだろう。

 曄琳は首肯し、碧鈴と別れた。



 教坊から行って戻るまでさほど時間はかからない。この衣装でなければ、もっと早かった。弓を片手に曄琳は扉の前で立ち尽くしていた。

 中から聞こえる演奏は、ハイ氏子女のもの。記憶が正しければ、順番は碧鈴の三つ前の奏者だ。この演奏が終わると同時に中へ入らないと、碧鈴が間に合わなくなる。緊張からか手汗で弓に指紋の跡がくっきりとついている。


(中に入って、扉横の女官にこれを渡して、私はすぐ帰る。大丈夫)


 何度も己に言い聞かせる。


 演奏が終わった。まばらな拍手とともに、曄琳は扉を押し開けた。鼓膜を揺らす音が大きくなる。隙間から身体をねじ込み、壁際に立つ女官に混じる。


 集花堂は普段使用されている庁堂ひろまとしての装いから、儀式のための場へと大きく内装を変えていた。

 一番大きな変化は、常に締め切られていた奥の木戸が全て取り払われ、大園林が一望できるようになっていることだ。さらにその奥には池の上に続く張出舞台があり、今回はそこで姫達が演奏をしているようだった。

 まさに今日のための場所と言ってもいい、儀式のための庁堂だ。空に音が抜けてしまうので、奏者としてはあまりいい環境とは言えないが。


 曄琳は碧鈴の場所を確認する。控えの姫は、壁に添うように待っているようで、碧鈴は二胡を握りしめて顔をこわばらせていた。


(早々に渡して退散しよう)


 横の女官の袖を引きかけたとき、聞かなきゃいいのに、声を抑えた会話が飛び込んでくる。碧鈴、という単語に身体が反応した。


 


 

 

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