第43話 刑部にて
――
「宮妓さん、こんにちは。行きましょうか」
おや、いつもの元気がない。なんならげっそりとやつれている。
「元気がないですけど、何かありましたか?」
「あはは、ちょっと兄にこってり絞られまして……」
兄というのは刑部勤めのお兄さんのことか。聞いた話では、話にのぼった姚人の兄経由で物品保管庫を開けてもらうことになったらしい。無理をさせた皺寄せが姚人にいったのだと曄琳は推察した。
「姚人さんも色々とありがとうございます」
「いいんですよ。
案内されるまま、立ち入ったことのない区画へと入っていくと、書類を抱えた気難しそうな官人の往来が増えてきた。女官の影がなくなり、小間使いの宦官があちこちを走り回る。
「いつ来ても刑部は忙しないですねぇ」
姚人の呟きに、曄琳はそういうものなんだとぼんやり思うのと同時に、ここでは女は目立つということを理解した。道理ですれ違う官吏が胡散臭そうな目を向けてくるわけだ。
人目につきすぎるのもよくない。曄琳は俯きがちに姚人の陰に隠れて歩みを進めた。
ようやくたどり着いたのは、厚い木扉の物々しい建物だった。木の陰にあるせいか薄暗い。
「お疲れ様です、少監。連れてきました」
姚人が木陰に声を掛けると、
「入りましょうか」
暁明が促すと、男が保管庫の鍵を開けた。中は薄暗く、湿っぽかった。
「当時の押収物はこちらになります」
姚人の兄は、
宇人は無数に立ち並ぶ書架の間を無駄のない動きで縫っていき、しばらくすると小さな箱を持ってきた。
この萎びた紺紐で蓋がされた木箱に曄琳にとって重要な書簡が入っている。緊張で手が冷える。
宇人は暁明に箱を渡すと、一歩後ろに引いた。
「僕は席を外しましょうか?」
「そうですね。可能であればお願いします」
宇人は生真面目に頷くと、かっちりと着込んだ官服を翻して扉の方へ戻っていった。
曄琳はその後ろ姿を目で追い、思わず呟く。
「お兄さんは姚人さんとは随分雰囲気が違いますね」
「宮妓さんそれどういう意味です?」
むくれた姚人が曄琳の肩を小突く。曄琳としては思ったことをそのまま口に出しただけで他意はないのだが。
暁明が紐を解きながら姚人を一瞥する。
「姚人、あなたも外で待っていていください」
「うぅ、了解ですぅ……」
口調とは裏腹に軽やかに扉へと駆けていく姚人を見送り、曄琳と暁明は箱に向き直った。蓋を取ると、中には四つ折りに畳まれた紙片が入っていた。時間の経過で黄ばみ、ところどころ茶けている。
破かないようゆっくりと開くと、中にはすらりと流れるような文字で恋心を綴った文章が羅列されていた。曄琳らは頭を突き合わせて手紙を覗き込む。
「本当に恋文だ……」
「そのようですね。差出人は書かれていませんね」
「男性、ですよね?」
「後宮なら女性から女性へ送ることもあるのでしょうか……しかしこれは
「当時の人間は省内にほとんど残っていません。いても他部署に移っているので、目星をつけようにも難しい」
そうだろうと思う。そもそも、退官してしまった人間の中に送り主がいた場合、もう探しようがない。今回は恋文はあったという事実だけで、
(殿中省……ああ、殿中省といえば)
ふと、曄琳は先だって話した内容を思い出す。
「そういえば
「掖庭令が……いつ聞いたのですか?」
「先日内侍省に報告に行ったときです」
あのときは深く考える余裕がなかったので流してしまっていた。あの場でもっと聞けばよかったのかもしれない。後悔している曄琳の横で、暁明がその柳眉を顰める。
「私は初耳です」
「そうなんですか。掖庭令の口ぶりからしてご存知なんだとばかり」
「あの方はあまりご自身の話をされないのですよ。過去の経歴について聞くのも失礼にあたりますから、こちらから触れてこなかったのもありますが……」
職場の繋がりなどそんなものだろう。曄琳はあのとき話した内容を思い出す。
「今三十五だから人生の半分以上は王城で過ごしてると仰ってたので……計算上では掖庭令はちょうど当時に働き始めたくらいでしょうか」
「…………ふむ」
暁明は何か考えていたようだが、落ちてきた前髪を払うと手元の箱に視線を落とした。
「私の方で殿中省内の過去の記録を少し探ってみます。当時の記錄があると思いますから、何か繋がりがありそうなら次は掖庭令をあたってみましょう」
暁明は箱を仕舞い、もとのように紐を戻す。
「私も殿中省で調べてみますが、あなたも掖庭令に会うことがあれば何か聞いてみてください」
「わかりました」
「あなたになら、何か話してくれるかもしれませんね」
そんなことはないと思うのだが。首を傾げる曄琳の背を片付け終わった暁明が押す。
「さ、行きましょうか。そういえば
「
「それはよかった」
予定とは異なる形で落ち着いた碧鈴の一件だが、
「三日後は四華の儀ですか。気をつけてくださいね」
暁明の顔はいつになく憂いを帯びている。曄琳は得心していると大きく頷く。
「大丈夫です。当日は裏方に徹しますから」
「そうしてください」
「少監はいつものように女官姿で参加ですか?」
「いえ、当日掖庭宮は特例で官人にも開かれるので、私もこのままの姿で参列します」
とすると、当日はかなり大勢の出入りがあるのか。それほどの人数が一堂に会するのは壮観だろう。見てみたかったという気持ちもほんの少しだけある。
「曄琳」
するりと横髪を払われた。憂愁を湛えた暁明の瞳がこちらを見下ろしている。
「四華の儀が終わりましたら、少しお時間をいただけませんか。話したいことがあります」
「……今ここで聞くのはいけませんか?」
「一段落した後の方がいいと思います」
真摯な眼差しを前に頷くことしかできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます