第3章 華の競い合い

第19話 見知らぬ宦官





 本日も晴天。雲一つない夏空から降り注ぐ陽射しが、服の上からじりじりと肌を刺してくる。


 曄琳イェリンは内教坊の外門の雑草を抜きながら、首から下がった手拭いで滴る汗を拭う。手に触れた黒髪が燃えるように熱い。このままでは火を吹きそうだ。


「暑すぎる……死んじゃう……」

「口より手を動かす! 小曄シャオイェの失態に付き合ってるこっちの身にもなりなさいよね!」


 後ろで作業をしていたミンが、箒の柄で曄琳の背中を小突く。

 先の天長節で曄琳が途中所在不明となった問題を受け、師弟関係である茗も連帯責任として罰を受けていた。

 

 あの日、暁明から解放されて仲間のもとに戻った曄琳は、宮妓らが大慌てで曄琳を探し回っていたことを知った。宮妓は仲間内への絆が厚い――ということもあるが、脱走者を出すと上からこってり絞られるのだ。連帯責任で給料を減らされることもあるため、皆躍起になって探していたらしい。

 そんな中で、「何かよくないことに巻き込まれたんじゃないかって心配したんだから」と茗にきつく抱きしめられたのは、不謹慎だが少しだけ嬉しかった曄琳である。今まで隠れ家生活が長すぎて友人らしい友人もいなかった。身内以外と親しくなるのは、これが初めての経験だった。

 

 曄琳は泥の付いた手で頬を拭った。べったりと頬に何かついた気がしたが、もうどうでもよかった。


「それは本当に申し訳ないと思っています……」

「申し訳ないと思ってるならさっさと掃除を終わらせる! このままじゃあたしら丸焼きになるわよ!」


 茗が箒で塵を飛ばしながら門の隅へと走っていく。曄琳も早く終わらせてしまおうと脇に置いてある袋に抜いた草を放り込んでいく。眼帯の裏がじっとりと汗で濡れて気持ち悪かった。


(外したいけど外せないし。汗疹あせもにならないように気をつけないと)


 この季節はいつもそれで悩まされる。曄琳は左目を見られないよう、眼帯を少しずらして袖で拭った。

 あの後、左目について暁明は何も言ってこなかった。知って見逃しているのか、本当に何も気づかなかったのかはわからない。後者であることを祈るばかりだ。後宮の四夫人の仕事とやらも追って指示するとのことで、ここ半月、彼から動きはなかった。


(そもそも、今の主上に四夫人はいないと聞いてるんだけど?)


 まだ幼く真の意味で後宮を必要としていない主上は、即位の際に周辺諸国や諸官から献上された娘数名のみを後宮に置いていると聞く。主上が後宮へ足を運ぶのも、特定の妃嬪のもとに通うためというより、複数名の妃嬪と話や食事をしている程度らしい。


(あの年で女遊びをしていたらおかしいし、それが普通か)


 曄琳がひとりごちていると、掖庭宮から一際賑やかな声が上がった。耳を澄ますと、複数人の足音が通明門へと向かっているのが聞こえてきた。中から人が出てくるようだ。


「それでは、また」


 数名の宦官と女官が連れ立って通明門を出てくる。その後ろを何人かの宮女が名残惜しそうに見送っていた。

 曄琳はそれをぼうっと見つめる。

 

雪宜シュエイー様、また来てくださいましね」

「もちろんですよ。近日中に伺いますからね」

「きゃあ、お待ちしておりしてますぅ」


 甘ったるい声で宮女達が見送るのは、曄琳が見たことのない宦官だった。

 暁明のような大層な美形というわけではないのに、なぜか目を引かれる。全身から人当たりの良さが滲み出ているせいかもしれない。ふわふわとした雰囲気と立ち振る舞いに視線が引きつけられるのだ。歳は三十代くらいだろう。肩幅や上背があり、宦官らしい丸みはない。

 

(あれは確かに後宮に入れば人気だろうな)


 曄琳は納得する。

 男との接触が限られる後宮において、見目麗しい宦官は女達の色恋の対象に入る。男性性を切り取られて丸く太ってしまった多くの宦官と違い、先程の宦官は男性らしさを残している。女官や宮女から引く手数多であろうことは想像できた。

 

 その後ろをひとりの女官が静かに門を潜って出てきた。足音だけですぐわかる。周りの女官より頭ひとつすらりと抜けた長身。

 

ソン少監か。女装がすっかり板についてる)


 相変わらず胸元の詰まった服を楚々と着こなし、艷やかな髪を風に揺らして颯爽と歩いている。

 曄琳が目だけで追っていると、後ろから頭を小突かれた。


「あんた、何見てんの? 終わったなら引き揚げるよ」

「うぐ」


 茗にのしかかられて、しゃがんだままだった曄琳はぺしゃんと地面に座り込んだ。茗は曄琳の視線の先を追って、ああと納得したように呟いた。


明星ミンシン様ね。綺麗よねぇ」

「明星……それがあの女官の名前なんですか?」

「そうよ。主上の筆頭女官のひとり。唖者あしゃなんだってさ」

「へーえ」


 声が出ないことにしてるのか。それなら男だとバレる心配もない。

 こちらの視線に気づいたのか、雪宜と呼ばれていた宦官がふわりと微笑んだ。茗が男前ねぇなどとぽやく。雪宜の後ろに追いついた暁明がちらりとこちらを一瞥した。一瞬視線が交わる。すぐに逸らされる顔。その横顔を見ていると、口が小さく動いた。


 ――五日後、お話があります。逃げないでくださいね。


 暁明が小声で話したのだ。曄琳だけがわかる音量で。

 雪宜が気にしたように暁明に声をかけていたが、暁明は笑ってなんでもないと首を振っていた。

 耳を便利に使われている。


(こんな状況で逃げるわけないでしょうが)

 

 素性がバレる心配が迫っていないのであれば、大人しく従いますとも。


(というか、五日後って?)

 

 何かあったっけと頭を捻るが、思い出すことは何もない。記憶を漁る曄琳の前を一行が通り過ぎていった。


 そんなある日、朝から後宮が騒がしい日があった。






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