第9話 頼み事





「先刻あなたは迷いなく雲片糕の入っている壺を開けた。どれが菓子の壺なのかと聞くものでは?」


 言われてみれば、確かにそうだ。曄琳イェリンはしくじったことを実感して嘆息した。

 曄琳は耳で大概のことを把握するので、わざわざ他人に聞くという行為をしない。何が入っているのか、誰がいるのか。わかりきっていることを聞くなど、無駄でしかないからだ。

 楚蘭チュランと二人きりの生活でもそれは変わらなかった。曄琳の耳のことを理解していた彼女との生活は楽だった。

 他人と生活をしてこなかった弊害だ。耳を使う生活が当たり前になりすぎて、すっかり失念していた。

 

 

 

 暁明シャオメイは壺を引き寄せ、雲片糕の両脇の壺を開けた。

 やはり、二つとも空だった。


「その反応、聞き分けられるというのは本当なんですね」

「……はかりましたね」

「ぼうっとしているあなたが悪い」

 

 音を立てて曄琳の前に盆を置いたのはわざとだったか。曄琳は顔を覆った。

 

 わざわざ呼び出してまで、曄琳の能力を試すようなことをした。ここまでくれば、否が応でもわかってしまう。

 

 彼の目的は、秘密を知った人間の抹殺じゃない。

 このだ。

 

「あなたのふてぶてしさは一級品ですね。夜の後宮で会ってから私があの幽鬼だといつ気づきました?」


 その証拠に、暁明はあっけらかんと自身の失態を明かしてきた。化粧には多少自信があったのですが、などと戯言まで付け加えてくる。


「昨日、少監が教坊に来られたときです」

「それは、なぜ」

「足音が――」


 少し引きずっているように聞こえたから。

 そう伝えると、暁明の長い睫毛が僅かに揺れた。


「ああ……そうでしたか」


 先程までより僅かに下がる声の調子。皮肉げに歪められた唇に、曄琳は戸惑う。

 

(この人は足が悪いことを隠してる?)


 理由はわからないが、多分そうなんだろう。

 しかし、人の歩行の癖はなかなか変えられない。

 武人なら、剣帯けんたいが下がる方の足を内側に寄せて歩きがちになる。荷運び人は、常に利き手で荷を持つのでどちからの足に体重がかかった歩き方になる……などなど。

 元来足が悪いなら、どんなに隠しても悪い方の足を庇う歩き方が癖になっていてもおかしくはない。

 曄琳は貧民街での生活で、人の歩き方の癖から身分や職業を探るのが癖になっていた。厄介な輩や官人と鉢合わせしないようにするための、曄琳なりの処世術である。

 

 曄琳は暁明の表情の意味を読み解こうとしたが、探る視線に気づいたのか、すぐにまた笑顔が貼り付いてしまった。掴みどころのない人である。

 

「では少監にこちらからも質問を。なぜあんな格好で夜の後宮にいたのか、聞いてもよろしいですか」


 曄琳は諦めて一番聞きたかったことを聞くことにした。暁明が苦虫を潰したような顔になった。


「理由は二つ。ひとつは……主上のためです」


 曄琳の頭の中に幼子主上が現れる。

 

「あの方は現在人見知り中でして、馴染みのある私から離ようとなされない。御歳五つ。道理を理解し始めた年齢とはいえ、先帝の崩御からの突然の即位でしたから……人恋しいのでしょう」


 暁明の目が閉じられる。その横顔は線が細く、男性的とも女性的ともとれる絶妙な均衡を保っている。

 

「男子禁制といわれる後宮ですら、主上は私が同伴せねば行かぬとおっしゃる。なので、解決策としてあのような格好に」


 再び開かれた暁明の目はいたく真剣だった。真剣というか、曇りなき眼というか。

 皇帝側近は女装すら受け入れる、とんでも集団なんだろうか。曄琳は素直に疑問をぶつける。

 

「でも、主上が許可を出せば後宮も男性が立ち入ることは可能と聞いています。わざわざ女装などしなくてもいいのではないですか?」

「その通りです。ですが……櫻花インファ妃の二の舞いになると諸官から批判を受けまして」


 ドクン、と心臓が跳ねた。

 櫻花は母の後宮での呼び名だ。こんなところで名を聞くことになるとは思わなかった。曄琳は前のめりになる。


「どういう意味です?」

「随分昔、先帝の後宮の頃の話ですよ。櫻花という妃が外部の男と不貞をし子を成してしまい、産んだ後で子共々逃走する事件があったそうです」

「不貞……駆け落ち……?」

「はい。なんでも産んだ子の見目が一風変わっていて、そのせいで父親が違うことが知れてしまうと恐れたとか。以来、皇帝の許可があろうとも後宮へ男の出入りをさせぬよう、徹底して取り締まるようになったんですよ」


 なんだそれ。

 曄琳は口の中で呟く。

 楚蘭は間違いなく、曄琳の父親は皇帝陛下だと言っていた。 

 なのに、現状楚蘭は不貞を犯した大罪人扱いになっている。お産で曄琳を取り上げた女官らが、皇家の呪い子だと言った話は、どこへいった。

 後宮へは近づかないようにしていたから、噂話なんぞ知らなかった。

 

 年月が経って真実が霞み、事情を知らぬ第三者が母の状況と私の容姿を鑑みた結果、不貞だと思ったんだろうか。


(母様が後宮から逃亡したのは悪手だった。でも、いわれのない罪を着せられるのは、違うと思う)


 これは今の曄琳にとってもよくない情報だ。

 今の宮廷では先帝の血を引く女が市井に降りたということになっていない――つまり曄琳は長公主ではなく、大罪人の娘なのだ。見つかれば、本当に首を刎ねられてしまうやもしれない。

 

 遣る瀬無いとはこのことだ。曄琳は唇を噛んだ。不貞は事実無根だと言ってやりたいが、そうすると曄琳の立場を世間へ明かすことになってしまう。


(今の私には、それはできない)


 血筋を証明するものなど、何も持ち得ていないからだ。曄琳が真実を叫んだところで、誰も信じてはくれまい。

 卓の下で曄琳は震える拳を握った。


「――そういうわけでして、のりを曲げてまで押し通すと、主上を侮る頭の弱いやからに、まだ幼子よとつけ入る隙を与えることになります。それは癪でしたので、女装で解決したのです」


 曄琳の心中など知らぬ暁明が説明を続ける。

 したのです、じゃないだろう。

 曄琳は心の中で冷静に反芻する。暁明は天女のような見た目に反して、口が悪いようだ。

 主上もさることながら、暁明も官吏の中ではかなり若い部類に入る。この歳で側近にまで登り詰めたなら、敵も多いに決まっている。反骨精神もあったのかもしれない。


 暁明は手元の壺を細い指で撫でる。


「主上が就寝なさった後に、所用で安礼宮に立ち入っていたのですが、それを見かけた夜警が噂をしたようですね」

「それが、勝手に幽鬼になって噂されるようになったと」

「不本意でしたがね。でも、出会ったのがあなたで良かった。賢く立ち回ってくださり、ありがとうございました」


 よかったという割には笑顔に圧がある。一時でも女装宦官などと不名誉な呼び方をされたことを、しっかり根に持っているようだ。

 

「私の女官姿の秘密を知るのは、内侍省ないじしょうでは内侍長と掖庭令えきていれい。殿中省内では殿中監でんちゅうかん殿中丞でんちゅうじょうのみです。ああ、それと――」


 すらりと長い指が曄琳を示す。


「今日からあなたが加わりましたね」


 曄琳は口端を引き攣らせる。

 自分から聞いた話ではあったが、そんな大層な秘密を共有する仲にはなりたくなかった。


「そんな秘密を知ってしまったあなたに、お見せしたいものが」

 

 暁明は雲片糕の壺を仕舞い、盆ごと片付けた。そして、棚から別の壺を取り出してきた。曄琳の前に、ことりと置く。先程よりも中身の詰まった、籠もった音がする。

 曄琳が前のめりになったのを確認し、暁明が蓋を取った。


「わ……!」


 中には桂花糕グェイファガオが詰まっていた。とんでもない高級菓子だ。いい桂花きんもくせいの香りが鼻を擽る。


「茶でもなんでも、他にもたくさんありますよ」

「食べていいということですか?」

「駄目です……今はね」


 今でなければ、いつがある。

 曄琳が暁明を見上げると、ニコリと音がつきそうな笑みが返ってきた。


「司闈の倍の報酬を出しましょう。頼み事を引き受けてはくれませんか」

「絶対に面倒事ですよね。お断――」

「あなたをどのようにすることも、私には可能ですよ」

「ひ、卑怯者…………」

「食べ放題に、俸禄つき。悪い報酬ではないでしょう?」

 

 言葉に詰まる曄琳に、暁明の笑みは更に深くなった。

 


 


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