第3話 夜の後宮
宮廷の女なんて皆身勝手だ。
――後宮女官に『どんな音も聞くことのできる宮妓がいるんだ』って話したら、是非幽鬼の音を聞いて本当にいるのか証言してほしいって言われてさ。もし見事証言できたら、謝礼を出してくれんだって!
(幽鬼の音ってなに、音って。そんなもので正体がわかるなら怪談話はこの世からなくなるわ!)
夜の後宮に忍び込むのも、ただの謝礼では割に合わない。もし事情を知らぬ人間に見つかれば、どんな罰が待っているかわかったものじゃない。
意気込む茗に、曄琳ははっきり否と答えた。
しかしよくよく茗に話を聞くと、少し事情が込み入っていた。
依頼してきた女官というのが、
宮門管理や夜警を
女達は震え上がり、怯えて夜警に出たがらなくなった。特に安礼宮付近の警備は押し付け合いになるという。
困り果てた長官が外部の人間に相談したところ、巡り巡って茗のところに行き着いた――ということらしい。
それを聞いて曄琳は天を仰いだ。
女官長ほどの頼みとなると、断ると角が立つ。目をつけられることだけは勘弁だ。
女官側としては不確定な話で
茗からすると、司闈にやると言った以上後に引けない。お願いだよと頭を下げられてしまえば、曄琳のお人好しな面が顔を出してしまい、結局頼みを受けてしまった。
(宮妓と女官の面倒な関係に板挟み……)
曄琳はため息をつく。
宮妓と女官は、すこぶる仲が悪い。
待遇の面で優遇されがちな宮妓が、同じ女として面白くないのだろう。
この
舞、謡、管弦。
所詮娯楽よと切って捨てられそうなこの嗜みが、武よりも力を持つ類稀な国なのだ。
赤子は箸より先に楽器を持たされる――などと笑い話があるくらいに、音楽は生活に根ざしていた。数百年続く戦のない世がそうさせたのか、初代皇帝が楽人であったことに端を発するのか、
楽人はその最たるもので、宮妓ももとの身分は低いが、努力次第では高位の官人と変わらぬ待遇を受けることができるのである。
当然、女官としては楽ひとつでのし上がる宮妓が面白くないわけだ。
今件も、解決できるものならしてみろという女官らの底意地の悪さが混じっていそうな雰囲気を感じていた。
ふんと息を吐いて曄琳は唇を撫でる。
(そういう確執は今は目を瞑るとして……
可愛がっていた妃のひとりだとか、なんとか。
安妃は三十と高齢で主上を産んだことからして、長く後宮にいた妃なのだろう。楚蘭と面識があってもおかしくはない。
楚蘭と仲の良かった妃が貶められて噂されるのは気分が悪い。
様々な要因が絡んだ結果、曄琳は渋々承諾したのだった。
そして現在、夜警の女官の手引きで、曄琳は安礼宮に一番近い殿舎の房室に居座っていた。
安礼宮は安妃が亡くなってから閉鎖しているため無人。今は
今晩は主上が後宮に滞在。そしてここは安礼宮に近い場所。条件は揃っている。女幽鬼はいつ出てもおかしくない……いや、出るはずもないだろうが。
曄琳は眠い目を擦る。
安礼宮の中は人の気配がない。今は無人なのだ。
とすると、幽鬼が
仮に幽鬼が本物だったなら、宮内にふっと湧いて出る――のかもしれない。本物だったなら、それはそれで話は変わる。専門の
曄琳の仕事は、幽鬼とやらが
曄琳としては、ほぼ人間であると思っている。この世ならざる者の大半は人の妄念だ。幽鬼も、妄念が生んだ見間違いだ。
曄琳はぐうっと伸びをした。
その顔は左目が眼帯で覆われている。紅い瞳を隠すための苦肉の策だ。物心ついたときからずっと眼帯を身に着けて生活している。教坊に来てからは、失明しているせいだと説明している。そのおかげで今のところ目の色の秘密は知れていない。
曄琳の無造作に束ねた一本結びの黒髪が肩から滑り落ちる。すらりと伸びた手足、長い睫毛に囲まれた丸い吊りがちな目に、気怠げに結ばれた形のいい唇。十人が見たら九人が美人の部類に入ると言いそうな涼し気な面立ちだ――まあ眼帯がなければ、だが。
遠くで木々の葉が風で擦れる音がする。曄琳はくわあと欠伸をする。絶妙に眠気を誘う音だ。人の話し声がしないのも良い。
喧騒は一番気力を削ぐ。曄琳は人混みが嫌いだった。煩くて、聞きたくもない話も聞こえてきて、毎回頭が痛くなる。
教坊も大概騒がしい場所だが、楽器の音色は好きだった。余計なことを考えずに済む。
それに、楽器は母のことを思い出させてくれる。
母は、とんでもない生い立ちがとびきり似合う、豪快に笑う人だった。
「これでここを出れたら……もっと、しあわせ、なのにな…………」
眠気で曄琳の意識が飛びかける。
幽鬼が出たら音でわかる。曄琳の耳は犬猫のそれに近い。本能的に目が覚めるのだ。
それまでは体力回復に努めてしまおう。
曄琳が諦めて瞼を閉じたとき。
ギシ、と。
外の走廊が軋み始めた。
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