天望の繭6 生まれ落ちた【私】

 開かれている扉から中に入ると、大きな吹き抜けになった展示室になっている。剣や盾などの武具、蹄鉄、獣避けの小鐘の鋳型や、菓子を作る際に用いる型抜き、古い裁縫道具と作業に用いたであろう机などがあり、数人の人々がゆったりとそれらを眺めて回っていた。


「ここは資料館。優秀な職人の仕事や、祭りや大会で腕が認められた者の作品や、謂れのあるものを展示している。ほら、あれが昨年の火と風の祭りの最優秀作品だ」


 指し示された奥の台座に、一振りの剣が横たえられている。

 まだ何も斬ったことのない、恐らく実戦としては鈍らだろう刀身は、炎が走る様を思わせるうねった模様が浮き出されている。柄は握りやすさとは無縁の、だが美しく緻密な透かし彫りが施され、刃から溢れ出したような炎の流れが三日月形に鍔と柄頭を繋げていた。


「鍛冶の技術や美しさを表現したものだから、武器ではなく観賞用だな」

「……いや」


 シルヴィアはじっと剣を見つめて呟いた。

 確かに物理的に斬ることはできない。しかし美しいものには別の力・・・が宿るものだ。


「この剣は、見えないもの・・・・・・を斬る。正しく扱えばそこにあるだけで結界を成すものだ。損なわれないよう大事にするといい…………、どうした?」


 レオンは瞬かせていた目を苦笑に緩めて「いや」と首を振った。


「俺には見えないものが見えるのだと思ってな。同じような瞳の色をしているのに不思議なものだなあ」


 覗き込まれて、わずかに身を引く。

 それはシルヴィアの台詞だ。レオンの黒い瞳は、楽しげであったり、冷徹であったり、悲しげであったりする。常に色や形を変える空や花のような光を内側に宿しているのだ。


(だから、なのか)


 シルヴィアはふと腑に落ちた。誘いを断らなかったこと、この国を出ていくことを考えもしなかったのは、レオン・エヴァルト・ヴィンセントという人間を見ていたいという理由だったのかもしれない。


「この上は展望台になっているんだが、行ってみないか?」


 レオンの瞳は、今度は自由な生き生きとした輝きを宿してシルヴィアに提案する。それを断る理由はもちろんなかった。


 展示室の奥にこじんまりと座っていた監視員の老爺に声をかけて、その背後にあった扉をくぐる。薄暗い階段を登り、物置部屋を突っ切った先の扉を開けるとさらに階段が、今度は塔の外周を巡る形に続いていた。

 ぎしぎし、きりきり、くるくる、ぶうんぶうんと、壁の向こうから種々の機構が動いている音がしていた。階段の途中にある扉はそれらを整備する者が利用する入り口だろう。巨大な機構に合わせて扉は複数階にあったが、辺りには人間よりも上階から入り込んできた鳥類の痕跡の方が多く見られた。

 こつこつこつ、と二人分の規則正しい靴音が、遥か下方へと吸い込まれていく。

 しばらくすると籠もってきた空気に新鮮なものが混ざり始める。風とともに降り注ぐ光にようやくたどり着くと、突然現れた訪問者にこの場所を根城にしている鳥たちが一斉に羽ばたいた。


 レオンが言った『展望台』は、石壁に囲まれた広い露台だった。展望台とは名ばかりで、見張り台と言っても差し支えのない無骨さは、景色を望むことをまったく想定していないことを意味している。

 足元で時計の動きをかすかに感じていると「時計と鐘は真下にあるんだ」とレオンが教えてくれた。だから時間帯によっては階段を上がっている途中で鳴り響く大音響に耳をやられるのだとも。つまりこの下に鐘が鳴るための空間があるのだった。


「階段にくじける者も多いが、ここにはそれだけの絶景がある。――ほら」


 決して弱くはない風になぶられながら、シルヴィアはレオンが示す外界を見渡した。

 真昼の太陽の光が、王都を明るく鮮やかに照らし出していた。

 青空の下に見える、大小の石を埋め込んだような赤い屋根と白壁の家々。輝く大河の向こうには、濃緑の森に囲まれた石造りの王城。少し視線をずらせば広大な農耕地、そして遥かに続く草原と街道があった。

 それらはシルヴィアがこの足で歩み、見聞きした街だったけれど。


「ここからはこの街が一番綺麗に見える」


 うん、とシルヴィアはレオンに同意した。

 高い場所から望む世界は美しい。絶えず輝く河や鳥の鳴き声と風の音は極上の音楽だ。

 神の祝福が、そこにはあった。


「うん。本当に、綺麗だ。微細が見えないからとも言えるかもしれないが、とても……なんというか……」


 言葉を探し、見つからずに閉ざす。眉が寄り、足の先が忙しなく地面を打った。こんなに表現できないことをもどかしく思ったことはなかった。


「……すまない、美しいという以外の表現が何も思いつかない……だが、それでも……この街を美しいと思えることが……嬉しい」


 嬉しい、口にしたそれが間違いなく本心だと感じられてシルヴィアは笑みを浮かべた。

 そう、嬉しい。この街が、世界が美しいことを、心から喜ばしく思う。そうあるように守る人々の存在に、営みに、その積み重ねに感謝する。


(これが、世界。神が創り、人が作る……)


 美しいと思い、喜びを感じること。風を、光を、大気の揺らぎ、影の冷たさ、人の声と表情の変わりゆく様を瞳に移し、ときには触れる。すべて『私がここに在る』から知ることができる。


「――さっきはすまなかった」


 レオンが不意にそう言って、シルヴィアの隣に並び、広がる世界に目を細めた。美しいものを眺める瞳は、しかし陰りを帯びている。


「さっき、とは?」

「姉上のことだ。エマリアのことになると、俺はどうしても冷静さを欠いてしまう」


 希望を持たせないでくれ、と顔を覆って呻いていた姿を思い起こし、シルヴィアは反射的に首を振っていた。


「私の方こそ……余計なことをしたのではなかったか?」

「まさか。どれほどの名医も高位聖職者も、姉上の病の原因を特定できず、治療法すら見つからなかったものだぞ。それが時機のせいだとはいえ、お前は恐らくこれだというものを教えてくれた。感謝してもしきれない」


 感謝している、と噛み締めるように呟いた表情に、あのときの嘆く姿がどうしても重なる。すると同じ恐怖が呼び起こされる。彼の心を折ってしまうのではないか、という。


「……本当に?」


 恐る恐る尋ねれば、レオンは少し笑い、遠くを見つめながら口を開いた。


「……幼い頃に母上が亡くなってから、エマリアは病弱ながら母のように俺を慈しみ、守ってくれた。勉強が嫌だと逃げ回る幼い俺を匿い、本を読み聞かせたり、楽器や歌を聞かせてくれたり。ときには俺を叱りつけ、王族のなんたるか説いて教師たちの元に戻るように言ったりもした。――怒ると怖いんだ、あの人は。身体が弱いからといって心もそうだとは限らないと、俺は姉上から教えられた」


 苦笑するレオンの目に映っているのは、恐らく幼い彼だ。いまよりももっと自由で、上手く立ち回ることを知らずにわがままだと断じられる少年が、寝台の上の姉に思いもよらない厳しさを向けられる――弱いと思っていたのに、自分よりもずっと強く気高い姿に心を動かされる光景が、シルヴィアにも見えた。


「静養すべきなのに城を離れないのも俺を心配してのことだ。離れた場所で静養したところで快くなるとは限らない、だったら国や宮中の様子を把握し、何かあったときに駆けつけることのできる城にいると言い張って譲らなかった。困った人だと思ったが、いまはそうしていてよかったと思う。俺も、姉上に何かあったらすぐに駆けつけられるんだと気付いたから」


 レオンが目を細めて見遣る大河の向こう岸に城がある。

 その内郭、木々の囲まれた北の離宮にエマリアがいる。


「昨年父上が身罷られて、俺たちはとうとう二人きりの家族になってしまった。永遠を生きる人間などいないとわかっていても、いつか俺は一人になるのか、あるいは俺が何らかの脅威によって命を落として姉上を一人残すのか、などと考えると、どうあっても平静でいられなくなってしまう」


 希望を、というあの声と姿がまた、シルヴィアの眼裏に蘇る。

 希望を持たせないでくれ。顔を覆っていた。黙れ、と声を荒げていた。


(あんな顔をさせてしまった)


 心を静めて語らねばならない、悲しみを帯びた過去と現在と未来の不安を暴いた。

 他ならぬ、私が。


「だがその動揺をお前たちにぶつけるのは間違っていた。すまなかった」

「……すまない」


 謝罪の言葉が重なってレオンは言葉を止めた。

 シルヴィアは拳を握る。閉じた瞼の奥で熱を感じる。こみ上げた小さな呟きが、すぐに溢れて言葉になる。紡いでも仕方のない幻を紡ぐ。


「告げるだけで、君たちを助けることができない。私は……私が【戦乙女】ではなく竜の剣の持ち主であればよかったのに。そうすればエマリアの呪いを断ち、君を、不安にさせることもなかっただろう……」


 拳の冷たさ、ひき結んだ唇で、途方もなく無意味な『もしも』の苦さを味わう。一度視線を落とせば穴に落ちていきそうなほど深く俯いて、顔を上げられない。

 これを、後悔、ときっと人は呼ぶ。


「うわっ!」


 だが光を浴びながら沈みゆくシルヴィアの視線は、突然頭に乗った手のひらによる驚愕に上向かされた。髪を乱すような力強さで頭を撫でられ、悲鳴を上げて身を竦める。


「な、なんだ? どうしたんだ?」


 結んでいた髪がほつれてなびく。乱れた頭部を押さえて顔を上げると、あまりにも眩しい空を背にしたレオンが何故かいまにも泣きそうに見えた。


「……レオン?」

「お前でよかった」


 太陽を隠した流れる雲を、強い風が吹き払う。空はもう一度明るく広がり、しかし先ほどとはわずかに違う、最も眩い真昼の色へと濃く染まる。


「すべてを助けることができなくても、竜の剣の持ち主でなくても、自らを未熟と言おうとも。俺は、いまこの国にいるのが他の誰でもない、お前という存在でよかったと思う」


 それは――その刹那に在ったものを、どのように表すべきか。

 慈しみと喜びと、感謝と、シルヴィアには未だ掌握できない数々の感情のきらめきと温もりを表して、レオンが微笑みかけている。

 そのとき光眩く、影は慕わしく、空も風も花や緑も、数多の命ですらこの瞬間だけは美しく優しいままですべてに寄り添っているようだった。


 このとき一つの理を解した。


 美しい世界に神の祝福があると感じたように、たった一人の人間の言葉が、不完全な被造物に祝福を与えられるのだということを。あたかも神が命を吹き込むように、純粋な言祝ぎと無垢な祈りが、世界の片隅のちっぽけな存在を生み落とす。


「シルヴィア」


 ――このとき。この瞬間。


 戦女神の【シルヴィア戦乙女】は、ヴィンセント王国のシルヴィアとして生まれたのだ。

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