悪役令嬢の溺愛

猫じゃらし

悪役令嬢の溺愛


 さわさわと風が樹木の葉を揺らす。

 並ぶ花は色とりどりで美しく、照りつける太陽はティーカップの中で鋭く反射した。


 城内にある庭園でのティータイム。


 執務で忙しい殿下が婚約者である私に許す、ほんの限られたわずかな時間。

 何も発せず目を合わせることもなく、お互いに暑さを感じる陽の下でただ無言でカップを傾けていた。


 気まずささえも通り越した粗末な扱い。

 それは私に早く席を立てという、さりげない思惑を忍ばせたもの。

 わざと木陰を避けて、日よけのない日差しの下でのティータイムは、腹の探り合いではなくもはや我慢比べに近かった。



「殿下」



 沈黙の中にやってきた侍従は、ひそひそと殿下の耳に言葉を吹き込む。

 途端、明らかに目の色が変わった殿下が落ち着きを払って見せながらも席を立った。


「失礼。急用ができた。レイチェル嬢はゆっくりされていくといい」


 あとは頼んだ、と木陰にいる騎士に託して。

 我慢比べを辞したことに、むしろ気まずさから解放されて安堵したというように足取り軽く庭園を去っていく。

 喜びを押し隠した背中を見送り、残された私は深く息を吐いた。


「……ローラ様が来たのね」


 ローラとは、最近の殿下のお気に入りである伯爵令嬢だ。

 本来であれば地方に実家を持つローラだが、殿下が地方巡業の際に出会い一目惚れして首都に招いたのだとかなんとか。

 招くに必要な邸宅を殿下が用意しただの、度々訪れては時間を共にしているだの、仲睦まじいような噂は絶えず私の耳にも入ってきていた。


 執務に追われ私との時間はこんなおざなりに済ませているのに、そちらにはずいぶんとマメに熱を入れているようだった。


「しようのない方だこと」


 立ち上がり、座っていた椅子をずるずると木陰まで引きずった。

 ぎょっとする木陰の騎士に、わずかに姿勢を低くして目線を合わせて窺う。


「ご一緒しても?」


 言葉を発さない騎士は、私よりもで困惑気味に首を傾げる。

 その仕草で私の胸の中には、ほわわわっと花があふれて咲いた。


 私や、仕えるべき主人を差し置き木陰にいた騎士は、名前をグレイズという。

 ハッハッと息を荒くするグレイズは特注の騎士服を纏っているが、その姿勢は少々だらしない。座り姿勢の後ろ足がだらけているのだ。

 それもそのはず、だってグレイズは息を荒くしている通りに暑さに弱い。殿下の、私に対する嫌がらせに付き合わされているグレイズにとっては、木陰といえど今の状況はちょっとした地獄になっているようだった。


「お水を飲みますか?」


 尋ねると、グレイズはふるふると首を横に振った。ついでに気づいて、投げ出されていた後ろ足がきちんとしまわれる。

 そのひとつひとつの仕草に、私はうっとりとした眼差しを向けた。



 ――グレイズ様。なんて可愛らしいのかしら。

 獣人だと聞いているけれど、いつも獣型の姿でいらっしゃるから言葉を交わしたこともない。

 がっしりとした体格、決して細くはない四肢。

 しっぽは短くて、お耳は半ばで折れていて。

 大きなお顔のたくさんの皺が、突き出した下顎が、なんて、なんて醜くて愛らしいの!!



 私は顔を両手でおさえ、深く深く感嘆の息を漏らした。二人きりにしてくれた殿下に、もはやローラにさえ感謝してしまう。

 であるグレイズが醜いという陰口はそれなりに多くあるが、私はその醜さこそ可愛らしいのにとずっと思っている。


「ぶふっ」


 吠え声になりきらない主張にグレイズを見ると、垂れたまぶたの下からのぞく瞳がちらりと庭園出口を見やった。

 これはたぶん「帰らないのか?」という問いかけだ。


 これも殿下の思惑通り。

 自らに仕える騎士であるにも関わらず、その醜さを利用した私への嫌味だろう。

 直接的な言葉に変換すれば「グレイズと同じ空間にいるのは苦痛だろう?」と言ったところか。

 殿下は、私がグレイズに対して好意的な気持ちを持っていることを知るはずがなかったのだ。

 だって私に一切の興味がないんだもの。


 対してグレイズは、きっと自身の醜さを誰よりも理解して私に問いかけてくれている。殿下の思惑は知ってか知らずか。

 優しい気遣いに、私はふっと笑みを向けた。


「暑さの中で申し訳ありませんが、もう少しお付き合いいただけますか?」


 きょとんと一瞬の間を置いたグレイズは、それでもこくりと頷いてくれた。

 私の視線をかわし、グレイズはふいとそっぽを向いて遠くを見続ける。そんなグレイズを、私は遠慮なくうっとりと見つめ続けた。


 グレイズの姿勢はだんだんと崩れていく。

 身じろぎするたびに後ろ足が投げ出され、ぼってりとしたお尻は地面にくっついて。

 荒い息遣いに揺れる背中を眺め、可愛い可愛いと心の中で永遠につぶやき続けた。



 殿下は私に興味がないし、私も殿下に興味がない。

 だけどこのまま予定通り妃になれば、今よりもっとグレイズを近くで見つめることができる。なんなら、私付きの騎士に引き抜くこともできる。

 そうしたら、短く艶やかな毛に触れることができるかしら? 大きな背中を撫でることが許されるかしら? ずっしり重量感のある手を握って、私のあふれる「可愛い」を伝えられるかしら。



 ふわふわと幸せいっぱいの希望に口元がゆるんでしまう。

 こうしてグレイズの姿を見つめているだけでも心の中は満ちているのに、もし触れられるなら。もっと側にいけるなら。もどかしいこの距離を、近づけることができるなら。


 そのためには、私は必ず妃の座に収まらねばならないわけだけど。


「……ローラが邪魔ね」


 二人で会っているだろう城に目線を投げた私の小さなつぶやきに、グレイズの耳がぴくりと動いた。




 ❇︎




 ローラを殿下から遠ざけるにはどうしたらいいかしら。

 そもそもローラが殿下を好いているかもわからないけれど、出回っている噂が事実なのだとしたらそこにローラの気持ちは関係ないだろう。


 殿下は自らの権力を使ってローラを妃に迎えるだろうし、地方の伯爵令嬢にそれを断る理由も術もない。


「殿下を説得したところで、意味はないでしょうね……」


 恋は障害があるほど燃え上がるという。

 殿下を止めたところでそれはただの燃料投下にしかならず、私はただ疎まれて終わってしまう。

 それならば、ローラ自身に身を引かせなければならない。


「殿下のお側にいることが辛いと思わせれば……」


 間接的に、じわじわと周りから。

 婚約者である私からも、直接忠告を下して。

 身の程をわきまえさせて、殿下の側にいることがどれだけ恥知らずかを知らしめてやればいい。


 そうすれば、きっと殿下から離れていくはず。


「ローラはどこまで耐えられるかしら?」


 どれだけ気に入られていようと、私の幸せのために殿下を渡すわけにはいかないわ。




 計画の第一段階として、まず小規模なティーパーティーを開いた。

 そこに招待したのは日頃交流のある令嬢達で、姉妹兄弟がいれば全員招待した。

 和やかな会話のもと、誰か一人でも「最近は殿下との仲はいかがですか?」と空気の読めない発言をしてくれれば、私は大袈裟に涙の粒をこぼしてローラの話をする。


 すでに殿下とローラの噂は首都中に広まっているので、私はただ殿下に募る悲しみを伝えるだけで十分だった。


 そして日をあけて、今度は大掛かりなティーパーティーを開いた。

 招待したのは首都に住まう大半の令嬢だった。その中にはもちろんローラも含まれていた。

 いつしか組み上げられた私を同情する徒党がローラを囲い込み、令嬢らしく糾弾する。


 中にはローラを庇う者もいたが、私を同情する徒党の方が人数も盾にする正論も強かった。だって、婚約者である私を差し置いて殿下に近づくなんて無礼にも程があるもの。

 ローラは悔しさに涙を浮かべたけれど、正当性は明らかに私の方にあった。


 それからはあっという間だった。


 私が何をするでもなく、私の肩を持つ令嬢がローラに敵意を向けた。

 ただ蔑むだけならかわいいもので、やはり嫌味を言わなければ気が済まない令嬢も多かった。

 やりすぎだと思うほどに罵声を浴びせ、乱暴に手を上げ、ローラの尊厳を踏みにじって。

 私のいない所で、私のためにと多くの令嬢がローラをいじめ倒した。


 主張の正当性は確かに私にあった。

 けれど、それを笠に着た陰湿で執拗ないじめは着実に殿下の怒りに火をつけていった。


 その怒りの矛先は、ローラに苦しみを与える元凶となった私にのみ向いた。




「――レイチェル嬢、君との婚約を破棄する!」


 王城で開かれたダンスパーティー。

 婚約者の私は殿下の隣に立つことを許されず、当たり前のようにエスコートされたのはローラだった。


 そのおかしな光景に思わず殿下に意見すると、これまでのローラの苦しみをまるで自分が体験したかのように苦々しく語り、殿下は私を突き放した。


 ざわつく会場内にはローラを糾弾した令嬢達が多くいたが、皆一様に口をつぐみ目を逸らす。

 私に同情し、そして好奇心からローラに手を上げた徒党は、一瞬にして私の味方をやめてしまったらしい。

 ただの傍観者となった令嬢達は、私の有り様にひそひそと言葉を交わしあった。


「殿下、お考え直しください。ただの伯爵令嬢であるローラ様と、代々王家に仕える家柄の私。どちらが殿下の利になるかは明白でしょう」


 なぜ、こんなことになったのかしら。

 予想だにしていなかった状況に私は焦り、けれど努めて冷静に殿下に物申した。

 私の主張は何一つ間違っていなかった。


「確かにレイチェル嬢は手放すには惜しく、また簡単には切れぬ家柄だ。わかっている」

「ならば戯言はおやめください。殿下の個人的なお気持ちだけで、私達の縁は切ることはできません」


 ローラは殿下の腕を掴み、不安げな顔をする。

 そんなローラに優しく微笑みを見せた殿下は、私には鋭く目を細めて言い放つ。


「婚約破棄したからといって縁は切れぬ。王家に忠誠を誓う者に嫁がせればいいだけだからな」

「……え?」

「本当であればローラの苦しみを考慮し、追放したいところだが……こればかりは仕方がない」


 状況の理解ができない私に、グレイズとの希望を断たれた絶望感で思考が停止してしまった私に、殿下は畳み掛けて続ける。



「レイチェル嬢。君には我が騎士、グレイズに嫁いでもらう」



 しんと会場が静まり返る。

 そして、一気に騒然となった。


 殿下の騎士、グレイズ。獣人の、グレイズ。獣の姿しか見たことがない、グレイズ。あの醜い、ブルドッグのグレイズ。

 あちこちからそんな声が耳に届いて、哀れみと嘲笑を一身に受けた。


 驚き続きでいまだ言葉が出ない私を、周囲の傍観者達は「ショックを受けている」と思い込んだらしい。

 挙句には「人型の姿も醜いのだろうな」とまで聞こえてきた。


 殿下の腕を掴むローラが、うずく口元を隠し切れずに「あまりに酷では?」と口にした。


「本人の希望だ」


 殿下が眉間に皺を寄せた。

 それは納得のいかないような口ぶりだった。


「グレイズ。お前が責任を持ってレイチェル嬢を更生させるのだろう?」


 いつの間に私の隣にやってきたのか、グレイズは「ぶふっ」という吠え声になりきらない返事をした。

 ぷりぷりと短いしっぽが揺れている。いつもとは違う騎士団の正装服に、私はたちまちに意識を取り戻し心を奪われてしまった。



 これは、この展開は、予想外に願ったり叶ったりじゃないですか?



 苦々しい表情の殿下に婚約破棄とグレイズとの婚姻を了承し、慄く傍観者達のつくる道をグレイズのエスコートで私は退場した。


 どよめきの収まらない中で、私達を見送ったローラはついにニヤけた口元を隠そうともせずに言う。


「さぞ、醜いのでしょうね。レイチェル様がお気の毒です」

「あいつの人型の姿はろくなもんじゃない……」


 苦々しさを残したまま、殿下はため息を吐いた。




 ❇︎




 グレイズに連れられ、私はそのまま彼の邸宅に招待された。

 獣人でありながら殿下付きの騎士をしているだけあって、爵位はもちろん住まいもそこらの貴族よりしっかり整っている。


 王城にあっても見劣りしないほどの一室に通され、シンプルながらに品よく調度の置かれた室内に私はすっかり目を奪われていた。



「レイチェル」



 呼ばれ、後ろから抱きすくめられるまで。


「僕との婚姻を受け入れてくれてありがとう」

「グ、グレイズ様ですか? 人型に……」

「あまり人前ではならないようにしてるんだ。君になら見せてもいいよ」


 少し硬めの髪が私の頬にかかる。

 顔の位置は私よりもっと上で、抱きすくめられ密着しているけれど身長差から背中を曲げているようだった。

 ブルドッグの時とは違い、回された腕は筋肉質で細身に見える。


 私は高鳴る胸で、グレイズに問いかける。


「なぜ私と婚姻を……? 私が何をしたのか、ご存知でしょう?」


 聞き間違いでなければ、殿下は「本人の希望だ」と言っていた。

 それはつまり、グレイズの希望だと。


 グレイズはくすりと笑って答えた。


「やり方はまずかったけれど、すべて僕のためでしょう? レイチェルからはいつも、僕に対する好意の匂いしかしなかった」


 私の頬に熱が集まる。

 匂いって、匂いって何?

 グレイズにバレていたことに、そして私の計画が見透かされていたことに、恥ずかしさが爆発した。


「殿下の婚約者だから、側で見守ることができれば僕は満足だったんだけど……こうなってしまっては責任をとらないとね」

「私の更生、ですか……?」

「必要ないよ。レイチェルはもう、悪いことはしないでしょう?」


 穴があったら入りたい。

 回された腕にしがみつくと、グレイズは安心させるように声音を優しくした。


「もちろん殿下も悪いからね。レイチェルがいながらよそ見をしたんだから」


 あっさり主人の間違いを指摘するグレイズは、けれど嬉しそうに私に頬擦りをする。


「でも、殿下がよそ見をしてくれてよかった。僕はレイチェルを諦めずに済んだよ」

「あ、諦める……?」

「あれだけ好き好きオーラを出されたら、僕だってレイチェルを好きになってしまうよ」


 醜いとしか言われない獣姿だったのに、と。

 それが嬉しくてたまらなかったのだと、グレイズは私をさらに抱きしめた。


「……人型の僕がどんな顔でも、変わらずに好きでいてくれる?」


 急にくぐもった声に、私は「当たり前です」と大きく答えた。

 どんな顔でも、姿でも、グレイズはグレイズなのだから。ずんぐりした体に短い手足、お尻にちょんとついたしっぽも、皺の多い大きなお顔も。

 人型の顔がどれだけしゃくれていたって、私はグレイズを愛する自信がある。


 グレイズから笑みの溢れる気配がした。

 腕が緩み、背中からそっと熱が離れていく。

 肩を掴まれ、私は目を伏せたままでゆっくりと体を反転させられた。

 ようやく向き合った私達は、同時にお互いの瞳を見つめて――。




「チェンジで」




 私は即座にグレイズに求めた。


「えっ?」

「チェンジ」

「チェン……えっ?」

「ブルドッグになってください」


 訳もわからず困惑したまま、それでもグレイズはブルドッグの姿になってくれた。

 見慣れた姿に私は積年の想いから解放されて抱きついた。

 がっしりとした体は、私がどれだけ激しくぎゅうぎゅうとしても揺らぐことはなかった。


「可愛い可愛い可愛い可愛い……」

「…………」

「可愛い可愛い可愛い可愛い……」

「……僕の顔、だめってこと?」


 グレイズが不満げに、ぶふっと鼻を鳴らした。

 私は動きを止めて、いつまでも熱を持ち続ける頬をぐりぐりとグレイズの背中に押しつけた。


「予想外に綺麗で驚いたの……」


 そう、グレイズはブルドッグの姿からは考えられないほどの美丈夫だった。

 いくら普段は醜いと揶揄されていても、美しいもの好きの令嬢達に囲まれてきゃあきゃあ騒がれる方が大問題だ。

 殿下付きの騎士であるため、それならば醜いと馬鹿にされている方が都合がいいのだとか。


「僕の顔、好き?」


 グレイズは私に抱きつかれたまま誇らしげだ。


「……好きです」


 顔だけではないけれど。

 募った想いをさりげなくのせて伝えると、いとも簡単に見透かしてしまうグレイズはまたぶふっと鼻を鳴らした。


 短いしっぽが喜びに満ちて揺れていた。




 ❇︎




 その後。


 グレイズとは突然の婚姻ということもあり、婚姻式までの準備期間中は婚約者としてお互いの屋敷を行き来して交流を深めた。

 人型の姿でデートをすることもあるが、そちらはやっぱり見慣れないグレイズの素顔に私は恥ずかしさばかりが募って「チェ、チェンジ……」と言ってしまう。

 グレイズは「外ではダメ」と優しく笑いつつも、私が顔を見なくていいように前を歩いてくれる。


 ブルドッグとは違う、けれど筋肉質で大きな背中。

 繋がれた手から伝わる人肌の体温が心地よくて、見上げた背中は愛しくて、グレイズはグレイズに変わりないと実感する毎日だった。



「グレイズ様の剣?」


 和やかな日々を過ごしていたある日、グレイズの侍従が馬車で私を迎えにきた。

 乗せられ城に向かう道中でその剣を渡され、ずっしりとした重さを感じながら私は困惑する。


「はい。レイチェル様にお届け願いたく参りました」

「お忘れになったの?」

「いいえ、まさか。グレイズ様は普段は剣を持ち歩かないのです」


 忘れたとしたら、騎士にあるまじき失態。

 けれど侍従から返ってきた答えも、騎士にはあるまじきこと。

 私はさらに困惑した。


「グレイズ様は剣を持ち歩かないの……?」

「えぇ、普段はブルドッグの姿ですから。剣は必要ないのです」

「あ、そうね。持てないものね」

「いえ、そういうことではなくて」


 侍従は首をふるふると横に振った。


「ブルドッグは牛と闘えるほどの強さを持っております。剣の腕も確かではありますが、王太子殿下付きになられた理由はグレイズ様の強さです」

「う、うし……」

「グレイズ様はお強いですよ」


 にこやかな侍従は、けれど私が剣を持っていかねばならない理由は教えてくれなかった。

 それは本人に聞いてくださいと言われ、城に到着した馬車を降りて私は歩き慣れた城内を歩く。


 登城していた貴族達から嘲笑の眼差しを向けられながら、メイドの案内でこれまた訪れ慣れた庭園に足を踏み入れた。

 木陰の下、私にとってはもうどうでもいい人達が、私に気づかずにティータイムを楽しんでいた。


「ねぇ殿下? レイチェル様はしっかり更生なさったんでしょうか?」

「したと聞いている」

「でも私、街でレイチェル様がとてもお綺麗な男性と歩いているのを見ましたよ。もしかして浮気じゃないんですか?」

「……レイチェル嬢はグレイズに任せている。その話はやめよう」

「でも、もしかしたらグレイズ様の手に負えないのかも? だってほら、人型になってもお顔が……」

「ローラ。やめろ」


 殿下の制止で、私は二人の前へ歩み出た。

 そこでようやく同じく木陰に付き添っていたグレイズの姿を見つけ、ホッと安心して作法通りの挨拶をした。


「王太子殿下、ローラ様にご挨拶申し上げます」

「久しぶりだな、レイチェル嬢。……その剣は?」

「こちらは、グレイズ様に」


 相変わらず息を荒くしているグレイズに近寄り、その場に膝をついてグレイズの口元のよだれを拭う。崩れた後ろ足といい、よほど暑いのだろう。

 殿下がいることなどお構いなしに、私はメイドに水を持ってくるよう言い付けた。


 そんな私の姿にローラは腑に落ちなかったのか、先ほどの話を蒸し返した。


「レイチェル様、グレイズ様のお顔は見られました?」

「えぇ、もちろんです」

「やはり醜いのでしょう? だってレイチェル様、先日は見慣れない男性と一緒にいましたよね」

「それは……」



「それは、僕のことではありませんか?」



 耳に入る荒い息遣いが消えた。

 そして感じるのは、私よりも大きな体の熱。包み込むように、私の上からその声は降ってきた。


 離れたところで、メイドが水を落とした音が聞こえた。


「レイチェル、剣を持ってきてくれてありがとう」

「グ、ググ、グレイズ様?」

「僕だけならいいんだけど、レイチェルまで揶揄されるのはもう我慢ができなくて」


 グレイズは「あっついなぁ……」と汗の滴る前髪を掻き上げる。

 その仕草に私はくらりとするし、ローラまで口をぱくぱくとさせた。


「グ、グレッ……」

「レイチェルと一緒にいたのは僕で間違いないでしょう?」

「そんな顔なんて聞いてない!」

「知ってるのは殿下だけですので」

「殿下!?」


 振り返ったローラに、殿下は大きくため息を吐いた。


「だから人型の姿はろくなもんじゃないと言ったんだ」

「意味が違います!!」


 食ってかかるローラに、私は密かに「殿下の言う通りよ……」と共感した。

 当のグレイズは立ち上がり私から受け取った剣をくと、いつもの美しさの中に凛々しさまで見せつけてきた。

 色気に当てられ限界を迎えた私を、グレイズはそっと抱き寄せ支えながら立たせてくれる。


「レイチェル、そろそろ慣れてほしいな。僕は今後、君を守るためにこの姿でいようと思ってるんだ」

「だから剣を……?」

「さすがに人型では剣が必要だからね」


 微笑み、おでこにキスを落とされる。

 こんなに至近距離でグレイズと密着していることが耐えられず、つい癖で「チェンジ……!」と言ってしまう私の口はグレイズの指で塞がれた。


「次からそれを言う時は、塞いじゃうからね」

「ど、どういう……」

「わかるでしょ?」


 にこやかなグレイズの唇に思わず目がいってしまう。

 その視線に気づいたグレイズは「今しちゃう?」と悪戯に言った。私はもう立っていられなかった。

 ふらついたところを、グレイズに横抱きにされた。


「さて、ローラ様の誤解は解けたでしょうか。レイチェルもこの通り更生して僕には従順です。ご納得いただけましたか?」


 ローラは頬を赤らめて、少しの悔しさを滲ませてこくこくと頷いた。

 私は「これはなんの羞恥プレイなの?」とグレイズの胸に顔を埋めた。


「殿下。レイチェルを送って参ります。許可をいただけますか?」

「あ、あぁ……」

「では少しの間、離れます」


 私を抱き上げたままグレイズは歩き出した。

 その足取りはまったく揺らぐことなく、ブルドッグの姿の時に抱きついた通りの安定感があった。


 けれど、数歩のところでグレイズは足を止めて殿下を振り返った。


「差し出がましい忠告ではありますが……浮気にはお気をつけくださいね、殿下」


 そしてローラを見る。

 ローラはグレイズの視線にびくりと肩を跳ねさせ、瞳が潤んだ。そこには確かにグレイズに対する興味が見えた。


 殿下は気まずそうにローラの肩を抱き寄せた。


「では、行って参ります」


 再び歩き出したグレイズの腕の中で、私の心は軽やかに晴れ渡った。




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悪役令嬢の溺愛 猫じゃらし @nekokusa222

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