第30話 何も見えない

 

「これ……は……」

「あらー。大きな呉服屋さんねぇ。せっかくだから、あとで仕立ててもらったら?」

 

 楽しそうにドクターは言うが、それどころではない。

 目の前にある呉服屋と呼ばれたものに向かっていく良家のお嬢様らしき人を見る。雰囲気だけ見れば、繁盛しているのかもしれない。

 だが、私からしたら近寄るのを躊躇うどころか、ここは呉服屋さんなの? 真っ黒で何も見えないよ? 状態である。

 


「白、建物から穢れが収まりきらないではみ出している。真っ暗で建物自体が見えない」

 

 いくら田舎育ちで虫なんか慣れっこだとしても、虫のように飛んでいる黒い物体が一ヵ所に密集していれば、嫌悪感を抱くというもの。

 何も見えないほどの状態に、顔が引きつるのを抑えられない。

 

「どうする? 少しずつ浄化して中に入るか?」

 

 そうしたいのは山々なのだが、きよさんにご自宅へ伺うと言った以上、約束の時刻に遅れるわけにはいかない。


 恐る恐る黒い部分に触れると、触れた部分の穢れが弾けて粒子へと変わる。あまりにも一瞬のことで目を疑ったが、もう一度触れると金木犀の香りと共に粒子となって消えていった。


「手を前に伸ばしたまま歩くのって、おかしいよね?」


 この真っ黒い中に突っ込むのも嫌だけど、そもそも黒すぎて建物事態が見えないのだ。リアルお先真っ暗で、転んだりぶつかったりする可能性が高い。


「……少し、変だな」

「だよねぇ……」


 白樹と二人、どうしたものかと首を捻っていれば、ドクターが明るい声をあげた。


「大丈夫よぉ。ほら、こうすれば……ね?」


 ドクターは嬉々として私の手を取ると、白樹の腰へと移動させた。これではまるで、電車ごっこをしている子どものようだ。

 あれ? 電車ごっこは肩に手を乗せるんだったっけ? 


「完璧よ!」


 うんうんと頷きながら、自信満々のドクター。

 確かに、一人で前に手を伸ばしているのよりはマシかもしれない。だけどなぁ……。うーん。


「これはこれで、変じゃない?」

「そうかしら? 二人でやるからおかしいのかしらねぇ。これなら、どう?」


 そう言って、私の後ろに合体したドクター。身長差からなのか、両手は私の肩に乗っている。

 電車ごっこみたいではなく、電車ごっこをしている大人の完成である。


「却下。治療以外で花に触れるな」

「んまー! 一丁前いっちょうまえに焼きもち焼いちゃってぇ」


 人様のお店の前で、わいわいガヤガヤ。これではお店の迷惑になってしまう。


「ここで騒いだら、ご迷惑に──」

「大丈夫ですよ」


 その声に振り向けば、清さんが立っている。


「はじめまして。あたしはドクター。医者よぉ」

「あ、お医者様でしたか。態々お越し頂き、ありがとうございます」


 紹介をする前にドクターは自ら名乗り、清さんに案内してもらって真っ黒な中へと入っていく。

 私と白樹は顔を見合わせた。きっとこれはドクターの気遣いだ。私が浄化をしながら進めるように。


 清さんとドクターが先に行ってくれたので、白樹に両手を引いてもらって歩く。両手を引いてもらうといっても、白樹は後ろ手で私の手を握っているので、端からみたらイチャイチャしているように見えるだろう。

 

 この姿を見られないことを祈りながら歩を進める。

 清さんが振り向いても、真っ暗で前が見えない私からは彼女が見えない。

 けれど、恋人に裏切られた彼女にこの姿を見せたくなかった。

 

 私が通ってきた──私の体が触れた場所を除いて、お家の中は真っ黒だ。一体どれだけの穢れを呼び寄せてきたのか検討もつかない。

 穢れに四方八方囲まれる閉塞感。どことなく重い空気。息苦しくて、少しずつ頭がフラフラとしてくる。


「花、大丈夫か?」

「うん。何か息苦しいけど、とりあえずは大丈夫。白は平気なの?」


 小さな声でこそこそと話す。白樹は少しだけ肩が重いかな? くらいなもので、明らかな身体的不調を感じているのは私だけらしい。



「母はほとんど目を開きません。すっかり痩せてしまっていますが、驚かないでくださいね」


 その声とともに、引き戸の開く音がした。


 ぶわり──。


 真っ黒だった視界は変わらないのに、酸素が薄くなる。手足が冷たいのに、汗が止まらない。心臓が忙しなく動き、息も浅く速いものへと変わる。


 そこに何かいる。


 攻撃的なものではなく、暗くて鬱蒼うっそうとした、光の届かない場所を連想させるじめっとした何か。暗い方、暗い方へと手招きをしているかのようだ。

 

「白、私を連れていって……」

 

 より空気の薄い場所に清さんのお母さんがいる。

 清さんの前で手を引いてもらうことに一瞬だけ躊躇ったが、私は白樹の手を借りて足を踏み出した。

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