第17話 彼の名前
「黒い、蛇のような形をしたものがいます」
これが穢れ? 浄化できれば、助けることができるのだろうか。
足を踏み出して、扉の中へと入る。すると、一斉に焦点の合わない瞳でこちらを見た。倒れていて動かなかった人まで立ち上がっている。
まるで鉄格子など見えていないかのようにこちらへと向かって来て、ガシャン、ガシャンと体当たりを繰り返す。
呻き声とともに、何と言っているのか分からない叫びが混じる。獣の
鉄格子が揺れている。無事では済まないであろう鉄格子にぶつかる音が響く。
黒い蛇のような動きをする穢れが、楽しそうに、笑うかのように揺れている。
それを見た瞬間、ガチャリと普段は決して表に出ることのない、心の奥のもっと奥に封じられていた感情の鍵が開かれたような、自分でも知らなかった私が顔を出した。
「……殺す」
自然と口から漏れたそれは、生まれて一度も明確な意図を持って使ったことのない言葉。
目の前が赤く染まるほどの膨大な怒りが胸のなかで渦巻いている。けれど、頭のなかは自分でも驚くほどに冷静だ。
あれは、人の命で遊んでいる。まるで
先ほどまではあんなにも恐ろしかったのに、今はもう感じない。悲しみもあったはずだけど、それも大き過ぎるほどの怒りが飲み込んでしまった。
一歩一歩、目の前にある一つの鉄格子へと近付けば白樹に肩を掴まれた。
「近付きすぎだ」
「……浄化をするなら、近付かないとでしょ?」
そう。浄化するならば触れなくてはならない。遠くから浄化を願おうが、何も変わらないのだ。便利なようで不便な力である。
「もう、帰ろう。変だ」
「帰らないよ。助けるんだから」
本人に身体を返さないと。穢れがいなくなったら、死んだ方がマシだと思うほどの痛みを感じるかもしれない。このまま命が尽きた方が幸せかもしれない。
これはエゴだ。あんなのに負けないで欲しいという私の我が儘。
「お願い。やらせて……」
どんな結末になろうとも、私は浄化をする。このまま放ってはおかない。
「それなら、完全に動けないようにしてから──」
「大丈夫だから」
自分だけが傷付かない、安全なところで浄化をする。それでは何の意味もない。
「負けたくないの」
穢れと呼ばれる、この黒い生き物に。自分の力で勝ちたいのだ。
「花嫁の願いは絶対だって言ってたよね?」
ここでその話を持ち出すのは
迷いを感じる金の瞳に笑いかける。譲れと圧をかけるかのように。
「花……」
何か言いたげに私を呼び、肩に置かれた手は離れていく。
「ごめんね」
凶暴化した人たちへと一歩、また一歩と近付く。目の前の彼は鉄格子への体当たりを止め、私へと手を伸ばす。呻き声をあげながら。
自我は少しでも残っているのだろうか。
手を伸ばせば触れられそうは距離になった途端、凶暴化した彼の手が私を捕まえようとする。その手を握ろうとした瞬間、チリリと鋭い痛みが走る。
だが、痛いのは私だけではなかった。目の前の彼も苦しんでいる。
「あ゛あ゛あ゛ぁぁぁ」
私に触れた指先が崩れている。穢れは小さく振動するかのように震え、波立つ。
「だ……ず…………けて…………」
それは、人としての言葉なのか。はたまた、消されたくないという穢れの心なのか。
彼と視線が合った。だが、それも一瞬で。またどこを見ているのか分からない、焦点の合わない瞳へと変わる。
もう一度、彼へと手を伸ばす。今度は頬に痛みが走ったが、気にならなかった。
鉄格子越しに抱きしめる。
もっと、もっと早く来ていたら……。
私が弱いから、ただ眠っていただけの
知らないことは罪だ。与えられた環境で何も考えず、暇だと思っていた時、この人はどうだった?
ごめんなさい。来るのが遅くなって──。
ごめんなさい。助けられなくて──。
ごめんなさい。最期に大切な人に会わせてもあげられなくて──。
後ろで白樹が叫ぶ声がする。それを止める輪さんと善くん、あっくんの声も。
パンッという音と共に、金木犀の香りが強くなる。私の腕のなかに、彼はもういない。砂のような
彼がいた鉄格子の中には何もない。飛び散っていた血痕も、まるで何もなかったかのように消えてしまった。存在などしていなかったかのように。
「彼の名前は何ですか?」
今更知ったところで、呼べるわけもない。それでも、知らなければ。
「
「そうですか」
何もない鉄格子のなかを見る。ここには一人の人生があった。もっと早く来れば、助けられたかもしれない命があったのだ。
「次の人の浄化をします」
今はまだ、立ち止まっている場合ではない。
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