第33話〈悲劇の前夜〉

 3月9日の夜は、夜間の空襲に備えて減光した灯火管制の中、ささやかながら純子ちゃんの卒業式の前祝いをした。


「二人に会えて本当に嬉しい! 茨城の方は空襲、大丈夫だったの?」


「それが百里原も空襲で兵舎が燃えて大変だったんじゃ~」


「そうなの? 二人とも無事で本当によかった……兵舎がやられたんじゃあ当分出撃はなさそうでよかったわ」


「そ、そうだね……」


 僕達は曖昧な返事をする事しかできなかった。

 百里原海軍航空隊は具体的な編成の話はまだないが、3月末から特攻の菊水作戦に参加する事が決まっていたから……


 僕はせめてもと純子ちゃんに卒業祝いを用意していたが、明日の卒業式の後に渡そうと思っていた。

 ヒロは終始、上機嫌で……僕と肩を組んで急に歌いだした。


「よし、久し振りによさこい節でも歌うかのう! 土佐の高知の~はりまや橋で~坊さんカンザシ~買うを見た~よさこい~よさこい~」


 その時僕は、ヒロが純子ちゃんにカンザシを渡した事と、鹿島にいた頃に坂本くんに聞いた話を思い出した。

 よさこい節は江戸時代にあった、お馬という娘と20歳年上の純信という僧との悲恋物語が元で、カンザシを贈る行為は婚約指輪を贈るのと同じで「あなたを一生守ります」という意味がある事を……


 僕は明日、もしかしたら最後になるかもしれないからと卒業式の後に自分の想いを打ち明けようと思っていたが……ヒロの本気の想いに気付いて告白するのをやめた。


「それにしても1ヶ月位前に空襲があるって予告のビラが空から落ちてきたけど……この間の位ので済んで本当によかったわ」


「えっ、予告のビラ?」


 空襲予告ビラとは全国各地で上空から米軍機が散布したもので……表には避難するよう警告文が書いてあり、裏に攻撃対象都市が記載されたものもあった。

 初めて散布されたのは1945年2月17日……

 関東から東海地方までの広範囲で、落ちてきたビラを恐る恐る拾った人が多くいたそうだ。


 政府は空襲予告を広く伝えて避難を促すのではなく、逆に国民に不安や動揺が広がって都市部から大勢逃げ出したり戦争批判の世論が高まることを恐れた。

 憲兵司令部は火消しに走り……「敵の宣伝を流布してはならない」「発見したら直ちに憲兵隊や警察に届け出よ」「一枚たりとも国土に存在させぬように」と発表して新聞各紙にも掲載……

 ビラは警察官も動員して総出で即回収し、隠し持っている者は非国民扱いでスパイの疑いをかけて厳しく罰した。


 戦争末期の空襲予告ビラには「都市にある軍事施設を……戦争を長引かせるために使う兵器を米空軍は全部破壊します……アメリカは罪のない人達を傷つけたくはありません……アメリカの敵はあなた方ではありません。あなた方を戦争に引っ張り込んでいる軍部こそ敵です……アメリカの考えている平和というのはただ軍部の圧迫からあなた方を解放することです。そうすればもっとよい新日本が出来上がるんです。戦争を止めるような新指導者を樹てて平和を恢復したらどうですか……裏に書いてある都市から避難して下さい」と書かれていたそうだ。


「実は2月25日の空襲の時に慌てて逃げようとしたら憲兵さんに『逃げるな、火を消せ』と怒られてしまって……臆病者よね、今はみんなが戦わなきゃいけない時なのに……」


「そんな……」


 僕は純子ちゃんが実は消火活動に参加している途中で髪が燃えたのだという話を静子おばさんから聞いて、避難よりも危険な場所に留まる事を強いる政府に強い憤りを感じた。


「僕、バケツリレーの消火訓練で褒められたんだよ~ホイサッ、ホイサッ、ね~早いでしょ?」


 浩くんは久し振りの家族団欒が楽しかったようで、はしゃぎ回っていたが……


 「防空法」の改正後、政府は「焼夷弾は簡単に消せる」と砂袋や手製の火叩きなど身近な道具で消火する方法を紹介し、「空襲から決して逃げず、焼夷弾を消火することが国民の義務」として消火訓練を盛んに行い、防空壕は床下を掘って設置することが原則とされた。

 それは爆弾が投下されたら迅速に飛び出して防空活動に従事できるようにするためで……名称も退避所ではなく消火出動拠点として「待避所」に改められた。

 しかし焼夷弾は発火装置と燃焼剤が一体となっており……投下されると数十メートル四方へ火焔とゲル化したガソリンなどの油脂が噴出され、一瞬で猛烈な炎が家屋を包んで近づくのも危険な程の火力で……紹介された方法で到底消火できるものではなかった。

 帝国大学の教授が、中国で押収した米軍製の焼夷弾の燃焼実験を行ったところ「焼夷弾を消すことは不可能」という結論を得たにも関わらず、政府は科学者の警告を無視し「空襲は怖くないから逃げる必要はない。逃げずに火を消せ」と宣伝していた。


 夜もふける頃、明日は早いので僕は播磨屋に泊まる事を提案された。

 浩くんは、はしゃぎ疲れて1階の居間で寝てしまい……静子おばさんも側で寝るとのことで勧められた風呂に入りにいった。


 ……が、着替えの一部を2階に忘れた事に気付き、寝ている浩くん達を起こさないよう静かに階段を上がると……ヒロと純子ちゃんの声が聞こえてきた。


「……純子……ずっと言われへんかったけど…………俺はお前が好きや!」


「えっ、光ちゃん?」


「実はな、これが最後かもしれへんのや……せやから戻る前に言わなあかん思て」


「そんな……そんな事言わずに必ず帰ってきて」


「帰ってきたくてものう……3月末から特攻作戦に参加するから、無理かもしれへんのや」


「嫌! 嫌よ、そんなの……約束したじゃない!」


「せやな、約束したな……でもこの国を守るために、お前を守るために、行かなあかんのや…………最後に、おまんを抱き締めてもええか?」


「うん…………いいよ……」


「ほんまは、おまんの側にずっとおりたい……このまま、おまんと一つになりたい……」


「……………………いいよ」


「………………やっぱやめや……お前、泣いとるし」


「ック、泣いてない!」


「泣いてるやろ……目、見れば分かる」


「ち、違……」


「すまんな、変な事言うて……忘れてくれ」


 僕は動揺している自分の気持ちを必死に押し殺し、1階に降りてきたヒロに今まさに風呂から出てきたようなフリをした。


「すまん源次……やっぱ今日、源次の所に泊めてもらえへんか? 久し振りに二人で飲み明かそうや……っちゅうても、ほぼ水やけどな」


 僕達は泣きながら寝てしまった純子ちゃんや1階で寝ている静子おばさん達が心配しないように置き手紙を書き、もう遅い時間なので二人で歩いてアパートに向かった。

 その途中、なぜだか分からないが僕はとても嫌な予感がしていた。


「なあ、ヒロ……空襲、本当に大丈夫かな? 予告の空襲が2月だけの事ならいいんだけど、明日の3月10日が陸軍記念日だから気になって……」


「ビラの予告か? まあ、大丈夫やろ」


 出来るだけ純子ちゃんの話題にならないよう気を使いながら歩いていると……


ウゥゥーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーウゥゥ


「長いから警戒警報だ……急いで戻らなきゃ!」


 僕達は大分先まで歩いていたが、播磨屋に戻るため急いで走った……が暫くして警戒警報が解除された。


「なんじゃ~おどかしよって」


 一瞬本当に焦ったが、空襲が来なくて本当によかったと安堵し再びアパートに向かった。

 到着する頃には二人とも疲れていて、一息ついて「やっぱり明日の卒業式に備えて眠ろう」と布団を広げていた時だった……

 ラジオから突然、東部軍管区情報が鳴り響いた。


「ブーッブーッ、関東地区、関東地区、空襲警報発令、東部軍司令部より関東地区に空襲警報が発令されました……房総半島沖合に多数のB-29を発見……」


ゴォォォォォォォォォォ


「なんじゃあ、ありゃあ!!」


 僕達が遠くの空に見たのは、今まで誰も見たことがないであろう一面に広がる多数のB-29の不気味な姿だった。

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