第9話 聖母。
時は巡り次の週の定休日。
もう四月となっていた。
玄関を開けた向こうには、近所の桜が見える。
けぶるような薄紅色は美しい光景だ。
朝の少しひんやりとした空気も心地よい。
だが……。
「はろはろー! 今日もいい天気ね! ってことで一緒に遊園地に行きましょう!」
優はアポイントメントなしで突然訪ねてきた笑顔の花蓮を前に、こめかみを抑えながら唸るように言った。
「断ります。私は忙しいんです」
あいかわらず花蓮が相手の時は声だけでなく表情にも不機嫌があらわれる。
「まあまあ」
また強引に腕を引っ張ってくる花蓮に、このままでは部屋着のまま財布もスマホもなしに連れまわされると察した優は折れた。
「わかった。わかりましから」
花蓮はパッと腕を放す。
「じゃ、身支度してきてね」
いつもこのパターンな気がすると頭痛を覚えながらも、優は着替えて財布とスマホを入れた鞄を肩にかけて花蓮の元へ戻った。
花蓮の服装は深緑のガウチョパンツにTシャツ、レモン色のカーディガンという軽い装いだった。
背中には水色のリュックサックを背負っている。
両手が自由になるようにしているのだろう。
思いきり遊園地を楽しむつもりだとわかる。
遊園地は隣県にある夢の国。
電車に一時間ほど揺られ着いたところでチケットを購入し中に入る。
「平日の割に人がいますね」
優は辺りを見回して静かに感嘆する。
小さな子供の手を引く親に、恋人同士と思われる男女、仲良しグループと思われる集団が数々道を行きかっていた。
「何言ってるの。夢の国にしては少ない方よ」
花蓮の台詞に優は「信じられない」とあんぐり口を開ける。
この人通りの多さで少ないほうとは。
花蓮は「優があからさまに『驚いた!』って表情始めた見たかも。レアね!」とはしゃぐ。
ふふっと笑った後、
「優は夢の国に来たの初めて?」
なにげなくといった風情で質問する。
「ええ、初めてです」
優秀であれと要求する義理の両親は教育することばかり考えて遊ばせる時間など取らなかった。
彼らが事故死したあとも、優には友人がいないため遊園地に一緒に行く人間もいなかった。
誘われたところで開店準備に忙しくて断っただろうが。
「じゃあ今日は思いっきり楽しみましょう! まずは最初は軽くコーヒーカップから!」
花蓮は優の腕を引いて走り出した。
「ちょっと、そんなに急がなくてもいいでしょう!」
「あははは!」
優は走りなれていないため戸惑うしまごついたが、花蓮のはじける笑顔にやがて脱力する。
もう遊園地には来てしまったのだから、しかたがないから彼女に付き合おう。
そう、しかたがないから。
陽に透けて金色に輝く花蓮の髪のまぶしさに目を細めながら、優は先導する彼女に大人しく従うのだった。
花蓮が最初に選んだアトラクションは宣言通りコーヒーカップだった。
「ほら、優、この真ん中の円盤を回すとね……」
花蓮が円盤をすごい勢いで回し始めると、乗っているコーヒーカップがぐるぐると高速で動きだす。
「や、やめて下さい! 気持ち悪くなるでしょう!」
優は円盤を回す花蓮の手を止めようとするが、酔ってしまって力の入らない腕ではそれはかなわなかった。
「あはははは! どう、優! すごいでしょう!」
花蓮のバカみたいに浮かれた声に『なにがすごいんですか!』と怒鳴りつけたかったのだが、目が回ってしまってそれどころではなかった。
降りる頃には優はふらふらだ。
「う~、花蓮、恨みますよ」
気持ち悪い、と口元を押さえる優に、花蓮は手を合わせて謝る。
「ごめんごめん。そこのベンチで少し休憩しましょう。飲み物買ってくるから待ってて」
優はベンチに座って天を仰いだ。
最初は軽くと花蓮は言った。
コーヒーカップはそんなに激しいアトラクションだと思われていないのだろう。
それでこのザマだ。
優はなんだか情けない気分になった。
やはり、自分には一般的な楽しみに興じる素養がないのではないか。
「優、飲み物買ってきたわ。あなた炭酸は『我慢したら飲める』程度だったはずだから、カフェラテにしといたわよ」
「ありがとう」
弱っているため素直に紙コップを受け取る。
熱いカフェラテを冷ましながら少しずつ呑み込んでいくと、だんだん落ち着いてくる。
花蓮も隣に座って自分の分を飲んでいる。
「優、次は乗り物に乗って人形の歌や踊りを楽しむアトラクションに行きましょう。それは動きが激しくないし、目と耳に楽しいはずよ」
優は花蓮に胡乱な視線を向ける。
「まだ連れまわす気ですか。私はこういうのを楽しむ素養がない。一人で行って来て下さい」
優はもっともなことを言っているつもりだった。
しかし、声はまるで「拗ねた子供」そのものの響きをしていた。
そんな優にすぐには返答せず、花蓮は無言ですっくと立ち上がり、紙コップをベンチに置く。
優の正面に回ると、彼の頬を両手で挟んだ。
そして目と目を合わせる。
「優、素養がないわけじゃないわ。ちょっと慣れてないだけよ。少し場数を踏めばすぐ楽しめるようになるわ」
普段のからかう口調ではない。
顔つきも真剣そのものだ。
優はなんだか恥ずかしくなった。
こんなふうに「諭される」くらいなら茶化された方がマシである。
そんな優の胸中も知らず、花蓮は続けた。
「大丈夫、あたしがついているから」
ふわりと花蓮が慈愛のこもった表情を浮かべる。
例のたまに向けられる「聖母」の笑みだ。
優は声を絞り出す。
「なんで……そんな……」
頬を包んでくる体温に、優は何故だか泣きそうな気分になる。
なんだか変だ。
「言ったでしょう。あたしはあなたにあたたかさを教えたいの。心地いいってことを覚えて欲しいの」
優は混乱する。
自分にあたたかさを教えることが、花蓮にとってなにかメリットになるのだろうか。
そんなことはないだろう。
なんのメリットもないのに、何故こんなことを?
人付き合いは商談ではない。
損得で考えるものではないのだ。
優にはそんなことさえわからない。
「私は……あなたのことが全然理解できません……」
優は顔をゆがめる。
苦しくて痛いのに、どこかふわりとあたたかい気持ちが、嫌だった。
「あら、あたしはけっこう単純な人間なのにね」
花蓮が単純な人間だなど、優にはとうてい信じられなかった。
「さ、もう飲み物も飲んだし、行くわよ!」
隣に設置してあったゴミ箱にからになった紙コップを入れて、花蓮はまた優を引っ張る。
その花蓮の手のあたたかさを、優はすでに『偽物』と一刀両断することができなくなりそうだった。
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