第2話 陽キャ令嬢、花蓮参上。
もうすぐ四月になるある日のこと、外はしとしとと雨が降っていた。
ガラスを叩く雨音を聞きながら、客のいない店内で優は黙々と見本品の手入れをしていた。
手の中のダイヤモンドは、店内の照明を吸い込んでキラキラと輝いているのに、優の表情は暗く沈んでいる。
それは、天気のせいであった。
四年前、優が大学一年生の夏に育ててくれていた義理の両親は死んだ。その知らせが届いたのが、こんな雨の日であったのだ。
不規則に鼓膜を叩いてくる音が、わけもなく不安を掻き立てる。
気にしなければ気にならない程度の、そう強くもない雨音だ。
なのに……。
優は己の精神の脆弱さに落ち込みそうになりながらも耐え、ふぅと息を吐いた。
なにかで気を紛らわそうとラジオを付けることにする。
災害時に必要だろうと購入したものの、届いたときのまま段ボールの中に入れっぱなしだったものだ。
カッターを出し、封を開ける。ビニール袋に包まれた、ティッシュボックスほどの大きさの黒くて四角い機体。乾電池を入れてスイッチを回すと、軽快な音楽が流れ出した。
それでも最初は、音はなくともガラスに流れる雨の筋が気になってしまっていたが、だんだんと陽気な音楽が精神をなだめてくれるようになった。
少しホッとしてきたころ、チリンチリンとさやかな音を立てて店のドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
優は営業用の愛想笑いを作って立ち上がった。だが。
「あ、あなたっ……花蓮じゃありませんか!」
悪魔と遭遇したような表情で優は叫んだ。
「お久―! 元気してる?」
花蓮と呼ばれた女性は、フルートのように聴き心地の良い声で朗らかにそんな挨拶をしながら手をひらひらさせる。
やわらかくウェーブした茶髪は肩にかかる長さで、ミルク色の肌に咲き初めの薔薇のような淡いピンクの唇が可愛らしい。年の頃はだいたい優と同じほどだろう。
ブルージーンズに白いスプリングコートとジュエリーショップに入るにはカジュアルな格好をしている。
彼女が手に持っているパステルブルーの長傘から水滴が伝い落ち、店の床に歪んだ円を描いていく。
「花蓮、お前がこの店が良いって推したのは、知り合いがやってるからか? 懇意にしていても、ジュエリーがお粗末な出来だったら笑いものだぞ。ずいぶん小さな店舗だしな」
コントラバスのような良い声が割って入ってきた。
そこで優はようやく花蓮だけでなくもう一人客がいたことに気づく。
今まで目に入っていなかったのがおかしいくらい存在感のある男だった。
ツーブロックの髪形で、彫りの深い美形だ。
細いが筋肉はついているようで見栄えがする。
外国人のようにも見えるが、そのわりには流ちょうな日本語を話している。
「あたしがこのお店を選んだのはジュエリーが美しいからよ。友達が作ってもらったのを見せてもらって一目ぼれしたの。誰の作品かは後で知ったのよ。知り合いだったことに驚いたわ」
優がその友達とやらの名前を訪ねると、確かに顧客の一人だった。
「そのガラスケースの中にあるのは見本ね? ほら、見て弘」
花蓮と弘は、見本品が陳列されているガラスケースを覗き込む。
「ほぉ、植物の生命力と儚い美しさが良く表されている。こちらは今にも飛び立ちそうな蝶の躍動感が素晴らしい。うん、俺様たちの婚約指輪を作るのを許そう。この世界一のファッションコーディネーターである俺様と花蓮の婚約指輪だ。豪奢だが下品でないデザインで頼む。金はいくらかかっても構わない」
婚約指輪と耳にして、優は腰が抜けそうになった。
数秒間ぽかんと口を開けた後。
「花蓮、あなたでもお嫁に行けるんですね……」
思わず出た優の言葉に、花蓮は唇を尖らせる。
「もうっ、氷の貴公子は健在ね! 毒舌なんだから!」
「氷の貴公子は止めて下さい」
優は久々に耳にした不本意な己の二つ名に、鳥肌の立った腕をさする。
「氷の貴公子だと?」
弘が訝しげな声を上げる。
「ええ。優とは大学が一緒だったんだけど、学内ですごい美形だけどすごい塩対応の男子がいるって話題だったの。そしてついたあだ名が氷の貴公子よ」
花蓮の説明に、弘は「ほぉ」と感心したような声を上げる。
「確かにただの美形ではなく品がある。貴公子と言うのも頷けるな。でも同じ大学『だった』と過去形なのはどうしてだ? 今年で卒業したからか?」
弘の疑問に、優は脳内で『ああ、順当に通っていれば今年の三月で卒業だったのか』とひとりごちた。
「優は大学一年の秋に自主退学しちゃったのよ」
原因は義理の両親の死亡だ。
別に学費が払えなかったわけじゃない。
遺産を使えば通学は可能だった。
だが、常に「優秀であれ」とプレッシャーをかけてきた両親から解放され、それならば自分のやりたいことをやろうと、遺産を学費ではなくこの店を開く資金として使ったのだ。
花蓮はこの店のことは知らないが、遺産が学費を賄える程度はあったことは知っている。
花蓮は氷の貴公子と呼ばれるぐらい塩対応だった優にものともせず話しかけ続け、その結果非常に不本意なことに優の事情はあらかた知っている。
優がこの店に花蓮が現れた瞬間悪魔と遭遇したような声を上げたのも、自分の黒歴史を知る人物として敬遠しているからだ。
できれば会いたくなかった。
「もういいでしょう。それで? 婚約指輪を作るんでしたね。何か希望は?」
優が営業用の仮面も脱ぎ捨ててぶっきらぼうに問いかける。
そんな態度でも美貌は翳らない。
むしろマゾっ気のある人間にはご褒美になるだろう。
「さっき言っただろう。豪奢かつ上品に」
弘がやけに胸を張りながら答える。
「なるほど? 使いたい宝石はありますか?」
これには弘も花蓮も首をひねって考え始めた。
「好きな宝石はいろいろあるけど、特に思い入れが強いのとかはないわねぇ」
「そもそも、婚約指輪に使うのはダイヤモンドだろう?」
弘の先入観を壊すべく、優は口を開いた。
「ムガール・エメラルドの逸話を知らないんですね」
弘と花蓮が首を傾げる。
その様子は婚約者同士なだけあってそっくりで、優は少しおかしかった。
そのせいもあって、舌はなめらかに動いた。
「その昔、英国王だったウィンザー公という人物が、恋人のウォリスのために王冠を捨てたんです。そして婚約指輪としてムガール帝国の皇帝が所有していた世界最大のエメラルドを半分にしたものを送った。それが、通称ムガール・エメラルド。わかったでしょう、婚約指輪はダイヤモンドに限らないってことです」
弘は感動の吐息を漏らし、花蓮は頬を赤くし目をキラキラさせ「恋人のために王位を捨てるなんて素敵ね」と夢見心地の表情をしている。
優は、プライバシーを侵す勢いで根掘り葉掘り聞いてきて、また自分の話もマシンガンのようにする情緒のない女がそんな顔をするなんて意外だなと珍しそうに眺めていた。
「こんな逸話を聞いて面白みのないダイヤモンドにはしたくないわね。あたしの好きな宝石はルビーにサファイアにエメラルドにトパーズ……いろいろあって決め手がないわね」
「あなたの意見ばかり取り入れるわけにもいかないでしょう。弘さん? あなたの希望は?」
優が水を向けるも、弘は困惑する。
「宝石にはそんなに思い入れがないものでな。デザインが良ければなんでもかまわない」
「それだと花蓮の好きな宝石の中から選んでデザインを絞ることになりますね」
「ふーん、優の中ではあたしの宝石のイメージってどれ?」
問われて、優は「うーん」と唸った。
ルビーはラテン語のルーベラ、赤色という意味から来ている。
血を連想する色であることから、毒蛇に噛まれたときの傷の手当に効果があり、さらに毒薬に対する解毒剤、あるいはコレラから守り血や熱に対して効き目のあるお守りとされてきた。
そればかりでなく、嫉妬や愛への邪念を祓ってくれる石としてギリシャローマ時代からスピリチュアルストーンとして扱われてきた。
優は、花蓮はぐいぐい傷を押し広げてくるようなところがあるし、解毒剤どころか毒っぽい。とてもルビーのイメージじゃないと思った。
ならサファイアはどうか。
サファイアはギリシャ語でもラテン語でもヘブライ語でも青を意味する語源を持つ。
青といえば晴れ渡った空の色。
童話などでは幸福や希望の象徴にもなっている。
旧約聖書では「その透明なことは、天体のようであった」と表現されている。
ゆえに、神から授かった神聖な知恵の力を持つ宝石とされた。
花蓮に知恵なんかあるか?
ああでもいつも能天気だから幸福の象徴は当てはまるかもしれない。
優はそんな失礼なことを思った。
そんなわけでサファイアは保留である。
次にエメラルド。
緑色を意味する言葉から生まれたエメラルドは、オリエントでは未来を予知し、ギリシャにおいてはビーナスにささげる宝石だった。
また、キリストの最後の晩餐に用いられた聖杯はエメラルドで作られ、十字架にかけられ処刑されたキリストの血を受け止めたと伝えられている。
こうして不老、不滅、精神を鎮静化させるパワーを持ち、幸福、幸運をもたらし、さらに貞節と純潔を守る宝石とされている。
花蓮にこんな神聖なパワーを持つ宝石は分不相応だよなと、優はまたしても失礼なことを思った。
次はトパーズだ。
トパーズは日本語で黄玉石といわれるほど黄色が代表される石だ。
秋の紅葉を思わせるので十一月の誕生石にもなっている。
トパーズにはいろいろ意味が込められている。
インドにおいては火の意味を持ち、火の石とされた。
そして傷を治す治癒の力を持った宝石とされた。
エジプトにおいては太陽神ラーのシンボルでもあった。
中世では枕の下に入れると寝ている間に肉体の力が回復する、首から下げると知力が得られる、指にはめていると突然の死を予知して救ってくれるなど言われていた。
こうした意味を持つトパーズは、生命の復活と精神の緊張を鎮めて、友情、希望を象徴する宝石とされている。
花蓮のマシンガントークは火みたいなものかもしれない。
だが精神の緊張を鎮めるとかは真逆だななど優は悩んだ。
「どれもしっくりこないですね……というかあなたに宝石なんて分不相応じゃありません? ゾウのしっぽでもはめてればいいのでは?」
優のこの答えに、さすがの花蓮も「なんですって!」と険しい表情でこぶしを振り上げた。
「まあまあ、落ち着け花蓮。貴様も、花蓮を刺激するのは止めろ。そうだな、イメージが固まらないのはお互いに良く知らないからだろう。俺様や花蓮を観察してくれ。友達になろうではないか!」
「は?」
いきなりの友達宣言に優はめいっぱい不機嫌そうに眉間をしかめ、ド低音で答えた。
舌打ちしそうなるのを堪えているような奇妙に歪んだ唇といい、これまたマニアが食いつきそうなレアな表情だ。
「それ良い考えね! まああたしと優はもう友達だけど、交流はどれだけ深めたっていいわよね! あたしの大好きな弘と大好きな優が仲良くしてくれたら嬉しいし!」
優は内心で『待て待て、お前と友達になった覚えはないぞ?』と叫び、頭痛がしてきたのか無意識にこめかみを揉む。
「婚約指輪は八月までに作ってくれればいいぞ!」
弘は弘で笑顔で期日を告げる。
「待ってください! 私とあなたたちはただの客と店主! 友達になんかなりません! 花蓮、私とあなたの関係は単なる腐れ縁ですよ!」
優の精一杯の拒絶はしかし、花蓮には「またまた照れちゃって」とにやにやされ、弘には「ツンデレというやつだな!」と斜め上の理解をされた。
そうしてしばらく攻防が続いたのだが、結局は優が折れることとなった。
花蓮と弘が店を出た後、ずっと立ったままだった優はようやっとどさりと椅子に腰かけた。
すごく疲労している。
大学時代花蓮と会話をするといつもこうだったなと思い返しうんざりする。
今回は花蓮だけでなくその婚約者までついてきて迷惑度は二倍に跳ね上がった。
「迷惑料も加算するか?」
弘とやらが本当に世界的なファッションコーディネーターかは知らないが、自分から金に糸目は付けないと言ったのだ。少々高値でも文句を言わせるつもりはなかった。
「借金も返さなきゃいけないし、頑張るか」
それにしても、と優は店を出るときの花蓮を回想する。
彼女はドアの前でこちらを振り返り。
『あたしが最後に贈った言葉を覚えてる?』
と尋ねてきたのだ。
覚えていないと答えると。
『あなたが覚えていなくても、あたしは約束を果たすから』
そう微笑んだのだ。
少し寂しそうに。
いつもの花蓮は華やかというか派手というか、存在感がべらぼうにあるのだが、あのときは消えそうな危うさを醸し出していた。
「あれは、なんだったんだろうな」
いつだって底抜けに明るい花蓮には珍しい表情だった。
まあいい、覚えていない約束など無効だと優は思考から追い払ってまた見本品の手入れに戻る。
雨音が気になってラジオをつけていた事実など、もう覚えていなかった。
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