第一章 ◆出会い(side紗奈)
やっちゃった、かもしれない。
教室に入った瞬間の違和感。というよりも、いつも見ている絵画のほんの一部分がその日はなぜか特別に気になる、みたいな、まさか誰かに塗り替えられるなんて絶対に起こりえないことだけど、意識しすぎて、脳の方がそう信じてしまう、ような……とにかくそんな感じの嫌な予兆を感じた。
①友達の誘いは断らない。自分がいない空間を作らないこと
②なるべく自分の話はしない
③人と違った行動はしない
④欠点や恐怖心を見せない
⑤好きな人ができたり、新しいものを買ったら先手必勝、周囲に報告しておくこと
……など、これらは小学生のころ自分なりに編み出した、いじめの事前対策だった。
先日、
こんなことを言うと、さもひどいいじめにあっていたかのように思われるかもしれないけど、実際はそうではなかった。
現実で起こるいじめは、想像より些細な事件だと思う。新聞の一面で取りざたされるニュースだけではなく、端っこにある小枠のコラムのようなものもある。世の中、明確な理由があっていじめられる方が珍しい。
とにかく小学生のころに経験した、あの〝疎外感〟を感じたくないだけなのだ。
紗奈の場合、「桜明女子学院に合格したら携帯を買ってあげる」という母の誘い文句につられて受験を選択したのが結果的によかった。卒業間際だったこともあり、本格的な仲間外れからは間一髪で逃げ切れたからだ。
だからこそ中学では心機一転、そんな気持ちだった。
ふと我に返ると、教室の時計の針は十一時四十五分を指していた。四限は理科室での授業。いつもならリーダー格の
携帯の光が奥に見えたので、カバンの底に手を伸ばし前屈みになると腰上まで伸びた髪の束がはらりと落ちてくる。耳に掛けながら一瞬、結衣からかなと思ったが、どうやら昨日更新されたらしいSNS投稿の通知だった。確かに昨夜はカラオケから帰って一息ついたらなんだかひどく疲れが回ってきて、そのまま寝てしまったんだった。
紗奈は、通知をタップすると、ベースを弾く男の子が映っているのだが手ブレがひどくて何の動画なのかが分からない。
どうせ今から理科室に走っても遅刻は確定なんだからと自分に言い訳をした途端、自然とヘッドホンに手が伸びていた。
ベースを弾いているのはRINという男の子で、動画を撮っているのはおそらくギターボーカルのYUだ。弦をなめらかになぞる指、紗奈も何万回と聞いたか分からないベースフレーズ、それを実況風に褒めつつツッコミを入れる声が笑っている。
アングルを変えて撮っているのか、その笑い声は大きくなったり小さくなったりと忙しい。
画面を下にスクロールしていくと、「八月の全国高校生対抗バンドバトル初戦に出演決定!」という文字が飛び出してくる。
「えっ」
思わず声が出てしまう。
そうだ、一度偶然ライブを見たことがあるというだけで、それ以降はずっと画面越しだったため忘れていたが、彼らは実在する人物なのだ。会場の御茶ノ水まで電車で一時間くらいだから、ひとりでも頑張れば行ける距離。そう考えだすと、止まらなかった。
学校にいることをなんて忘てしまうほどの高揚感が押し寄せてくる。
人を好きになるのには理由なんてない。
紗奈はまだ恋愛を経験したことがなく、映画とか本でしか恋愛を知らないけど、そう実感した瞬間があった。
NEXUと出会いは、約一年半前。母の買い物についていったはいいが欲しいものが特になかったので、適当にウインドウショッピングをしていると、ある一枚のポスターを見つけた。
それが最上階にある楽器屋が経営する、音楽教室主催のイベントだった。
吸い込まれるように会場に入ると、聞いたことのない大きな音と、思った以上に人が溢れていることに驚いた。
思った以上にというのは、会場の空気がさっきデパートの下の階で買い物をしていた人たちの雰囲気とはそぐわなかったからだ。
紗奈は一瞬、悪いことをしている気持ちになったが、好奇心が勝った。それに母との待ち合わせまで、まだ時間がある。
群がる大人たちをすり抜け、前に前に進んでいく。この先では何が起きているんだろう。この人たちは何に夢中になっているんだろう。どんな人が……
ドドン。
バスドラムの音が心臓を突き抜ける。手に汗が滲んできた。
早く、早く前に行かなきゃ。でも、こわい。だけど、見たい。
カンカンカンカン。カウント音。
やっと最前列に出る。
と同時に、マイクから息を吸う音が聞こえた――
そこからは、あっという間だった。気が付いたら会場を出て何知らぬ顔で母と落ち合い、帰宅していた。
力強い歌声と耳に残るずっしりとした低音が映えるメロディー、整った横顔につたう透明なしずく。
紗奈は人が〝生きている〟ところを初めて目の当たりにした気がした。どうしてか痛む胸にそっと手を当ててみると鼓動は早いままだった。
それからというもの、彼らを知る手段がなく悶々とした日々は続いたが、三日も過ぎればその気持ちも落ち着いた。
ただ、演奏をしていた人たちのことが知りたくなった。あの日、マイクを持っていた人が歌う曲と曲との合間に、「高校生です」と言うのを聞いて、急に自分が恥ずかしくなって、早く大人になりたいと思った。
そんなみじめでやり切れない感情が心を支配したことは確かなのに、なぜか自分に希望が芽生えた瞬間でもあった。
何かに対してこんなに知りたいと思ったことはない。
紗奈は生まれて初めて、母の目を盗んで携帯を手にしていた。イベント名と時間を検索すると情報がすぐに出てきて、思ったより簡単に見つけられたことに拍子抜けしてしまう。
音楽のジャンルにロックというものがあって、彼らのバンド名はNEXU。さらにバンドには通常、ボーカルがいて、ギター、ベース、ドラムの楽器パートによって成り立つことを知った。学校の音楽の授業では習わない。
じゃあ、あの真ん中にいた男の人は、歌を歌いながらギターを弾いていたから、すごい人なのだろうか。
もっと知りたかったけど、母の足音がして携帯を元の位置に戻し逃げるように去る。
ものの数分後、すぐに母に呼び出されて叱られた。母は携帯を無断で使ったことよりも、紗奈が検索していた内容に怒っているようだった。
音楽がやりたいならピアノをまた習わせてあげるからギターはやめておきなさいと言っていたけど、どっちも演奏したいとは思わなかったので、携帯を勝手に使ってしまったことだけ丁寧に謝って部屋に戻った。
それからは急にやる気が湧いた受験勉強に忙しくなり、彼らのことを考える時間は減っていった。
◇ ◇ ◇
「紗奈遅ーい」
先生に気づかれないよう後ろのドアから理科室に入るなり、教室の端から由衣に声をかけられる。周りの女の子たちもすでに全員固まって着席していた。
視線が一斉に紗奈に降り注ぐ。
席に向かう途中、先生とも目が合ったが、露骨に反らされた目線が紗奈の遅刻を見なかったことにすると言っていた。
女子校の先生は自ら空気になることを望んでいるようだ。もしくは長い年月をかけ空気にされたのか。
「先に来ちゃってごめんね。紗奈いなかったんだもん」
「平気へいき。お腹壊しちゃってさー最悪」
そう言って大げさにお腹を擦り、椅子に座る。
「やだー」
やっぱり、さっき教室で心配していたことは紗奈の思い過ごしで、大したことはなかったみたいだ。自然な流れで、さっきまで彼女らが話してたであろう話題に戻った。
「昨日のIステのリクト見た?」
今、由衣を中心とした女の子たちは、最近音楽番組で見ない日はないほど大人気のアイドルグループに熱中していて、休み時間のみならず放課後、授業中でも隙を見つけてはその話で持ち切りだった。
「リクトくん、ステージからはける最後までお辞儀してたよね」
「紗奈も見てくれた? 嬉しい、そうなの、それを抜いたカメラマンもさすがだよね。リクトの指名でそれ以来ずっと専属って聞いたことあるし、さすがプロ意識が高いっていうか、本当ファン思い」
「そうだね」
ふと、カメラマンがアイドル専属ってことはあり得るのだろうか?という疑問が頭に浮かんだが、紗奈には業界のことがよく分からないので黙っていた。
そして、話題のIステの放送は、SNSで流れてきたダイジェスト動画を登校中の電車で見たぐらいだった。もしかしたら今日学校で話題になるかも、くらいの意識で流し見していたので、正直あまり覚えていない。
「でも声が疲れてた。呉松さんのスケジュール管理どうなってるのかなあ」
「呉松さん?」
「マネジャーさん」
「由衣、知り合いなの?」
「違うけど。ファンの間では有名じゃん」
だめだ、今の、間違った?
耳が熱くなり、反対に喉元が冷たくなっていくのを感じる。この流れを軌道修正しないといけないはずなのに、由衣の目を直視できない。
目を反らすな、バレる、バレたらこの先……どうにか……
「ハピネス踊ってるときの表情も良かったよね」
沈黙。
「紗奈って……」
いつからか紗奈たちの会話に聞き耳を立てていた周りの女の子たちの顔面に焦りと興味の色が塗られていく。
「……意外とリクトのこと見てくれてるんだね」
紗奈はさっきまで真っ暗だった視界が開けて、教室全体まで明るくなっていくのを感じた。よかった、大丈夫だった。間違ってなかった。
「じゃあさ、二曲目は何歌ったか知ってる?」
ああ、震える左手を掴む右手が役立たずだ。
真っ白な心の半紙に倒れた墨汁がじんわりと広がっていく。必死になって拭いても、洗っても、純白には戻らない。やがて灰色に丸まったくたくたのかたまりが心の隅に転がってこびりつくのを感じた。
どうして中途半端にでも人と合わせてしまうのだろうか。
なぜ、「分からない」の一言が言えないのか。
紗奈が発した言葉一つひとつに嘘はなかったが、今日まで大切に積み上げてきた何かが一瞬で壊れる音がした。
三十分前まで、NEXUに会えると分かってあんなに幸せだったのに……急激に八月が遠く思えて、悲しさよりも悔しさが鼻の奥を通りツンと痛んだ。
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