さよならの行方 5

 イヴェール侯爵領をひたすら西へ進み続けると、ようやく国境が見えてきた。

 もうすぐ日が暮れるので、今日は国境の手前の町で一泊し、明日、国境を超える手続きをすることにする。

 うまくいけば一日で通過できるし、待たされても三日もあれば大丈夫だろう。

 手前の町の宿の受付で記入を求められて、サーラは、一昨日ようやく決めた偽名を宿帳に記入した。


「エドウィージュ? へえ! あんた、またすごい名前だね!」

「え、あ、はい」


 やはり、違う名前にした方がよかっただろうか。

 しかし、これから先名乗るなら、この名前以外考えられなかった。

 首元にそっと手をやり、曖昧に笑うと、サーラは宿の女将さんに渡された鍵を持って三階に上がる。

 部屋に入ると、窓際の一輪挿しにいけてある小さな白い花が真っ先に目に入って来た。


「……スズラン」


 白い、ベルのような小さく可憐な花が連なる、可愛らしい花。

 荷物を置いて、そっとスズランに鼻を近づけると、ほんのりと優しい香りがした。

 懐かしい香りだ。

 はじめてウォレスにもらった、香水の香り。

 彼と踊ったときの、香り。


(……もう一か月以上たったのに)


 どうして、いつまでたっても頭の中から離れて行ってくれないのだろう。

 いや――きっと一生、頭の中から彼がいなくなることはないのかもしれない。

 そうでなければ、これから先名乗る名前に、エドウィージュなんて名前を選ばない。

 離れれば離れるほど、自分がどれだけウォレスに執着しているのか思い知らされる。


 その場に頽れるように膝をついて、サーラはぎゅっと奥歯を噛みしめた。

 鼻の奥がツンと痛い。

 ぼやけはじめた視界に、泣いてはダメなのだと何度も自分に言い聞かせた。


 さよならすると決めたのだ。

 サーラは、ウォレスのためにならない存在だから。

 ウォレスが王になるためには、サーラは邪魔でしかない。

 だから――


「は、ぁ……」


 息を吐いて、何とか涙を押しとどめようとする。

 けれども無理で。

 鼻の奥が痛くて、耳の奥がキーンとして、ぼろぼろと涙がこぼれて、どうすれば自分の感情が言うことを聞くのかわからなくなったときだった。


 バタバタバタ、と大きな足音がする。

 その足音がこちらに近づいてくるような気がして、怪訝に思いながら小さく振り返ったサーラの目の前で、バタンと扉が開いた。


 ひゅっと、息を呑んで。

 サーラはそのまま、呼吸の仕方を忘れる。


 バタンと、開けたときと同じく激しめに扉を閉じて、ずんずんと大股でこちらに歩いてくるのは――来る人は、幻だろうか。


「泣くくらいなら、勝手に消えるな‼」


 動けないでいるサーラの目の前に膝をついて、ちょっと乱暴に引き寄せられる。

 これは夢か、それとも現実なのか。

 その境界線もわからなくなって、ただ茫然とするしかできないサーラの唇を強引に奪って――


「私は言ったはずだ。逃がさない、と」


 怒ったような顔で笑う大好きな人が、そこにいた。





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