シャル 1
ウォレスについてわかったこと。
――一度何かを許すと、それが当たり前になるということ。
「……本当にもう」
サーラをぎゅうっと腕の中に抱きしめて、すやすやと安心しきった顔で眠っている恋人は、まだもうしばらく起きないだろう。
一度同じベッドで眠ってからというもの、ウォレスは頻繁にそれを求めるようになった。
もちろん、ただ一緒に眠るだけである。
けれどもサーラにとっては心臓が壊れそうなほど大変なことなので、最初は断った。
あのときだけ、特別だと。
万が一侍女が王子のベッドで眠っているのを誰かに見られたら大変だろう、と。
すると今度は「ならばサーラのベッドならいいだろう」と屁理屈をこねて、結局断り切れず二度目を許してしまった結果、それが日常になったのだから頭が痛い。
(さてと、今日はまたしがみついてくれてるわね……)
侍女と王子は起きる時間が違う。
ジャンヌが登城する前に、サーラはウォレスの着替えの準備や、顔を洗うためのソープやお湯、タオルの準備。朝食メニューについてメイドに確認して、届けてもらう時間の指示出しなど、することはたくさんある。
冬は暖炉に火をつけるのも侍女の仕事だ。
侍女によってはメイドを呼びつけてメイドにさせる人もいるようだが、サーラは自宅でも自分で暖炉をつけていたので手慣れているから問題ない。
そうそう、寝起きの紅茶かハーブティーを入れるのも大事な仕事である。
どれも主人が起きる前に終わらせてこそ一流の侍女だとベレニスが言っていたので、ウォレスに抱き着かれたまま惰眠を貪るわけにはいかない。
(ジャンヌさんにこれが気づかれたら大変だし……)
侍女のベッドにもぐりこむなど何事かと、間違いなく雷が落ちるだろう。
ベレニスなら黙認してくれそうだが、主人にも厳しいジャンヌではそうはいかない。
「って、どうしようかしら……」
腕を外そうとしても離れない。
寝ているくせに、なんて力だろう。
(あの作戦で行くしかないわね)
サーラはそーっとウォレスの脇腹に手を伸ばした。
ウォレスはわき腹が弱いと知ったのは、二週間ほど前のことだ。
引き締まった腹筋にドキドキしつつ、こちょこちょとくすぐってみる。
「……ふっ」
ウォレスの口元が緩んだ。
こちょこちょとくすぐり続けると、腕の力が緩んで、やめてほしそうに身をよじる。
腕が緩んだ隙にベッドから抜け出したサーラは、「むぅ」と不満そうな寝言を言ったウォレスの腕の中に枕をつっこんだ。
枕をぎゅうっと抱きしめて安心したように笑ったのを確認して、ホッと息を吐き出す。
ウォレスは朝が苦手なのでもうしばらく起きないはずだ。
起きたときにウォレスが寒くないよう、サーラはまず侍女の控室の暖炉に火をつけた。
今日から三月だというのに、まだまだ寒い。
雪はあまり降らなくなったけれど、春の気配はあと二週間は感じられないだろうか。
着替えを抱えてバスルームに向かい、手早く顔を洗って着替えをすませると、今度はウォレスの部屋の暖炉に火をつけた。
暖炉の上に、水を入れた鍋もかけておく。これでウォレスが起きるころにはお茶を入れるための湯が沸いているだろう。
メイドを呼んで朝食メニューを確認し、ウォレスの起きる時間にあわせて顔を洗うための湯を頼んでおく。
バスルームに顔を洗うためのソープとタオルを置き、カーテンを開けた。
結露して白くなっている窓越しに、まだ薄暗い庭が見える。
そっと手のひらで窓をこすり、庭を見下ろした。
まだ少し雪が残っている部分はあるが、ほとんど解けている。
(今日も晴れるかしら?)
フィリベール・シャミナードは、あの雪の日の邂逅以来、一度も見かけていなかった。
彼が何を目的に動いているのかも、いまだ不明なままだ。
庭から出入りしているというのはわかったが、ずっと裏庭に張り込んで見張るわけにもいかない。
リジーからは定期的に手紙での報告が来ていた。
神の子が出没したという情報が得られれば教えてほしいと頼んでおいたからだ。
神の子は下町の貴族街に近い当たり――すなわち北の当たりに多く出没しているという。
現れては「奇跡」を披露したり、誰かの相談事に乗ったりしているらしい。
赤と白のカメリアの刺繍が入ったスカーフを身に着けている人間は、下町の北の当たりを中心に広がりを見せ入るとも聞いている。
ウォレスもそれを知っているが、「宗教」として広まっているのではないので取り締まるのも難しい。「セレニテ」という個人の男のファンクラブだと言われればそれまでだ。
神の子を語る時点でグレーゾーンではあるが、セレニテの正体がフィリベール・シャミナードだとわかった今、下手に手出しはできないのが現状らしい。
アルフレッドは、セザールの義兄にあたるフィリベール・シャミナードを捕縛できれば第一王子派閥の勢いを一気にそげるとは言っているが、今のところメリットよりもリスクの方が大きいので動くに動けないと言っていた。
(フィリベールが贋金の製造に関与しているって証拠があればいいんでしょうけど)
サーラが考え付くようなことは、もちろんアルフレッドも考えたはずだ。それでいて動けないのならば、証拠らしい証拠がないからだろう。
はあ、吐息を吐き出したとき、背後でじゅっという音がした。
ハッとして振り返れば、暖炉の上にかけた鍋の湯が沸いて吹きこぼれている。
「いけない!」
時計を見れば、とっくにウォレスを起こす時間になっていた。
急がないとジャンヌが登城してしまう。
サーラは慌てて侍女の控室に向かって、枕を抱きしめたまま惰眠を貪っているウォレスの肩をゆすった。
「殿下、起きてください! 朝ですよ!」
「ん~」
「ん~、じゃありません! 早くしないとジャンヌさんが来てしまいますよ」
「あと少し……」
「ジャンヌさんに知られたらもう二度とここで眠れなくなりますよ!」
言って、サーラは「うん?」と首をひねった。
(待って、その方がいい気がしてきたんだけど……)
ジャンヌに怒られればウォレスも諦めるだろう。
心臓が壊れそうな夜を過ごさなくてよくなると考えると、その方がサーラ的にはいいような気がしてきた。
(ウォレス様と眠るのが当たり前になると、別れた後がつらいし……)
サーラがそんなことを考えている間にも「もう二度とここで眠れない」の一言にウォレスが渋々目をあけて、猫のように大きく伸びをした。
「おはようサーラ」
「おはようございます。それからサーラではなくマリアで――」
言いかけている途中でグイっと腰が引かれて、ちゅっと軽くキスされる。
不意打ちに真っ赤になったサーラに笑いながら、ウォレスがベッドから降りた。
あくびをしながら自分の部屋に向かうウォレスの背中を、サーラは赤くなった頬を押さえつつ睨む。
サーラがウォレスを追いかけると、コンコンと扉を叩く音がした。メイドが湯を運んできてくれたようだ。
メイドに礼を言って湯を受け取り、サーラはウォレスをバスルームに追い立てる。
「ほら、早く顔を洗って、しゃきっとしてください!」
ウォレスが楽しそうに「はいはい」と返事をした。
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