変化 8

 ウォレスに手を引かれて四阿の中に入る。

 いったい誰がこれを用意したのだろうかと、ちょっと疑問に思ったけれど、それを聞くのはあまりにも無粋だろう。


 蝋燭には香りづけがしてあるようで、ほのかな甘い香りが四阿の中に漂っていた。

 手をつないだまま、隣り合わせに座る。

 さっきから、胸の当たりが騒がしい。つないだ手から鼓動が伝わらないだろうかと、サーラは少々不安に思った。

 四阿に入ったものの、ウォレスはさっきから何も言わない。

 黙って蝋燭を見つめる横顔が、少し赤いような気がするのは気のせいだろうか。


「……君は」


 やがて、ウォレスが大きく息を吸って口を開いた。


「君は、あの時のキスを、なかったことにしなければならないのは私の方だと言った。……だが私は、なかったことにはしたくない」


 サーラは顔を上げて、それからうつむいた。

 なんとなく、今日、あの夜の続きの話がされるのはわかっていた。


 トクトクと打つ鼓動が速い。

 サーラは平民で、ウォレスは次期国王になる可能性のある王子。

 そこにある隔たりは明確で、その隔たりを壊してはならないことは、ウォレスにだってわかっているだろう。

 わかっているはずなのに――どうしてこの王子様は、その壁を壊そうとするのだろう。

 サーラがなかったことにしたあの夏の夜を、なかったことにしたくないと言って蒸し返す。


 サーラにだって、自分の胸の高鳴りの理由くらいわかっている。

 けれどもそれは、わからないふりをしなければならない感情だ。

 それなのに――


「サーラ」


 ウォレスが、熱のこもったかすれた声でサーラの名を呼ぶ。

 そして一度口を閉ざすと、言いなおした。


「サラフィーネ」


 サーラの、もう誰も呼ばない、本当の名前。

 その名を呼んだところで、サーラは公爵令嬢には戻れない。

 なのに何故、その名を呼ぶのだろう。


(というか、覚えていたのね。名前)


 たった一度だけ告げた、本当の名前。

 とっくに忘れたと思っていたのに、この王子様は記憶に残していたらしい。


 ウォレスがつないでいない方の手を伸ばして、サーラの頬に触れる。

 指先で撫で、顔にかかった髪を払い、また撫でる。

 ちょっとくすぐったくてサーラが目を細めると、唇に吐息がかかった。

 触れる直前でとめて、伺うようにじっと青銀色の瞳が見つめてくる。


 じっと見つめ返した後で、わずかに目を伏せると、それを合図に唇が重なった。


 拒絶もできた。

 ――でも、できなかった。


 優しく触れた唇は、少し離れて、また角度を変えて重ねられる。

 何度か啄むようなキスをされ、こつんと額同士が合わさった。


「君が好きだ」


 それを、今言うかとサーラはちょっと笑った。

 普通、キスをする前に言うものではなかろうか。


 ウォレスの気持ちを受け入れても、いずれ別れなければならない時が来るだろう。

 彼は王子で、サーラは平民。

その身分が変わることはない。

 ここで拒絶するのが、双方にとって一番いいはずだ。

 今ならただの戯れで終われる。

 終わりにすべきだ。


 わかっているのに、震える唇から紡ぎ出されたのは、まったく違う答えだった。


「……ばれたら、ウォレス様の立場が悪くなりますよ」

「わかっている」

「王位争いに不利になるでしょう」

「覚悟の上だ」

「人には言えません」

「構わない」

「……いつまで?」


 サーラが問えば、目を見張ったウォレスが、ひゅっと息を呑む。

 それがわからないウォレスではないだろう。

 サーラがここで頷いても、永遠はない。

 ここでそんな質問をするのは無粋だが、けれども明確にしておかなければならなかった。

 でなければ、サーラにも覚悟ができない。


 ウォレスは綺麗な青銀色の瞳を、目の前のろうそくの炎のように揺らした。

 その顔は、傷ついたようにゆがんでいる。

 間違いなく、サーラが傷つけた。

 ウォレスは何度か深呼吸をして、痛そうに眉を寄せる。


「…………私が……私が、結婚しなくてはならなくなるまで」


 きちんと言葉に出して線引きしてくれたウォレスは誠実だと、サーラは思った。

 サーラもウォレスも、こればっかりはどうすることもできない問題なのだ。

 ウォレスは王子として、そして王位を望むものとして、相応の女性を娶らなければならない。

 それがいつかはわからない。

 この口ぶりではまだ決まってはいないのだろう。

 けれども必ず終わりは来る。


「ごめん。……それでも、君が好きだ」


 痛そうな顔で謝るウォレスを悪いとは、サーラは思わない。

 ずっと一緒だと、嘘をつかれるよりはよほどいい。

 ならばサーラも、ほんのひと時でも、彼とともにいられることを選ぶ。

 そっと鎖骨の当たりに揺れる、ペンダントトップに触れる。


「このネックレスの意味をまだ聞いていません」


 少し話題をずらすと、ウォレスはようやくちょっと笑ってくれた。


「好きな子は、何かでつないでおきたいものだ」

「つまり首輪と同じだと」

「そういうわけじゃないが……そうともいう。できれば、頭のてっぺんから足の先まで、私が贈ったものを身に着けてもらいたい。だから今日はちょっと、気分がいい」


 髪を飾るリボンも、ワンピースも、ストッキングも靴も全部自分が贈ったものだから気分がいいと、ウォレスが言う。


(何その……独占欲)


 ウォレスは独占欲が強いたちだったのだろうか。

 サーラが笑うと、ウォレスが真剣な顔をした。


「サーラ。……答えを、聞いていない」


 サーラは視線を落として少し考え、それから腕を伸ばしてウォレスの頬に触れる。


 答えを言うかわりに、彼の唇に、そっと自分のそれを押し付けた。






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