精霊の棲む森 6

 外から見ていた段階で想像できていたことだが、森の中はすこぶる足場が悪かった。

 落ち葉の堆積した柔らかい地面は湿っていて滑りやすく、木々の根が四方八方に飛び出していて、油断すればつまづいて転んでしまいそうだ。


「サーラ、手を」


 どこかハラハラした様子のシャルが手を差し出してくる。

 ウォレスの侍女見習いとして同行している身で、彼の護衛であるシャルの手を借りていいものかと迷ったが、サーラの歩みが遅れれば逆に迷惑をかけるだろう。ここは素直に手を借りておくことにした。

 村人たちは、足場の悪い入り組んだ道を躊躇いもせずに進んでいく。その様子から、彼らがこの森に何度も足を踏み入れていることがうかがえた。


(精霊の棲む森……、信仰の対象。でも子供たちが遊び場にするくらいだから厳格ではない)


 歩きながら、サーラは一つ一つ情報を整理していく。


(村人たちも普段から森の中に入っていそうなのに、ティル伯爵が視察で訪れたときには沼池が燃えるという『精霊の祟り』が起こった。それなのに、村人たちはウォレス様を当たり前のように沼池に案内しようとしている。……村人たちは精霊の祟りを恐れていないのかしら?)


 彼らは沼池にウォレスを案内し、ティル伯爵のときと同じようなことになるとは思っていないのだろうか。


(それに、村長と村人たちの温度差も気になるわ……)


 村長は明らかにウォレスがこの森に入るのを嫌がっているようだった。

 村人と村長の反応の差は一体何だろう。


「あの、皆さんは精霊の祟りを恐れていないんですか?」


 足元に注意を払ったまま、一番近くにいた村人の一人に訊ねると、彼は困ったような顔で笑った。


「精霊の祟りとおっしゃられましても、あんなことが起こったのは伯爵様が来られたときの一度だけなんですよ。確かに沼から炎が上がったのにはびっくりしましたけどね。でも青い炎は一瞬で消えてしまいましたし、光の加減でそのように見えただけだというものもいます。じーちゃん……村長は祟りだと騒いでいますけど、村の中であれが祟りだという人間は、村長とその息子夫婦くらいなものですよ」

「そうなんですか? つまり、ティル伯爵のときの一度だけで、精霊の祟りだと言われるようなことは一度も起こっていない、と」

「ええ」


 それはまた妙な話だ。

 仮にこの森に本当に精霊が棲んでいたとする。

 精霊がこの森を開発しようとしていることに怒っているのだとしたら、三週間前に突然「精霊の祟り」を起こすのはおかしな話ではなかろうか。

 何故なら、この森の開発の話はずっと前から出ていて、何度も現地調査がされているはずだからである。


(なんで今更。伯爵は強引に開発を進めようとしたんじゃなく、村人たちを説得するために来たはずで、森には危害は加えていないのに……)


 視察として森に入ることもだめだというのだろうか。

 近くの村の子供たちはこの森を遊び場にしていて、村人たちも普通に入っているようなのに、それとティル伯爵とは、何が違うというのだろう。

 よそ者だからだろうか。

 しかしティル伯爵はこの地の領主だ。領主をよそ者扱いするのはどうだろう。


「あ、そろそろつきますよ」


 村人が前方を指さした。

 顔を上げると、先の方に薄暗い森の中でひときわ輝いて見える空間があった。

 沼池の上は木々で光が遮られていないのでそれでだろう。

 森の中が薄暗かったからか、目の前の光の洪水にサーラは目を細める。

 空から降り注ぐ光に加えて、沼池の水面が光を反射するから、薄暗い空間に慣れていた目にはいささか眩しすぎる光だった。


 沼池はなかなか広かった。

 光を反射し、青緑色に輝く楕円形の沼だ。

 水の透明度は高く、湖底に沈んでいる木や岩、それから無数の水草が見て取れる。


「綺麗なところだな」


 シャルが感嘆したようにため息を吐いた。

 その気持ちはわかる。

 目の前の沼池は見入ってしまうほどに美しかった。


(この森が信仰の対象になっているのもわかる気がするわ)


 よそ者のサーラでも、開発のために目の前の沼池を埋め立ててしまうのはあまりにももったいないと思ってしまう。

 横を見れば、ウォレスも言葉を忘れて目の前の光景に見入っていた。


「沼の真ん中まで行ってみますか?」


 村人がそう言って、沼の岸に括り付けられている小さな船を指さした。


「いいのか? 神聖な沼なのだろう?」

「かまいませんよ。実際に俺らも、たまに釣りをするんです。でかい魚はいませんがね」

(釣りって……)


 本当に、この森や沼池に対して過敏に反応を示していたのは村長だけで、村人たちはそれほどではないのだろう。

 船はそれほど大きくないので、ウォレスとサーラ、それから護衛としてマルセルが乗ることになった。シャルは岸辺で待機だ。

 村人が船を操るために一人同乗する。

 船を動かすのはオールではなく、とても長い竹竿だった。水深が浅いので、竹竿を沼底に突き刺すようにして漕ぐのだという。


「意外と揺れるな。サーラ、危ないから手を」

(侍女に手を貸す主なんていないでしょうに)


 サーラはあきれたが、「侍女見習い」であるサーラは、主の指示に従う必要がある。

 仕方なくサーラはウォレスが差し出す手を取って、少し彼に近寄った。

 船べりから下を覗き込めば、湖底から生えている水草の長い葉が揺らめいているのが見える。

 沼池の真ん中のあたりの、一番水深が深そうなところに到着すると、村人が船をいったん停めた。


「確かこのあたりからだったと思うんですよね。青い炎があがったのは」

「なるほど、ここか」


 ウォレスが興味津々な顔をして沼池を覗き込む。


「サーラ、小瓶を用意していたろう? ……ああ、すまない、沼の水を少し採取してもいいだろうか?」


 一言断っておいた方がいいと判断したウォレスが村人に訊ねると、彼はあっさり「いいですよ」と答えた。


「水を取るのは構いません。でも、飲むのはお控えください。飲んで飲めなくはないと思うんですが、王子殿下に何かがあれば、その……」


 村人が言葉を濁したが、そこから先は言わなくてもわかる。

 第二王子オクタヴィアンが沼の水を飲んで体調を崩せば、それはすなわち村人の責任にされるだろう。

 ウォレスは横暴なことはしないと思うけれど、貴族街の、第二王子の取り巻きがそうとは限らない。

 ウォレスの体調不良の原因を突き止めて、村人を罰しようとする可能性は否めないのだ。


「その辺は心配しなくていい。口に入れるものは厳選するようにと言われているからな」

(え? 本当に?)


 そういう割にはパン屋ポルポルのパンだったり出されたお茶だったりを平然と口にしていたように思うのだが、ここでそれは突っ込まない方がいいだろう。

 サーラは手荷物の中から小瓶を取り出すと、サーラが水をくむ前にウォレスがそれを取り上げる。


「サーラはダメだ。危ないからな」


 だから、王子が侍女見習いにそこまで過保護だと違和感を持たれるだろうに。

 ちらりとマルセルを見ると「やれやれ」と言った様子で肩をすくめていた。


「殿下、俺がします」


 マルセルがウォレスから瓶を受け取り、沼の水をすくいとって蓋をした。


「ありがとうございます」


 サーラは瓶を受け取り、手荷物の中に入れる。ちなみに空き瓶はまだまだ持ってきているが、場所を変えて水を取ってみたほうがいいだろうか。

 そう思ったとき、ポコッと小さな音が聞こえてきた。

 何の音だろうと思って沼を覗き込めば、沼の底から上がって来た気泡が水面ではじける音だったようだ。


「あの、この泡はいつも上がっているんですか?」

「泡ですか? ああ、これですか。ええ、たぶん。あまり注意して見たことはありませんけど、下の方で水でも湧いているんじゃないですかね」

(湧き水?)


 よくわからないが、湧き水と一緒に空気が上がってくるものなのだろうか。


「あの、マルセルさん。沼底から上がってくるあの気泡を、うまく瓶の中に詰めることは可能ですか?」

「あれですか? ……やってみましょう」


 気になったので採取しておきたいと小瓶を差し出すと、マルセルは小瓶の中の空気を抜くために一度水で満たしてから、慎重に湧き上がってくる気泡を瓶の中に入れてくれる。

 さすがに瓶がいっぱいになるほどの気泡は取れなかったが、半分ほど水が入ったままの瓶に、水の中で慎重に蓋をして、マルセルはサーラに返してくれた。


「こんなものでいいですか?」

「はい、大丈夫です」

「うまく取れたかわからないので、念のためもう二本ほど取っておきましょう。空き瓶を貸してください」

「ありがとうございます、お願いします」


 マルセルは本当に優しい紳士である。

 パッと笑ってサーラが瓶を差し出せば、それを見ていたウォレスが何故か口を尖らせた。


「そのくらい、私にもできるぞ」

「ですから、殿下はダメです。落ちたらどうするんですか」


 マルセルに注意されて、ウォレスはますます不機嫌そうになった。


(何をマルセルさんに張りあっているのかしら?)


 サーラは苦笑しつつ、マルセルが瓶に気泡を詰めるのを待つ間、沼池をぐるりと見渡した。


「おかしなところはどこにもありませんね」

「ああ。燃えるようなものは何もないな。さすがに沼池に浮かんだ葉や枝が燃えるようなことはないだろう」

「沼の水も普通の水のようですね。魚が生息できるくらいですから」

「普通の水が燃えることはないのか?」

「わたしが知る限りありませんね。ただ、水に触れて発火する物質はあるみたいです。詳しくは知りませんけど、ティル伯爵が沼池に来た時に、ちょうどそのような物質が沼池に落ちた……というのはさすがに強引すぎる推理ですね」


 水に触れて自然発火するような物質が、自然界に普通に存在しているとは考えにくい。ましてやたまたま沼池の中央に落ちてきたなんてありえないだろう。

 サーラとウォレスが話し込んでいる間に、マルセルが気泡を瓶に詰め終わったようだ。

 追加分の二本の瓶を受け取って、サーラはここから離れた場所の沼池の水も念のために採取しておきたいと告げる。


 村人が竹竿で船を漕ぎ、サーラはマルセルに複数の場所で水を採取してもらうと、シャルの待つ岸に戻った。


 結局、今日の訪問での収穫は、水と、それから村人が言うには湧き水と一緒に上がってくる気泡だけだった。





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