精霊の棲む森 5

 二時間ほど馬車に揺られて、サーラ達は沼池のある森の入り口に到着した。

 森の中は鬱蒼と木々が生い茂っているので、ここからは徒歩で進むことになる。

 人の手が入っていない木々が密集している森だからだろうか、森の入り口が、なんだか異世界に通ずる入り口であるかのような妙な錯覚を覚えた。

 生い茂った木々が邪魔をして日差しが届きにくいのか、森の中は少し薄暗く、じめじめしているように見える。

 御者が馬車から馬を離して、森の入り口付近の木に手綱を括り付けるのを、サーラ達はただぼんやりと待っていた。

 御者は案内役なので、彼がいなければどこに沼池があるのかもわからないのだ。


「馬をこんなところに放置して大丈夫なのか?」


 ウォレスが心配そうな顔をして言う。

 例えば狼や熊など、肉食の動物が森の中に生息していた場合、つながれた馬が危険なのではないかと言っているのだ。

 すると御者は笑顔で振り返った。


「この森には危険な動物はいませんよ」

「そうなんですか?」


 人が入らない森のことを何故知っているのだろうと首をひねると、御者が肩をすくめて少し小声になる。


「私はこの近くの村の出身なんです」

「村のって……もしかしなくても、この森に精霊が棲んでいると言っている村のことか?」

「ええ、まあ。といっても、私は十年前に旦那様に雇われてから、村には戻っていませんがね。……両親も流行病で死にましたし、村に戻っても、もう家族がいないんで。ただ、子供のころは森の中を遊び場にしていたんで、それなりに知っているんですよ」

「森の中を遊び場に、ですか? あの、精霊が棲んでいるんですよね? 勝手に入ってはダメなんじゃないですか?」


 大切にしている森だから、無暗に踏み荒らしてはならないのではないだろうか。

 サーラが首をひねると、御者は首を横に振った。


「まさか、そんなことはありませんよ。禁止されているのは森の中の木々の伐採などで、入って遊ぶ分には怒られたりしません」

「では、あの、精霊の祟りは何なのでしょう? 森に踏み入ったから精霊が怒っているわけではなかったんでしょうか」

「違うと思います。私も、沼池が燃えるなんてはじめてききましたからね。それに、確かに村人はこの森を開発することには反対していましたが、祟りだなんだと脅すようなことを言ったのははじめてなんです。私も精霊の祟りなんてはじめて聞いたんですよ」

(んー……、どういうことかしら?)


 村人たちは精霊が棲んでいるといってこの森を大切にしている。

 だからこの森の開発に反対していたのは間違いないらしい。

 けれども、精霊の祟りという言葉を、三週間前の沼池が燃えた一件より以前は使ったことがない。


(三週間前に、それまで来なかった伯爵が来たから、脅すために祟りという単語を使った? そう考えると、沼池が燃えたのは、村人が何かしたからとも考えられるわよね)


 伯爵に恐怖を植え付けることで、森の開発を諦めさせる魂胆だったのだろうか。

 わからないが、どうしてだろう、何かが引っかかる。

 サーラが視線を落として考え込んだ時だった。

 さっとシャルがサーラをかばう位置に回ってきて、サーラは驚いて顔を上げた。

 マルセルもウォレスをかばう位置に立っている。

 どうしたのだろうと二人の視線を追うと、こちらに向かって歩いてくる十数人の男の集団が見えた。


「ああ、来たみたいですね」


 御者が苦笑する。


「近くの村の村人たちですよ。私たちに気づいてやって来たみたいです」


 男たちの集団の一番前には、白髪の、腰が少し曲がった七十歳前後の老人がいた。

 物語に出てくる魔法使いが持っているような、自分の身長ほどもある木の杖をついている。


「ここに何の用じゃ」


 サーラ達の近くまでやってくると、代表して老人が口を開いた。


「じーちゃん、この方は第二王子殿下だよ! 失礼な口を聞いちゃいけない」

(じーちゃん?)


 御者が慌てて老人に駆け寄ると、老人は手に持っていた杖で御者の頭をポカリと殴った。


「いってえ!」

「何がいってえ、じゃ! この裏切者が!」

「裏切者っていうけど、伯爵様はオレを拾ってくれた恩人だぞ!」


 聞けば、両親を流行病で失い途方に暮れていた当時十八歳だった御者は、たまたま伯爵家の馬車が立ち往生しているのを助けた縁で御者として拾われたらしい。


(それより、じーちゃんっていうのが気になるんだけど。家族はいないって言ってたわよね?)


 サーラと同じ疑問は、ウォレスも抱いたらしい。


「その老人は君の祖父か?」


 ウォレスが訊ねると、御者はハッとしたように首を横に振った。


「いえ、違います。ええっと、この人は村の村長で、私たち村人は全員『じーちゃん』と呼んでいるんです」

「何が村人じゃ! 出て行ったものが偉そうに!」


 ポカリ、と再び村長が杖で御者を殴り、御者が頭を押さえて「いたいいたい」と騒いで村長から距離を取る。


「それで、王子殿下がいったい何の用なんじゃ!」

「だからじーちゃん、王子殿下に失礼だから‼ 首が飛んでも知らないよ‼」


 御者が焦った声で注意すると、村長の背後にいた男たちも「首が飛ぶ」の一言に顔色を変えた。


「じーちゃん、あの方は偉い方だ」

「伯爵様より偉い方だから、せめて敬語を使った方がいい」

「絶対にその杖で殴ったらダメだからな」


 口々に注意する男たちに、村長が鬱陶しそうな顔をする。


「ええい! うるさい!」


 村長が杖を振り回しながら叫んだ。

 サーラがちらりとウォレスを伺えば、苦笑いをかみ殺したような変な顔をしていた。

 笑っていいのか怒っていいのかわからないのかもしれない。


(ま、ウォレス様はわたしみたいな平民と平然と話す人だからね、この程度では怒んないでしょうけど……もしここが貴族街だったら、間違いなく村長は捕縛されてるでしょうね。不敬罪で)


 村長にとっても、今日ここに来たのがウォレスでよかっただろう。

 もし、第一王子セザールが新婚旅行中ではなく、今日ここに来ていたら、第一王子の従者が直ちに村長を取り押さえていたはずだ。

 村長はむぅっと白い眉を寄せた。


「それで王子殿下が何の用なんじゃ、ですじゃ」


 無理に敬語にしようとしたせいか、変な話し方になっている。

 これにはこらえきれなかったようで、ウォレスがぶはっと噴き出した。

 マルセルですら口元を片手で覆って肩を揺らしている。

 シャルは笑っている王子とその筆頭護衛騎士を見て、何とも言えない顔をしていた。おそらくウォレスが怒ると思っていたのだろう。

 まさか笑い出すなんて、村人たちも思うまい。現に逆に困った顔でおろおろしはじめてしまった。


「ああ、すまない。笑うつもりは……ぶはっ! 頼むから杖を振り回すのをやめてくれないか」


 村長が杖を元気いっぱいにブンブン振り回すのがツボにはまったらしい。

 笑われた村長は仏頂面になって、ドンッと杖を地面についた。

 必死に笑いの衝動と戦っているウォレスでは話にならないだろうと判断し、仕方なくサーラは口を挟むことにした。


「村長さん、わたしたちは森の中にある沼池を見に来たんです」


 村長がじろりとサーラを睨んだ。明らかに警戒されている。


「見てどうする」

「沼池から炎が上がったと聞きましたので、それを調べようかと」

「調べる必要なんかない! あれは精霊様の祟りなんじゃ!」


 村長がまた杖をブンブン回しはじめた。村長の怒ったときの癖なのだろうか。

 マルセルの肩に寄り掛かるようにして笑っているウォレスはこの際無視しよう。

 村長が杖を回しただけなのに、それでいつまでも笑い続けられるウォレスの笑いのツボがいまいちわからない。王子という生き物は、老人が杖を回すのがそんなに面白いのだろうか。


「この森の精霊は、ただ沼池を見に来た人間を祟るんですか?」

「……どういう意味じゃ?」

「いえ、ちょっとおかしいなと思っただけです。だってティル伯爵は森の視察ついでに沼池を見に行っただけで、沼池に何か悪さをしたわけでもないでしょう? この森の精霊様は、ただ沼池を見ることすら許してくださらない狭量な方なんですかね」

「精霊様を悪く言うな‼」


 村長が顔を真っ赤に染めて杖を振り上げた。

 シャルが慌ててサーラを背中にかばう。

 しかし村長が振り上げた杖は振り下ろされることはなかった。

 いつの間にか笑いの発作に打ち勝っていたウォレスが、村長が杖を振り下ろす前に掴んだからだ。


「もしこれで彼女を殴るなら、私は村長、あなたを罪人として捕縛するよ」


 これまで穏便な様子を見せていた第二王子に「捕縛」と言われ、村長の周りの村人たちが青ざめた。


「じーちゃん、もういいから村に帰ってろよ!」

「そうだぞじーちゃん! あとは俺たちがついて行くからさ!」

「なんじゃと⁉」

「おい、いいから担いで連れて帰れ!」

「おいこら、離さんか‼」


 村長が杖を振り回して抵抗したが、村人の一人にその杖をあっさり奪われて、村長は男二人に担がれて強制的にこの場から退場させられた。


「ばかもんが――‼」


 元気いっぱいの村長の叫び声がだんだんと遠くなっていく。

 残った村人たちは、ぺこぺことウォレスに向かった頭を下げた。


「どうも申し訳ありません殿下、うちの村長は、その、年を取って少々頑固になってて」

「ついでにちょっとボケもではじめてて」

「たぶん自分が何を言っているかもわかっていないんですよ」

「本当に、ちょっとこう、頭の方が」

「ですので、決して殿下に不敬を働こうとしたわけではなくてですね、なんというか、とにかくぼけた年寄りなんです!」

(いや、そこまで言われたら村長も可哀想よ……)


 なんとか村長が罰せられるのを避けようという気持ちは伝わってくるが、内容はなかなかにひどい。

 というか、それほど問題だと思うなら、はじめから連れて来なければいいものを。

 ウォレスも面倒臭くなったようで、「ああ、うん、わかった」と投げやりな返事をしている。


「それで、この森の沼池のことだ……」

「どうぞどうぞ、案内します!」

(えー……)


 村長があれだけ抵抗を見せたというのに、村人はあっさり自ら案内するといって歩き出した。

 村長と村人たちの間に温度差があるように思えるのはサーラだけだろうか。


(いったいこの森はなんなのかしら……?)


 切り開かず、手つかずの状態で残されているので、村人たちにとっては神聖な場所であることは間違いないと思うが、村長のあの様子を思い出す限り、他に何か秘密がありそうな気がするとサーラは思った。




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