二つの贋金 1

「あれからウォレス様来ないねえ」


 パン屋ポルポルのカウンターに両肘をついて、はーっと物憂げなため息をつくのは二分前に来店したリジーである。

 あれから、というのは、手紙を送る相手とも接触せずに他人に手紙の内容を見られることなく手紙やり取りする方法が知りたい、とか言う意味不明な質問をしてきた日のことだ。

 あの日から三日が経ったが、その間、まだ一度もウォレスはやって来ていない。


(来ない方がわたし的にはありがたいんだけど……)


 もっとも、ウォレスの、そうそうお目にかかれないほどの美貌のとりこになっている友人は違う。

 リジーはおそらく、ウォレスが貴族であろうことには気がついていないと思う。

 どこかのお金持ちのお坊ちゃんくらいの認識でいるのだろうから、ウォレスは雲の上の存在ではなく、キャーキャーとミーハー心を起こすことができる身近な相手なのだ。


(真実を知ったときにひっくり返らなきゃいいけど。……まあ、わたしも、真実は知らないんだけどね)


 ウォレスがどこの誰なのか。

 彼が貴族――それも、高位の貴族であろうとは思っているが、あくまでサーラの推測で、彼本人から聞いたわけではないのだ。

 そしてこの秘密は、知らないままでいるのが一番いいと思っている。

 貴族の厄介ごとに巻き込まれるのは嫌だからだ。

 ウォレスが来ないとぼやいていたリジーは、もう一度ため息を吐くと、気を取り直したように寄り掛かっていたカウンターから体を起こした。


「そうそう、知ってる~?」


 またいつもの、どこかから仕入れてきた噂話である。

 焼きあがったばかりのブリオッシュのトレイを持ってカウンターを出たサーラは、陳列棚に並べながら今度はどんな噂話を仕入れてきたのやらと苦笑する。


「近所の猫でも逃げた?」

「違うわよ! もっとビッグニュース! なんと、第一王子殿下が近くご結婚なさるらしいよ――って、サーラ、大丈夫?」


 ガチャン! とトングを取り落としたサーラに、リジーが慌てて駆け寄って、落ちたトングを拾ってくれた。


「あ、ごめん。手が滑ったみたい」

「サーラにしては珍しいドジだねえ」

「ごめんね。でも、落としたのがパンでなくてよかったわ」


 リジーからトングを受け取って、サーラは洗い場に置いて戻る。


「第一王子殿下って、どこの第一王子殿下?」

「そんなのうちの王子様に決まってるじゃない。ヴォワトール国の第一王子殿下、セザール様よ!」

「……へえ」

「へえって、興味ないの? 二人しかいない王子様のうちの一人の枠が埋まったのよ⁉」

「枠って……。国王陛下は一夫多妻が認められているんだから、ご正妃の枠が埋まったって唯一ってことはないでしょう? ま、平民のわたしたちには関係ない話だけど」

「セザール様はまだ王位を継ぐかわかってないから、唯一かもしれないでしょ?」

「そうなの?」

「そうなのよ。第一王子セザール様と、第二王子オクタヴィアン様は一歳違いで、しかも、セザール様は第三妃がお産みになった王子だけど、オクタヴィアン様のお母様は正妃様なの。本来であれば、五歳のお披露目のタイミングで陛下の長子でいらっしゃるセザール様が王太子になってもおかしくなかったんだけど、オクタヴィアン様のお母様がご正妃様ってこともあって、王太子が空位のまま保留中なのよ」

「いったいどこで仕入れてくるのよ、そんな情報」

「うちのお客さんからよ!」


 リジーの両親が営む菓子屋パレットには、貴族やその使用人も客としてやってくる。そのあたりから貴族街の情報を仕入れているようだ。


(貴族のことを知ったっていいことないのに、物好きねえ)


 分厚い壁の向こうにある貴族街の生活に憧れているリジーは、噂を仕入れては楽しく妄想しているのだろう。けれども貴族社会はきらびやかなだけのものではないのだ。好奇心が身を亡ぼすこともあるので、情報を仕入れるにしてもほどほどにしておいた方がいい。


「でもね、今回の結婚で、セザール様が王位継承争いで一歩リードするかもしれないのよ!」

「結婚相手がよほどの相手なんだ?」

「そうそう! なんと、西の隣国ディエリア国の国王陛下の姪の公爵令嬢様なんですって!」


 ひゅっ、とサーラは息を呑んだ。

 リジーがにまにまと笑う。


「ね? すごいでしょ⁉ 対して弟のオクタヴィアン様はまだ誰とも結婚なさっていないし、婚約もしていないから……、もちろん対抗できるだけのお相手が嫁いで来られるかもしれないけど、これはなかなか面白いレースになって来たと思わない?」

「レースって……」

「ご結婚なさったらパレードがあるでしょう? 下町の大通りもパレードの範囲に含まれるってお父さんが言ってたのよ! 今の陛下のときはそうだったんですって」

「そう、なんだ……」

「王子様のお顔を拝めるチャンスなんてそうそうないじゃない? あたし、今から楽しみで楽しみで、お父さんにお願いして当日のための素敵なドレスを買ってもらうことにしたの。ほら、妃は無理でも愛妾くらいなら、ワンチャンあるかもしれないじゃない? 運よく殿下のお目に留まったりしたら、ねえ?」

「ウォレス様はどうしたのよ」

「それはそれ、これはこれよ」


 どこまで本気なのかはわからないが、リジーにはまったく困ったものである。


(だいたい、結婚パレードで愛妾を見初めてどうするのよ)


 いくら何でも不誠実すぎるだろう。

 とはいえ、リジーと同じことを考えている女の子は、他にもいそうだなとサーラはため息だ。


「サーラは美人なんだから、ちゃんとおめかししてパレードに出るのよ? 胸もパットでかさ増ししておくのを忘れないようにね! パットか本物かなんて、服の上からじゃあ男にはわかりゃしないんだから!」


 まったく余計なお世話である。


「わたしはいいわ」

「えー、どうしてよ! 一緒にパレード見ようよぅ!」

「人が多いところはちょっと。お兄ちゃんも心配するし」


 サーラが言うと、リジーがむーっと口をとがらせる。


「シャルお兄様はちょっと過保護すぎよね~?」


 リジーはサーラの兄シャルのことを「シャルお兄様」と呼んでいる。シャルもなかなかの美形なので、言わずもがな、ミーハー心を起こしているのだ。


「シャルお兄様は、もう少し妹離れすべきだと思うわ」

「それ、本人に言ってあげて」


 サーラは微苦笑を浮かべる。

 もっとも、言ったところでシャルの過保護が落ち着くことはないだろうし、シャルが反対しなくても、サーラはパレードなどを見に行くつもりはさらさらない。


(でも、そっか……、ディエリア国から嫁いでくるのね)


 そっと抑えた胸の奥で、どろりとした感情が渦を巻きそうになって、サーラはぎゅっと眉を寄せた。




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