幽霊になった男 4
「サーラ、特ダネよ特ダネ‼」
そう言いながらパン屋ポルポルに駆け込んできたのは、例によってリジーだった。
「あ、はいこれお土産! 昨日のクッキーの売れ残り」
「ありがとう。今日もバゲット?」
「うん、それから……何か時間のかかりそうなもの」
「発酵待ちのもので最後に焼く予定なのは、ドライイチジクのカンパーニュね」
「じゃあそれも!」
つまり、できるだけ長くおしゃべりを楽しみたいと言うことだろう。
ちょうど暇な十時台で、客はほかにいないので、サーラは店の端の小さな飲食スペースまでリジーを案内した。
ポルポルを訪れる客の大半はパンを持ち帰るが、たまにこの場で食べていきたがる客がいるので作っている飲食スペースで、テーブルは二つしか置いていない。
その一つにリジーを座らせて、リジーが持ってきてくれたクッキーと、それから紅茶を二つ入れて持って行く。貴族が飲むような茶葉ではないのでほとんど香りのしない安物の紅茶だが、クッキーと一緒に飲むのならばジュースよりもこちらがいい。
リジーと向かい合って椅子に座ると、リジーはさっそく持って来た「特ダネ」について説明をはじめた。
「商会長には片思いしていた相手がいたらしいんだけど、知ってる?」
奇しくも昨日シャルから聞いたばかりだったので、「耳の早いことだ」と苦笑しながらサーラは頷いた。
「昨日お兄ちゃんから聞いたけど、商会長の片思いがどうかしたの?」
「ふふふ、わかったのよ。その相手が!」
「へえ」
リジーは本当にどこから噂を仕入れてくるのだろう。あちこちに耳を持っていそうだなと感心しながら、サーラは先を促した。
「誰なの?」
「それがね……」
リジーはきょろきょろと他に誰もいない店内を見渡して、内緒話をするように声を落とす。
「実はぁ、ブルダン男爵夫人だったのよ!」
「ブルダン男爵夫人って、娘のドレスの注文がどうとか言っていた、あのブルダン男爵夫人よね?」
「そうよ!」
「え、でも十五歳の娘がいるんでしょ?」
「うん。男爵夫人は確か三十四歳! 商会長より二つ年上よ!」
本当にリジーはどうでもよさそうなことをよく知っている。
(十五歳の子持ちの、しかも男爵夫人かあ。そりゃあ無理があるわ)
オードランは一代で富を築き上げたやり手だが、平民だ。
男爵夫人で貴族社会ではヒエラルキーの末端あたりにいるとはいえ、貴族は変な矜持を持っている。万が一離婚したとしても、貴族としての誇りを持つ男爵夫人が、平民の男と縁を結ぶとは思えない。
「どうやら自殺じゃなくて事故みたいね」
「え、どうして? みんな自殺だって言ってるけど」
「なんで? だって、夫と子供がいる貴族の夫人よ? いくらお金持ちの商会長でも相手にされないだろうし、商会長もわかっていたはずよ」
むしろどうして自殺だと思われるのだろうと首をひねると、リジーはまだ何か隠していることがあるのか、にまあっと目を細めた。
「でもぉ、もし、男爵夫人がほかの平民の、しかも商会長の身近にいた人と不倫していたって知ったらどう思う?」
「え? 本当なの、それ?」
「そういう噂があるのよ」
「どこで仕入れてきたのよ、そんな噂」
「貴族街に近いところに家を持ってるお得意様からよ! 昨日の夕方、注文のケーキを届けに行ったのよ。そうしたら商会長の話になってね、教えてくれたの!」
どうやらリジーの噂好きな友人はあちらこちらに存在するらしい。今回は貴族街に近いところに住んでいるお金持ちのマダムが情報の出所のようだ。
(社交的なことで……)
噂が大好きすぎるのは玉に瑕だが、この社交性は美点だろう。商売をしている人間にとって社交性は必須のスキルと言えるからである。
「それで、ブルダン男爵夫人の不倫相手って?」
「サーラも気になる? 気になるよねえ! もちろんリジーさんは知っていますよ」
もったいぶるように胸を張って、リジーは続ける。
「相手はね、なんと、商会長の補佐をしていた人なんだって! しかもしかも、商会長補佐は商会長の同じ年の従兄弟なのよ! 父親同士が双子だから補佐の方が身長はちょっと低いけど顔立ちはよく似ているらしくって、商会長は、よく似た顔の、それも自分より身長の低い従兄弟が大好きな男爵夫人と関係を持ったことにショックを受けたんじゃないかって話よ! ああ、恋ってなんて残酷なのかしら!」
何故かうっとりと胸の前で指を組んだリジーにあきれつつ、サーラはクッキーに手を伸ばした。
リジーの話は一見筋が通っているように思うけれど、やっぱり違和感がぬぐえない。
「ねえ、既婚者に横恋慕するような図々しいところのある商会長が、想い人が従兄弟と関係を持ったって知ったくらいで自殺するかしら? 男爵夫人が離婚して従兄弟と結婚したわけじゃあるまいし、ショックだったでしょうけど命を絶つほどではないと思うのよねえ」
「もう、サーラってば夢がないわ!」
「人が死んでるんだから、夢なんてあるはずないでしょうが」
「じゃあ、サーラはどう考えるの?」
「そうねえ……。むしろわたしは、事件が事故と自殺の二択でしか捜査されていないのは何故かしらって思うわ」
「どういう――」
怪訝そうに眉を寄せたリジーがハッと息を呑んで、それから顔を真っ赤に染めた。
茶色の大きな目をこれでもかと見張って、ぽわーっと酩酊したような表情である一点を見つめていることに気がついたサーラは振り返って思わす小さな悲鳴を上げた。
「ひっ!」
いつの間に入ってきたのだろう。
サーラのすぐ近く、息がかかりそうなほどの距離に、上体をかがめた青年の姿がある。
サラサラの黒い髪に、神秘的な青銀色の瞳。すっと切れ長のアーモンド形の瞳に、形のいい鼻筋と口。
びっくりするほど綺麗な男が、サーラに向かって、にっこりと微笑んだ。
「その話、もっと詳しく知りたいな」
顔立ちのいい男は、香りもいいらしい。
さわやかな香水の香りを漂わせた男は、テーブルの上に投げ出されていたサーラの手を取ってきゅっと握り締めた。
「ねえ、頼むよ……」
まっすぐに向けられる艶のある視線と、囁くように甘い声。
(……なんか胡散臭い)
サーラの中で、この男には近づくべきではないという警鐘が鳴り響いたが、サーラが断るよりも早く、男の色気にノックアウトされた友人が、うっとりしながら聞いたことのないような高い声で答えていた。
「はい、もちろんです……!」
サーラは、頭を抱えるしかなかった。
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