幽霊になった男 3
夜――
日が完全に落ちるころに店を閉め、店の二階のダイニングに母グレースの作った夕食を並べていると、兄のシャルが返って来た。
赤茶色の髪に黒い瞳をした、すらりと背の高いシャルを見上げて、サーラはふと、昼前にやって来た男の客のことを思い出した。
あの客も、シャルに負けず劣らず背が高かった。
「どうした?」
無意識のうちに眉を寄せていたのだろう、シャルが手を洗ってダイニングチェアに腰かけながら訊ねてくる。
「ちょっと、昼前に来た変な客のことを思い出して……」
「変な客?」
「ああ、もしかしたらあの客かな」
ダイニングチェアに座って今日の夕刊に目を通していた父アドルフが顔を上げる。
「今あるパンを全部買って行った羽振りのいいお客さんのことだろう?」
「へえ、それは変な客だな。ありがたいにはありがたいけど……」
アドルフの言うことは間違っていないが、サーラがあの客を「変」だと言った理由は別のものだ。
サーラは肩をすくめて、その客についてシャルに説明した。
「店に入って来たと思ったら、オードラン商会の商会長について何か知らないかと言われたのよ。ちょうどリジーから今朝の事件の話を聞いた後だったから、西の川で水死体で見つかったって聞いたって答えたんだけど、そうしたら、商会長が誰かに恨まれているとか、トラブルに巻き込まれていたとか、そういった類のことを知らないかって言いだしたの。商会長と会ったことなんてないから、もちろん知らないですって答えたら、ありがとうって店のパンを全部買っていったのよ」
「そりゃあ本当に変な客だ」
シャルがあきれた顔で頷いた。
「おかげでお父さんは急いでお昼に並べるパンを焼きなおさなくちゃいけなくて、すっごく大変だったのよ」
「今日はいつもの倍は働いた気分だねえ」
肩を叩く仕草をしながらアドルフが笑う。
「ふふ、でもそのおかげで今日はちょっと豪勢ですよ」
グレースがメインの牛肉のワイン煮込みを持ってやってくる。
今日は目が回るほど頑張ったからと、グレースが手間暇かけて作ったアドルフの大好物である。
「おお、これは美味しそうだ」
アドルフは夕刊をたたむと、目を輝かせて深皿を見やった。
じっくり煮込まれた牛肉はホロホロと崩れるほど柔らかく、ワインと一緒に入れて煮込まれた香草の香りが食欲をそそる。
あとは残りのパンを食卓に並べると、今夜の夕食は完成だ。
夕食に舌鼓を打ちながら話すのは、もちろんリジーの聞いた今朝の事件のことである。
「それで、亡くなったのは本当に商会長だったの?」
「本当にってどういう意味だ?」
シャルがパンと一緒にワイン煮込みを口に入れながら首をひねる。
「リジーから、商会長が幽霊になったなんて変な話を聞いたのよ」
「ああ、あれか」
シャルは途端に渋面になった。
「そういう顔をするってことは、本当に亡くなった商会長を見たって人がいるの?」
「いるよ。しかも二十人以上もね。一人や二人なら見間違いですまされるけど、さすがに二十人を超えると見間違いで片づけにくい。だがうちは市民警察だからね、幽霊なんてものは専門外だ。死んだ商会長がこれ以上幽霊となって彷徨わないよう祈祷するだのなんだのと言いだした奴もいるにはいるが、そんなことは遺族がすればいい。俺たちの出番じゃないはずなのに、祈祷するために事故なのか自殺なのかの死因を特定しろと遺族が騒いで面倒で仕方がない」
「祈祷するのに事故か自殺かを定かにする必要があるの?」
「祈祷の仕方が違うんだとさ。自殺したら死後の労役があると言われているだろう? 労役が軽くなるように教会にたくさんのお金を積まなければならないし、事故なら事故で、現世への未練を断ち切るようにしてもらわなくてはならないらしい」
「へえ、そうなのね」
つまりは教会への献金額の問題ということか。自殺の方が高くつく。だからできれば事故であると断定してほしい、というのが遺族の本音だろう。
毎年似たような事故が起こるので、今回も事故と断定してもよさそうなものだが、断定できないだけの理由があるのだろうか。
「事故って断定できないのは、幽霊の噂の問題?」
「いや、それだけじゃない。商会長は真面目な人で、娼館に出入りしたことは一度もないらしい。あのあたりの飲み屋にも行かないし、遺体が発見された前夜、商会長の姿をあのあたりで目撃した人間は一人もいなかったんだ。橋の上で馬車が立ち往生したようだって話は聞いたが、あれは濡れた石橋の上を馬が怖がったのか、立ち止まっただけで、載っていたのが商会長だった証拠はないし、第一馬車から降りて商会長が川に飛び込んだりしたら、馬車の御者が大慌てで人を呼ぶはずだろう。事件とは関係ない」
「ふぅん……。でもそれだけだと、事故はともかく自殺の線を考えるのは弱くない?」
自殺が死因の候補に上がった理由は何だろう。
すると、シャルは少しいいにくそうに答えた。
「……失恋が原因で自殺したんじゃないかって、誰かが言ったんだ。上がった遺体を調べたが、持ち物には財布などの貴重品がまったくなかった。自殺するから置いて行ったのではないかとも考えられる」
「失恋? 商会長って独身だったの?」
「ああ。三十二歳で妻も子もいない。なかなかの美丈夫で、女性には非常にモテるそうだが、何年も前から一途に一人の女性を想い続けていたそうだ」
「失恋したって断定できた理由は?」
「相手が結婚していて子供もいるからだ。商会長が出会った何年も前の時点で結婚していた」
「……あー」
それは想い続けても仕方のない相手だ。相手が離婚なり夫と死別なりすれば可能性はゼロではないかもしれないが、そんな夢が現実になる可能性は極めて低い。
しかし、失恋で自殺と言うのも、サーラにはピンとこなかった。
サーラが商会長に会ったことは一度もなく、その人となりについては何も知らないけれど、一台で紹介を大きく成長させたやり手の商会長が、失恋ごときで命を絶つほど繊細だろうかと思ったのだ。
「ほらほら二人とも、食べる手が止まっているよ」
話に夢中になって手が止まっていたらしい。
アドルフの注意を受けて、サーラはハッとして食事を再開する。せっかくの美味しい食事だ。冷めてはもったいない。
物騒な話を切り辞めて食事に集中していると、ふと顔を上げたシャルがそっと手を伸ばしてサーラの髪に触れた。
「……ここ、色が落ちかけているよ」
サーラはシャルに指摘された耳の後ろの当たりに触れて、困ったように笑った。
「ありがとう。……今夜にでも染め直しておくわ」
シャルが指摘したところの髪は、うっすらと金色がかっていた。
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