男にも向かない職業

よだか

男にも向かない職業

 それは、春先のある日のことだった。

 その日は暖かい朝だった。穏やかな昼だった。そして、静かな夜だった。


 時計はゆっくりと時を刻み、刻まれた時間は記憶と記憶の狭間に埋もれていき、二度と思い返すことのない一日。そんな一日が過ぎ去ろうとしていた。

 あの女がやってくるまでは――


「ここは探偵事務所で、アナタは探偵で間違いないかしら?」

 女はまだ少し肌寒い春の夜の気配を連れて事務所にやってくると、静かにこちらを見てたずねた。


「……違いますよ、ここは動物園で私は檻の中のチンパンジーだ」

 夜も更けた事務所で来客用のソファに深く腰掛け、記憶から消え去るだけの今日のためにウィスキーグラスを傾けていた私は、女を一瞥し、面倒な客だと早々に見切りをつけると、軽くあしらうことにしてそう言った。


 女は夜だというのにレンズの大きなブラウンのサングラスをかけていた。ウェーブのかかった艶やかな髪は、ついさっきヘアカットにいってきたかのように丁寧にセットされている。


 薄手だが暖かそうなベビーピンクのコートを着て、手には真っ赤なハンドバッグを持っていた。コートの下からはグレーのタイトパンツが覗き、足下はコートと同じ色のピンヒールを履いていた。


 まるで高級ブランドが並ぶストリートをさっそうと歩いて来たかのようなその姿は、裏路地のうらぶれた探偵事務所にやってくるための格好には到底見えなかった。


「動物園、ね。それじゃあ依頼はそのチンパンジーさんにお願いすればいいのかしら」

 女は怒る様子もなく、顔を僅かに傾けダークグレーの髪を揺らして言った。


「残念だがチンパンジーはそこまで賢くない」

 私がそう言うと、女は小さなため息をひとつついた。


 それから、なにかを思い出したみたいにおもむろに私が座るソファの前までやってくると、真っ赤なハンドバッグから一万円札の束を取り出して、無造作にローテーブルの上に放り投げた。

 まるで、街角で手渡されたポケットティッシュでも放り投げるみたいに。


「チンパンジーだってエサをもらうには芸をしなければならないわ」


 女はそう言うと、誰の許可もなく私の向かいのソファに腰を下ろした。そして、誰の許可もなくハンドバッグからシガーケースを取りだし煙草を一本引き抜くと、誰の許可もなく火を点けた。


 私はその様子を、駅のホームで電車を待つ間に、反対のホームに立つ人物を眺めるように見ていた。


 女は服やバッグだけでなく、髪の毛の一本一本から煙草に火をつける仕草、身に纏う雰囲気までが高級で洗練されており、それら一つ一つにかなりのお金がかけられているようだった。


 きっと、その身なりと振る舞いに見合った場所に行けば相応の扱いを受けるのだろう。しかし、その日暮らしのような毎日を送る、しがない私立探偵が一人いるだけのこの雑居ビルの一室では、ただの嫌みがかった女でしかなかった。


「気に入らないな」

 私ははテーブルの上で暴力的に振る舞う一万円札の束に視線を落として言った。


「よければ、その理由を教えてもらえるかしら?」

 女は、本当になにが気に入らないのかわからないといった様子で言った。


「……世の中には金さえ積めば大抵のことはどうにかなると本気で思っている連中が少なからずいて、今のところあなたもそういう種類の人間に見える」

「それで?」

「そういう連中は、一日の終わりにささやかな一杯を楽しんでいる人間だって金で簡単に動かせると思っている」

「あら、なにか間違っているかしら」

 女は滑らかな動きでサングラスを外すと、自分が間違っていないことを確かめるかのように真っすぐに私を見た。


 私ははその視線の問いに答えるように、小さく首を横に振る。


「いいや、間違っていないさ。おおむね正解だ。しかしそれは、ほとんどの人間は喉元にナイフを突き付ければ言うことを聞くと思っているのとさほど変わりはしない、野蛮で乱暴な考え方だ」

 そして、そう言った。


「クライアントに対してずいぶんな言い草ね」

 女は少しばかり呆れた様子でそう言った。


「残念ながら、あなたはクライアントじゃあない。少なくとも今のところは」

「少なくとも今のところは――」

 女は私の言葉を繰り返すと、煙草の煙をゆっくりと吐き出した。


「ということは、この先クライアントになる可能性も存在しているワケね。だとすれば、それなりの態度というものがあるんじゃないかしら」

 そして、そう続けた。


 私は、やはり面倒な客だ。と確信し、ため息をひとつついた。


「あなたがもし、この場所でご機嫌取りを期待しているのなら、それはお門違いというものだ。表通りの高級フレンチレストランにでも行った方が良い。呼びつける度にうやうやしく頭を下げるメートルに、全ての料理を逐一説明にやってくるシェフ。一皿ごとに新しいワインを開け完璧なマリアージュを演出するソムリエ。あなたの機嫌を取ってくれるのは、たぶんそういう人たちだ」

「あいにくディナーはもう、済ませたわ」

 女は、簡潔に事実だけを述べた。


「そうか、それは良い情報だ。私はあなたに紹介できるような素敵なレストランを知らないのでね」

 私がそう言うと、女は煙草の火を灰皿で消した。

 熟練の伝統工芸職人のように、ゆっくりだが無駄のない動きだった。


「……私の勘違いでなければ、アナタはどうも依頼を受けたくないように見えるわ」

 女が言った。


「あるいはそうかもしれないし、もしかするとそうじゃないかもしれない」

 私の言葉に、女は春先の穏やかな夜には少々冷たすぎる視線を投げかけた。


「探偵なんてもっとドライな人種だと思っていたわ。私は仕事を依頼してほんの少しばかりお金を手放す。アナタは仕事をこなして普段より多くの報酬を手にする。そこにはなんの問題もないはずよ」

「あぁ、問題ない。哀れなプロレタリアートは傲慢なブルジョワジーによって利用される。なにも問題はない。社会は健全で正しく機能している」

 私は目の前の、資本主義のメタファーとしての一万円札の束に向かって肩をすくめてみせた。


「その金額じゃあ不満ということかしら?」

 女は、私の仕草を見て言った。


「とんでもない。一介の私立探偵には十分すぎる金額だ。そしてこれは、金額の問題じゃあない」

 私はは女の疑問を否定すると、ウイスキーグラスを手に取り、琥珀色に輝く液体をゆっくりと口に含んだ。


「そう。金額の問題じゃあないとすると、アナタは人生になにかしらの――おそらく他人には理解し難い価値基準を持って生きているのね。そして、それを大事にしているようだけれど、私にしてみれば、ずいぶんとくだらないことのように思えるわ」

 女はそう言うと、新しい煙草をくわえて火を付けた。


 そして、私のささやかな矜持など吹き飛ばすように煙を吐いた。

 煙はユラユラとなにかの輪郭を縁取って、そしてすぐに消えていった。


「まったくだ。しかし、一見くだらないとも思えるものこそが重要なときもある。本当に大事なものは目に見えないものだ」

 私がそう言うと、今度は女がため息をひとつついた。


「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからとでも言うつもりかしら? 残念だけれど、私は砂漠を美しいと思ったことは一度もないわ。それにアナタはどう見ても王子様には見えないわね」

「あなたがどう思うかは自由だ。世の中というやつは多面的にてきている。見る角度によって見え方は違うし、考え方も変わる。そして、その数だけ生き方が存在している」

「否定はしないわ。けれど、見る角度をを変えることだってできるはずよ。アナタにほんの少しの柔軟さと器用さがあるのなら、明日には今よりもマシなベッドで眠ることができると思うけれど?」

 その言葉に私は少しだけ笑う。確かに女の言う通りだった。


「まったくもってその通り。しかし、私は今までこうやって生きてきたし、これからもこうして生きていくつもりだ。それが正しいとか、正しくないとかにかかわらず」

「くだらないニヒリズムね、それともロマンチシズムかしら? 到底賢い生き方とは言えないわね。けれど――」


 女はそこで一度、言葉を区切る。今から世界の真実を打ち明けるみたいに、一瞬の沈黙が流れる。


「嫌いでもないわ」

 そして、そう言った。


 私は女の顔を見た。

 ほんの刹那かあるいは数秒か、二人の視線が重なり合ったあと、私はは諦めたように言った。


「依頼を聞こうか」

 私がそう言うと、女はわずかに微笑んでハンドバッグから一枚のメモを取り出した。


「これは?」

 私はは差し出されたメモを見て言った。


 メモにはボールペンの冷たく尖った筆跡で、どこかの住所が記されていた。


「その場所へ行ってきて欲しいの。多分、バーがあるわ。とても落ち着いたオーセンティックバーが」

「多分とは?」

「今はもしかしたらもう無いかも知れない。最後に行ったのは、もうずいぶんと昔よ」

 女は左手の人さし指と中指でそっと下あごを撫でて言った。まるで、記憶の縁をなぞるように。


「それで?」

「もしそこに今でもバーがあれば、そうね……。そこで一杯飲んできて、できればギムレットを。それだけでいいわ」

「それはいい」

 私は小さく鼻で笑う。


「ギムレットのレシピはジンとライム・ジュースを半分ずつか? しかし、私はすでにまっさらなウィスキーを開けている。少しばかりギムレットには遅すぎるようだ」

 そしてそう言うと、ローテーブルに置かれたアーリータイムズのボトルに視線をやった。


「私はいたって真剣よ」

 女が言った。 


「そうか、なら私も真剣に答えよう」

 私は手に持っていたメモを女に突き返すようにローテーブルに置いた。


「バーに行き酒を飲む。そんなものは到底仕事とはいえない」

「そうかもしれないわね。でも、とても大事なことなの」

「理由を聞かせてもらおうか」

 私は問い詰めるように女に尋ねる。


 女は少しだけうつむいて視線を逸らすと、なにも答えなかった。


「やれやれ、秘密というわけか」

 私は呆れて首を横に振る。


「仕事とも言えないような単純な依頼に高額な報酬。はっきり言って普通じゃない。そういった場合、大抵は別のリスクが伴う」

 そして、そう続けた。


「別のリスクとは?」

 女は気を取り直すように足を組み替えて言った。

 スーツの上からでもわかる、余計な肉のないしなやかな足だった。


「非合法なブツの受け渡しや運び屋、おとりにアリバイ工作。知らない間に犯罪に利用される。そうやって良いように使い捨てられ、もう見なくなった同業者を私は何人も知っている」

「優秀だって聞いたけれど、ずいぶんと臆病なのね。それとも臆病だからこそかしら」

「そう、私は臆病だ。そして優秀なんかじゃあない」

「評価というものは自分で決めるものじゃあないわ。少なくとも私が調べた中ではこの辺りじゃアナタが一番だった」

 

 私は肩を落とし、首を横に振る。


「あなたがどこで私の評判を調べてきたのか知らないが、他人の評価なんてのはタブロイド紙みたいなものだ。合っているのはせいぜい日付くらいで、後は好き勝手なことを並びたてる」

「日付だけでも合っているなら十分だわ」

「では、私から日付分のアドバイスをさせてもらおう。今すぐそのメモと現金をハンドバックに戻し、この事務所を出て、私よりも優秀なほかの誰かに依頼するか、あるいは自分でその場所に行くことをおススメする。どうか参考にしてくれ」

「ひとつだけ信じて欲しいのは――」

 女はほとんど吸わずに灰になった煙草を無造作に灰皿に押し付けて言った。


「この依頼はこれ以上でもこれ以下でもないし、余計なリスクも存在しない。そして、お金は少しも問題ではないの」

「では、いったいなんのためにこんな依頼を?」


 女は少しだけ間を置くと、つぶやくように言葉を続けた。


「……私はたくさんのお金を手にしたわ。でも、そのために置き去りにしてきてしまったものがある。それが今でもそこにあるのか確かめて来て欲しいの」

「自分で確かめればいい。ここからそう遠くない」

 私はメモに視線を落とし、書かれた住所を確かめて言った。

 その場所は、ここから徒歩でも三十分もかからずに行ける距離だった。


「……私にはとても遠いわ」

 女は私を見て言った。

 しかしその焦点は、私の向こうにあるどこか遠い場所で結ばれていた。


「男か?」

 私がそう尋ねると、女は悲し気に笑う。


「野暮ね」

 そして、そう言った。


「感傷だな。あなたは多くを手に入れた後に、古き良き思い出をプレイバックしようしているだけに過ぎない」

「そうね……。あの頃に戻れるなら全てを投げ捨ててもいいと思う。けれど、もう二度と戻れないこともわかってる。だから、これが私にとってのお別れの方法なの」

「私はあなたの人生を知らないし、知りたいとも思わない。ただ、すで終わったことに対して出来ることがあるとすれば、それはさよならを言って、少しだけ死ぬことだ。人は思い出では生きていけない」

「それがアナタの強さなのかしら」


 女の言葉に、私は小さく首を横に振る。


「残念ながら私は強くないし、優しくもない。ただ、強いフリをしているだけだ。そうやってなんとか毎日を生きているに過ぎない人間だ」

「……きっと、それは私も同じね」

 女はそうつぶやくと、それ以上なにも言わなかった。

 ただ、灰皿でくすぶる煙草から立ち上る煙をじっと見つめていた。


 女はゆらめく煙の中に過去を見ていた。私はその向こうにある今を見ていた。


 私はウィスキーグラスを手に取ると、その中に失くしてしまったなにかを見出そうとした。しかし、そこになにかを見つけることは出来なかった。

 なぜなら、私はまだ、なにを失くしてしまったのかさえわかっていないのだ。そして、その答えを知るためにこんな仕事を続けているのだ。


「……今から行ってこよう」

 私は少しだけ考えてそう言うと、グラスに残ったウィスキーを飲み干した。

 氷の溶けてしまったウィスキーはずいぶんと水っぽくなってしまっていた。


「ありがとう」

 女は小さく、しかしはっきりとそう言った。


 女は私に連絡先を教えると、来たときと同じように静かに事務所を出て行った。はじめからそんな人間などいなかったかのように。

 後に残されたのは、しがない私立探偵が一人だけだった。



 暖かい朝だった。穏やかな昼だった。そして、静かな夜だった。


 ローテーブルの上では札束が飼い主からはぐれた猟犬みたいにじっとしていた。

 私はその哀れな猟犬をテーブルに残したまま、メモを掴みポケットに突っ込んだ。そして、ジャケットを羽織ると事務所を後にした。



 女には向かない職業。誰かが言っていた。

 しかし、こんな仕事は男にだって向かない職業なのだ――

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