第4181話

 それからまた二週間が過ぎ。ゴブリン達とも仲良くなったカテリーヌは、すっかり洞窟の家族の一員となっていた。


「先生に出会えていなかったらと思うと、恐ろしくてなりません……昔の自分の事を思い出すと、顔から火が出そうです」


 まあ確かに、一年前の彼女であれば魔物と仲良くなる事など考えられなかったかもしれない。手の空いた時間にゴブねちゃんと花の冠を編んでいる所なんか、普通の女の子同士のようである。


 ゴブ美ちゃんは二人目の子供を生んだ。俺は生まれた女の子にゴブよちゃんという名前をつけ、木の実と草花で作ったお雛様を飾った。


「先生、それは」

「俺の生まれた国の風習だよ、女の子の健康にすくすく育つようにという願いを込めているんだ」


 何事にも筋のいいカテリーヌは剣道の教え方もすぐに習得してしまった。これは俺なんかよりよっぽどいい先生になれそうだ。

 教える事のなくなった俺は、カテリーヌに日本剣道形を教えてみた。意味はわからないが段級審査に必要だからやらなきゃいけない、あれだ。もちろんこの世界には段級審査などないだが……しかし彼女はことさらこの稽古を喜んだ。


「先生の剣の神髄が凝縮されたような、素晴らしい修行です……! 先生! もう一度最初から御願いします!」


 まあ俺も剣道形の稽古は好きだったよ、掛かり稽古の100倍楽だからな。どういうわけか、カテリーヌは汗をかき息を切らしてやっているが。


   †


 そしてまた、平穏な日々が過ぎて行く。


 人数も増え土木工事もやりやすくなったので、俺たちは冬のうちから沼の一部を干拓し、耕地を増やしていた。これできっと、食べきれない程の作物が穫れるぞ。

 沼地全体の風景もだいぶ変わった。俺が来た頃は木々の墓場のような陰鬱な場所だったが、毎日手入れをして道や堤を整備した今では、ちょっとした親水公園のようだ。

 竹で作った水道は洞窟の近くまで森のきれいな水を届けてくれる。ゴブじろうの酒造りにも磨きがかかった。

 充実だ! 俺の異世界ライフは充実している! これはもうサバイバル生活なんかじゃない、俺はこの場所に小さな文明を築く事に成功したのだ!

 ある時、俺がそんな事を思いながら物見台から里山の光景に目を細めていると。傍らに居たカテリーヌが、おそるおそる尋ねて来た。


「あの、先生……先生の本当のお名前は、なんとおっしゃるのでしょうか」


 その瞬間、俺は思った。

 あれ……? 俺、なんでここにずっと住んでるんだっけ……?


 勇者カテリーヌの剣の師範として鳴り物入りで社会復帰するのは嫌だというのはある。ゴブじろうたちとの生活に不満があるわけではない。

 だけど俺、別にもうここに居なくてもいいんじゃないの? カテリーヌに頼んで連れてってもらえばいいじゃん? 人間の町に。

 ゴブじろうたちには、会いたくなればまた会いに来ればいい。後で人間の町より洞窟の方がいいと思うようなら、改めてここに戻って来ればいい。

 あるいはそこまで覚悟を決めなくてもね、いっぺん人間の町に遊びに行ってみてもよくない?

 恐竜は居なくなった。洞窟を襲う冒険者ももう現れない。俺が居て守ってやらなきゃいけないような脅威も、しばらくはないのでは?


「先生?」


 カテリーヌの声で、俺は我に帰った。えーとどうしよう、まずは彼女の質問に答えようか。


「俺の名前はボボバビ、他の名はない……俺を名前で呼びたいのか」

「そ、それはそのっ! いえ……これからも先生とお呼びさせていただけたら」


 そうだそうだ、町へ行こう! 恐竜の干し肉はまだまだあるけど、俺達だけでは痛む前に食べきれない、そんなのもったいないじゃないか、あれを担いで行って売ったらどうか? それで首尾よくお金が出来たら、色々買い込んで……ゴブじろう達にも色々渡せるかもしれない、世話になったお礼にさ。


「コホン。あー、カテリーヌ。俺は一度、里へ降りてみようと思うんだが。余った物資を売り、ゴブじろうたちに必要な道具を買い揃えたい。それでその……お前も来るか?」


   †


 お前も来るかも何も、道を知らない俺はカテリーヌからはぐれたら100%迷子になるわけだが。

 ゴブじろう達は総出で、俺の異世界に来て初めての遠出を見送ってくれた。


「ボボバビ!」「ボボバビー!」


 みんな、俺が見えなくなるまで手を振ってくれる……大丈夫、おみやげたくさん買って来るからな!

 俺は沼地を離れ、森の中に入って行く。


「ゆっくり歩いて行くのもいいですね先生! 最近は走って通り過ぎる事ばかりでしたから」


 大荷物を担いだ俺はカテリーヌの先導に従って歩いて行く。彼女は荷物を持たせて欲しいと言っていたが、俺は自分が担ぐと言い張った。だって、そうじゃないと格好がつかないじゃん。


 そして森の中には魔物も居た。例えば、動物を消化して栄養にする事しか考えていない、沼に現れるのの10倍でかいスライムとか……


「露払いはお任せ下さい、先生」


 しかしカテリーヌがそう言って木刀一本ですぐに退治してくれる。

 そして時には、他のゴブリン達と出くわす事もあった。


「ビババ、ビババ、バオー」


 だがカテリーヌがそう言って笑顔で手を振ると、向こうも不思議そうな顔で手を振り返して来る。この子、ゴブリン語だって俺より上手くなったのでは?


「剣の道だけではありません。先生と出会ってから見える物全てが変わりました」


 ゴブリン達と友好的に別れたあとで、カテリーヌはそう言って微笑む。


「先生に出会うまで、私の目に見える世界には白と黒しかありませんでした。そんな私に先生はおっしゃいました、己が目で見て、己が心で感じろと……私の目に見える世界に、彩りがあふれました輝く緑、透き通る青、心揺さぶる赤……」


 俺は思わず立ち止まっていた。自分の好きな事を語るカテリーヌのなんと美しく可愛らしい事か。この子が普段俺に向ける表情は真剣な顔ばかりで、もちろんそれはそれで美しいのだが。

 カテリーヌも、立ち止まって続ける。


「この世界は、何と美しいのでしょう……森の木々も草花も、虫や動物も。豊かな水をたたえた湖も清らかな川の流れも、それを教えて下さった先生も、私は世界の全てが大好きになりました。青い空も白い雲も、剣術も、その剣で守るべき人々とその営み、それから……その……あ……え……」


 話の途中で、急にカテリーヌの様子が変わる。どうした? 何だか顔が赤く、いや紅に染まって行くようだが。俺の後ろに何か居るのか? 俺は後ろを向いてみる。何も居ないぞ? しかし次の刹那。


「きゃあああああぁぁぁぁ!?」


 カテリーヌは絹を裂くような悲鳴を上げ、いきなりどこかへ走り去る。俺が向き直った時には、彼女の姿はどこにも見えなくなっていた。

 ちょっと待ってよ。俺は道を知らないんだってば。


 おーいカテリーヌ? どこへ行ったー?

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